検査をしなくても大丈夫な毎日

 丸善石油化学宇部興産のグループ会社といった形で、俺も私もとこぞって検査不正を行い始めると、逆にしてませんという方がうそ臭く思える昨今。
 先日、知人と品質検査についてとりとめない話をしていた際になるほどなぁ、と感じたことがあったので書き留めておくことにする。
 勝手に肉付けしているので当人らが考えていた主旨からずれているかもだが。

 で、品質検査、などとざっくりことばに表して勝手に思い巡らせたりとりとめなく話ししていたりすると、何の内容なのだが発散していってしまうのだが、仮に生産した製品のとある1品が製品に求められる性能を有しているかどうかを確かめる工程であるとする。
 とりあえず、JISとかの定義でいえば、品質というのは前世紀だと「使用目的を満たしているかどうかを決定するための評価の対象となる固有の性質・性能の全体」であって今世紀だと「本来備わっている特性の集まりが要求事項を満たす程度」になっていたりするし、検査というのは「一つ以上の特性に対して、測定、試験、検定、ゲージ合わせなどを行って、規定要求事項と比較して、適合しているかどうかを判定する活動」となっているが、まぁ、あたらずといえども遠からずということで。
 ここで、すでに「遠からず」となっている箇所を考えれば、どこに誤謬が存在しているのかは分かってしまうのだが、まずは置いておく。

 「性能を有しているか」というのもこれはこれでざっくりしているわけだが、結局のところそそれを確かめる行為を分類すると、一応セオリーどおりにやるとすれば、(1)判定基準の設定、(2)測定、(3)合否判定となる。
 が、ヒト自らが能動的に行う必要がある箇所は(2)の測定であって、実質的に(1)、(3)はヒトの意志だとか望みだとかとはおよそ無関係な、ひどく悪意のある言い方をすれば規定値である。
 ここで、(1)〜(3)というプロセス群をシステムとして整合性を保たせるためには逆算的に(2)でしか辻褄が合わせられない。
 この考え方に近いことが提示されていたのは、例えば三菱の報告書とかである。
 また、(1)と(3)が先述の「規定値」であるため、(1)〜(3)というプロセス群がウォーターフォール型であればあるほど(1)と(3)の一致性、連続性、整合性に対して(2)が抵抗要因となる。
 当該システムの効率化という純粋な観点から見れば、プロセス間の整流化を図ることでシステム全体を効率化する目標を阻む要因は(2)であると考えてしまうことが可能となる。
 ただし、一般的にある程度の倫理観を持つ者がシステム内にいるとすれば、どこかで歯止めがかかるのではないかと考えられる気はするのだが、ここで、歯止めが阻害される要因としてよく聞かれる上下関係とか自己保身とかいった我慢だとかありじこくのような身動きが取れなくなるなどという現象とは別の、1つの考え方を導入する。
 それは、検査をしてもしなくても検査するはずだった当該品の品質に変化はない、というものである。
 極端で先鋭化したものを挙げるとすると、例えば、製造している冷凍エビフライを検査したからといって格段に美味くなるわけでもないし、エンジンの性能検査をしたところで燃費がよくなるわけでもない、といった性能や機能、数量などの向上、増大に寄与することに伴う付加価値の増大(=利益の拡大)を検査はもたらさない、というものである。
 本質的に(3)が製品に対して付加価値を生んでいるはず(見え方にもよるし、またそれによってその付加価値は多岐に渡るのだが、例えば一般小売での消費者の目線からすると「お墨付き」みたいなものだともいえる)ではあるのだが、現にその付加価値が失われることによって企業や事業が存続不可能になっているケースがほとんどない(特に大企業においては、だが)ことからするに、思った以上に事業利益から考えれば重要視されるべき項目ではないという、逆説的にある意味辛辣な見方である。
 また、求める性能を技術的などの理由から常に持ち合わせていない場合(三菱に限らず東洋ゴムの免震ゴムの件や東亜建設工業の地盤改良の件なども含めてよいと思われる)を除き、先述の「検査をしてもしなくても検査するはずだった当該品の品質」に問題がなく自信があるという自負、悪くいえば盲信があることから、結果的に感情的、感覚的に整合がとれた状態はプロセスの整合も出口だけみれば取れてしまっているという1つのシステム論的帰結である。
 ただ、ここには2つのリスクが潜んでいると考えられる。
 まず1つめは、その事実が発覚するしないに関係なく、組織、個にモラルハザードが発生する、場合によってはシステムに組織、個によるモラルハザードを抑止する機能、プロセスをダメにする要因を内包することである。
 簡単にいうと、全体の品質には最初から問題はないので自身がどうこうしようが結局品質に問題はない、なのでちょっとぐらいはいいんじゃない?それを常態化してもいいんじゃない?それを突き詰めてもいいんじゃない?という行動様式である。
 およそ昨今の一連の不祥事に対して市場経済の中で私契約関係上問題解決されたのでOKと判断されるケースが多い中で、表面的に誰かが人事的に責任を取ったとしても、それだけでは当該モラルハザードが払拭されることはまずありえないし、何らかの別の企業としての活動が行われなければ難しいと思われる。
 それだけが原因とまでは短絡的に結び付けられないが、一端不祥事が明るみに出てしまうと、モラルハザードが払拭されないまま事業を続ける中で私契約関係上の問題が公知されるといった端緒から「繰り返される不祥事」などと報道されるといった再発という現象を説明する道筋も見えてくるかもしれない。
 ぶっちゃけると、今時、それなりの規模の企業において、品質に関して「いやいや、えーんやで、どうでも」とか下々に言って回っている経営トップはそうそういないわけで、逆に言っても言うことを聞いてもらえていないのは理由が別にあると考えるべきだろうし、同様な事案がおよそ無関係に一見「社会的」と表現できることから仮定しうる共通的な問題点の形と考えるものである。
 2つめは、「検査をしてもしなくても検査するはずだった当該品の品質」というものが、技術的、コスト的、人的、法的などの理由から低下(他社製品などとの相対的な場合も含む)し始めた、もしくは低下している場合に、どこかの時点で「検査をしてもしなくても検査するはずだった当該品の品質に変化はない」という考え方によって導かれる結果と現実が許容できない乖離となって表面化するということである。
 中学校レベルの「ばらつき」とか「ぶれ」いうものも全体の品質に影響する因子の1つであることは特に説明する必要はないと思うのだが、人心の領域でいえばこれまで通用した理論がどんどん通用しなくなるという負のスパイラルに陥った際に多くのケースでそういった単純な概念さえ思い至らないほど焦ったり追い込まれたりする。
 また、思い至ったとしても、営利企業であるがゆえに、効率化という名目で切り詰めてしまった状態から先祖返りでも起こしたかのようなリソースのを投入を行うことも簡単ではなく、さらに全体の品質の低下を食い止め、さらにさらに向上させることにもリソースを振り向けなければならない打ち破ることが前提の苛烈な二正面作戦下にあることに気付くことになりかねない。(経験上、逆に実感しない方が幸せだったりはする)

