朝OK 夜OK


 相変わらず寒い。
 寒くなると据付の冷蔵庫のものが凍り始める。
 今日は水がシャーベットになっていた。
 牛乳が凍らないだけマシか。
 単に、温度設定ツマミをいじればいいだけなんですけどね。

境界

 ああ、偏差値病の感想を書いてみたい。というか、ただのひがみなのだが。

 私の高校は、進学校ではあったが、教師側が「生意気な思想を弄する前に最低限度の知識を持て。話はそれからだ。」という一方、生徒側が「勝手にやらせろや、ボケ。」という構図で、双方がそれなりに対立しているような状態だった。おかげで、ペーパーテストの上位層は人生や将来について思索にふけったり、ひたすらスポーツに時間を費やしたりし、下位層は、「勝手に」を良いように解釈して、享楽的に日々を過ごし、ペーパーテストも悪ければ、人生や将来についても現実逃避するだけという状況だったように思う。
 私は、下位層のなかでも、人生や将来について結構考えていた方ではないか(そう信じたいだけかも知れないがスルーする。)と思うのだが、国内でも有数の上位層が同一教室にいるという珍しい状態であるため、そういう関連の話をする機会も当然多かった。ここで思い知るのは、上位層の問題意識、論理展開などにかかれば、下位層の考えることなどゴミ同然であることだ。思索するにもそれなりに知識が必要という私の考えは、このときの経験から来ている。
 また、著者の言う『「暗記をしてモノマネが幾ら上手くなっても、それでは並み以下の評価しか得られない」』と同様のことを上位層の彼/彼女らは頻繁に言っていた。「一般に(ペーパーテストなどで)示される問題と解答はただの出発点で、そのからの+αは自分しか出せない問題になる。」と。+αとは、いわゆる『独創力、イノベイション』に該当するだろう。
 ただ、その出発点にいても、生活にさほど問題ないと感じる人もいれば、より充実した生き方を求める者もいるだろうが、それ以前に、出発点に到達しない者がかなり多いように思う。
 私の同じクラスになぜその出発点に立てないのかを探求する上位層の子がいた。私のような教科によって学内順位が下から1桁と上から1桁が存在するような両極端な人間は恰好の観察材料だったらしく、勉強を教えてもらう際に「なぜ分からないか分からない」とよく言わしめたものだ。
 というような彼/彼女らの高校時代の思索が、彼/彼女らのその後の人生に資するものであったのかどうかは全く分からない。逆に『今の時期にしか悩めない問題がある』というより「今の時期にしか悩まない問題である」場合、有限の人生において悩んだこと自体を後悔しているかも知れない。個人的には、「思索するにもそれなりに知識が必要」と考える関係上、出発点より上か下かで本人の後悔の有無に関わらず、有益か害悪かがさらに分かれる気さえする。
 先の出発点付近のどこかに境界面があって、それより上は、さらなる高みを求めて思索するが、その下は、どちらに向かっているかも不明でやがては力尽きて底に沈んでいく。この境界面での透過性が心許ない気がしてならない。
 少年易老學難成をもって、五十而知天命とするか、むやみに刻んだ歳の数とするのかという違いはどこからくるのだろう。