組織構造

 某記事で、多分理論の支柱になっていると思われる『「任意のボランティア団体」を「廃止せよ」というのはイコール「禁止せよ」と同じことである。結社の自由をふみにじる行為だ。』という一文があったので、少し書いてみる。
 著者の意向が完全クローズド(全幅の肯定を持つ者のみオープン)のようなのでリンクしないが、正直なところそういう考えもあるのか、という感覚である。
 これを基点として組織の必要性(というよりは現存する組織の存在自体を肯定するか否定(別のものに作り変える、修正することも含む)するか)の議論と組織の運営形態、構造が『任意か強制か』の議論を分離しろという方向性とされている。
 確かに基点をそこに持ってくると論理展開としてそうなってしまうわけなのだろうが、著者が意識しているのか否か、また意識していたとしてそれがいかなるものか推測しかねるが、その組織における/対する現状の問題点、端的にいえば加入の自由が認められているはずの組織がそのように運営されていないと感じてしまうことを解消することは残念ながらできないように感じる。
 そして、著者も記事の約半分を用いて自ら設定した理論とは別に、具体的現象をミクロ的観点から理性的に解説することで感情論から距離を置こうとする手法を用いてその緩和をを図ろうとしているように思える。
 そこに理論的な認知が著者にあるかどうかという話だが、それはそれでどうでもよいことにする(当人もそれを望んでいない)が、個人的にこの手法が抽象的な事象に関して議論を行うことそのものが目的ではなく、決めごとと現状との乖離によって苦しんでいることを解消する上でその原因側に手をつけるための方法論の模索が目的であるとするならば、原則論を基点として議論を分離することは感情を持つ者、そしてその集団をなす者を分断するだけで、解決の糸口を見出しにくくなるのではないかと個人的には思ってしまう方なので、どうなんだろうと考えてしまった。(まぁ、これも当人が意図したかどうかは不明だが、「結社」などという高度な用語を振りかざしている以上、緩やかな連携であるとかその場で形成される緩やかな合意形成などを座礁させる一手法であると認知しているものとして提案される事項であると解釈されても致し方ないかもしれないが、それもどうでもいいことである。)
 また、単に今回の件がPTAというある意味戦後処理中に色々むにゃむにゃした理由から設定された事物に対して、言って変わったためしがないという観点から先の「苦しんでいること」を精神的に緩和するための精神的な活動であるとするならば、なおさら条件を設定することは効果的であるとは思えない。

 ここまで書いて定義をし出すのも変な話だが、「任意」と「団体」を並べてしまうと既存の定義とごっちゃになるので、とりあえず使わない方向でいく。(ここより前でも参照以外で使っていないが)
 で、著者は『結社の自由』を持ち出しているが、法解釈の面や法倫理、思想などの点からその幅は広く、一意に定められるものではないとは思う。
 著者の書きぶりからするに、著者にとっての『結社の自由』とは現存する団体においてその存在が脅かされることを許さないこと、と解釈しているように思える。
 確かに、運用上、およびその権利の成立過程から考えれば、団体の存在定義とその有無を一方的に設定できないことを規定することで行動の制限を解いたわけで、分からなくもない。
 ただ、今回の件の組織における特徴的な点は、著者の『結社の自由』によって設立され運営されていると謳われているわりには、一方的に構成員にされているかにみえて、「結社の自由」の1つである団体を解散する権利については、あたかも団体の都合に応じて構成員にされなくされることで権利はないといわれていると感じる者への論理的説明にはなっていない気がする。
 しかしながら、「結社の自由」を構成する団体を結成、設立、運営する権利、運営の1つに含まれるかも知れないが一時的に集まって活動する権利、その団体に参加、脱退する権利、団体を改廃する権利等のそれぞれは必ずしも競合しないとは限らず、またそのいずれが優先されるかは他の権利との競合も含め複雑な問題をはらんでいる。
 多分、声をあげる者の感情的な部分を論理的に紐解くことができないのは、こういった競合が前提で運用されているもとでの競合が顕在化した個人を様々な立場からいかに認知するかという観点に立てていない(正しくは、その個人とは幾分離れた1つの立場を説明する論理にしかなっていない)ことに起因するかのように感じる。
 まぁ、乱暴な話ではあるが、昨今様々な領域で問題視される硬直化した団体、組織の問題を『結社の自由』で議論してしまうとそれが『任意か強制か』にかかわらず思った以上に問題は解消しないし、外部(内部も含むかも知れないが)からは硬直化された状況を望む既得権益者の論理だといわれかねない時代背景があることもこういった/これに類した論法の使いにくさがあろうとは思うが。



 で。
 結局のところ、今、議論の中心になっている者以外からすれば、もはや巻かれるしかないわけで、どうにかするんじゃなくてなるようにしかならないという形で日々対応するしかないという気はする。
 私自身は、住んでいる所と地域のガラ(ある意味過去からの経緯、しがらみ)とカネという立場を自らに対して恨むしかねーやな、などと思って諦めてきたが、どうなんだろう、、、、とか思ったりした。
 とはいうものの、現在議論に参加している者の中から先人を嘲笑うかのごとく数十年現れなかった者どもを易々と乗り越えていく改革者が現れることを望んでいたりする他力本願にすがる者もここにいたりはする。