 もはや一連というより雨後のたけのこな不祥事に関して品質低下ということばを使うことが多い気がする。
 とはいえ、今回の考え方を用いれば、ざっくりしたところでいえば、まだ大丈夫なところにある可能性が高い。
 個人的には、かなり前に「不適切」と表現された運営会社ぐらいになると内包する矛盾の錯綜がひどすぎて、アウトプットされる製品の品質どころかシステム自体が降伏点を越えているレベルにある(だから不適切だし不適当と評価されたのだと思える)のではないのだろうかと想像するが、あくまで感覚的にではあるが、不祥事を連発(散発的に公表される状況を含む)していようと、市場主義的な領域において、例えば顧客がいなくなって企業が存続できなくなることが起きるといった相対的な品質のあからさまな低下にまで至っていないように思えるし、さらには低下していてもどうにかしてしまえる各所の力がまだ残っているように思うからである。
 1つめのリスクは、不祥事に対するセーフティネットが効けば効くほど、心理的な整合は取れ続けるし、放置することも可能になることから、セーフティネットを突き破らない限りリスクにはなり得なかったりはする。
 とはいえ、2つめのリスクは個人的に「まだ大丈夫」とか「もう大丈夫」とか「そろそろうまくいく」、「いやいやうまくいっている」みたいな感じに意識を持っていかれているような気がするという点から「大丈夫なのか?」といぶかしく思えてはしまう。
 ネガティブ思考であるがゆえではあるのだが、自身の中で、もう死んでてもおかしくない状態なのに無理やり延命するために薬を大量に投与して外見上(例えば指標などが)それっぽく見えているだけなのではないかという感覚がぬぐい切れないということもあって、実際は実態として下降局面にある?もしくは下降局面にあることをリスクとして大きめに捉えた方がいい?みたいに考えてしまう。
 古い人間というのは、全体の品質がよくなかったところからよくなっていき、場合によっては国内どころか世界で頂点、最上層にたどり着き、そして永く張り付いていたことを経験していることが多いと思われる。
 個人的には、負け組というか負けが混んできた企業で先述の二正面作戦下にさらされたこともあるけれども、全体品質が低下傾向にある状態を肌で感じてきた者は少ないと思うし、勝ち上がってきた大手企業経営者の多くに負け組の経験が豊富であるとは思えない。
 ただ、上昇時と下降時のそれは必ずしも鏡像のように逆回転で理解できるものではないのだが、少なくとも経験的なレベルで理解は可能かもしれない。(その理解も追いつかない状態ならば無理が出てくるとは思うが)
 もう少し若い経営者などであれば、生まれて以降全体の品質に関して良好な状態に張り付いている状態しか目にしていない可能性も高く、体感的に理解できなかったり、人によっては景気や売上に左右される何かかのごとく混同してしまう状態なんてのも目にしたりした。
 手前勝手な願望ではあるけれども、バブル崩壊後に生まれた特にピークでもなくかといって教科書に載るような極端な底割れを経験するでもない中を生きてきた若者であれば、下ぶれ傾向っぽく見える事態や現象に遭遇しても現実的な解決策を見いだすのではないか、とか思えたりする。
 んー、いくら年代が同じとしても、失礼ながら、世間的、ゴシップ的に(意味同じやけど)もてはやされるITバブルの残滓のような会社の経営者とかそういうのをイメージはしてないんだけどね・・・(とか、そんなくだらない話の一部を切り出した、って訳なんだけども)

 『品質管理を徹底するだけでは不十分で、検査項目や商慣習の見直しに業界を挙げて取り組む必要がありそうだ』と先の記事内にあるのだが、それも大事であることに変わりはないと思える。
 個人的には、特採があたかも暗躍するワルモノにされるぐらいなら、それらシステム等が明示され公知され何らかの後ろ盾(例えば法的に明記されるなど)が存在する形になるべきだと思う側なので。
 ただ、組織や会社、企業間のインタフェースにのみ注目して対策を行ってしまうと、その対策を自組織のシステムやプロセスそこに張り付く個に下位展開をした際、結果的に捻じ曲がった品質管理を強要させられてしまう可能性もなくはない。
 これも自身の経験からいっているだけで必ずしもそうだとは限らないだろうし、そもそもガバナンスって誰が主体なのさ?というような領域の話にもつながりかねない話なので展開はしなけれども。
 とはいえ、記者会見や報告書などを見聞きする限り、その原因を自組織内のヒトという要素に結論づける形式が多いところから考えてみれば、単に組織側の自己保身という捉え方もあろうが、対外的なインタフェースではなく企業とシステム間とかシステムと個間とか個と個間とか個と自身の内面(主に行動を規定するような考え方とか倫理観など)間とかのインタフェース(最後のは厳密にはインタフェースではないけども)においても適切でバランスが取れた対策がされなければならないような気がする。
 で、業界という観点で関連するかもということで、一方的にぶっちゃけられた話の一部なのだが、およそ企業間のインタフェース部分(いわゆる契約上の疑義)から不祥事が発覚していることが多いにもかかわらず、逆に業界全体の問題として捉えるにしては、株価などはそういったところは折り込み済らしく、発表時には瞬間的に下がってもすぐにもとに戻るらしい。
 とはいえ、私は株式なんかはやってないのでそれが正確なものかどうか分からなかったんだけれども。
 ただ、もしそれが正しいのだとすれば、いい意味で企業のありのままを受け取って評価していることだろうし、悪い意味で今回のようなある程度長期的範囲で見た場合のリスクには鋭敏に反応せず、人知れず潮が引くように反応するとすれば、その企業で働く側の事前対策の動機付けにはなりにくいのかな、とか思ったりした。