朝OK 夜OK


どうでもいいのかよくないか

 もしも「悪いことだが、いいか悪いか」と聞かれると、さすがにガキっぽい無意識の反抗心から「悪いから全てクソってのはないんじゃない?」と思ったり、とか。
 某新聞(Webでは有料会員記事なので「某」とする)の国語力云々の記事で『異変』なるものが表形式で提示されているのだが、それが何を指すのか、というところを考えてみたわけだが。
 以前から触れているように、言語というのはもともと意思伝達のために構成されているためにそれなりの整合性を保っていなければ機能しないわけだが、一方で一様ではなくかつ流動的に変化している。
 ある意味こういった状況を強引に集約させる事例として国内では明治期の標準語の制定に至る経緯であるとか、インドネシア語の変遷なんかの意図的に行う場合と逸散させないためのフランス語のような方式があったりする。
 その点では、現在の国内では思う以上に拘束力が緩く、かつ言語体系自体が一部を除けば移入し組み込みやすい状況を変えるような大きな力もなさそうに見える(一部の体系だっていない乱れ云々というゴシップを除く)こともあって、先の流動性を知覚することができるという状況に遭遇することが多いのではないかと思える。(海外でのよく似た事例である地域語とか方言扱いの言語との差異とかいった問題とは個人的には区別したい)
 とはいうものの、意思疎通とは結構次元の低いもので、およそ社会性などという領域でくくられてしまいがちだが、相手の意味するところは理解できたがことばなど(記述、読み方、用法、含意など広義の言語表現の要素)が間違っているというレベルであるのならば、個人的にはそこまでしてさらに高いところでどうこうしなければならんのか、と思うことも多い。
 また逆に、相手の意味するところが分からないことが、すなわちことばなどが間違っているに過ぎないとは一足飛びには考えらず、実のところ意思伝達の不全において言語表現とは別の様々な要因が存在する可能性を考慮する必要があると思える。
 当然、これを一足飛びに羽ばたいていく者に関しては当てはまらないと思うが、先の「間違えている」と感じるのは、流動性によって自らの獲得している言語体系の外縁に差し掛かっている箇所が顕在化したに過ぎないように感じたりする。
 が、当該記事の中身(主に前半)は実は流動性とはまた違う内容(論理的内容の複数の文での記述)なので横に置く。
 あくまで、表の部分の話、ということで。
 で、表の中身は『※取材に基づく』と書かれているとおり、いわゆるゴシップ的に取り扱う「日本語の乱れ」といった記事にありがちな内容がそこそこ羅列されているので、実のところ記事の本論(といっても前半ぐらいなんだけど)とは別、ともいえる。
 確かに、似かよったありがちな方向に持っていったほうが楽なんだろうけど、それは置いておくとして。
 ただ、今回はおもしろい事例が載っていてなるほどと思ったので、とりあえず、分類してみる。(参照してないので転記してない)

 (1)群
  ・「違った」を「違かった」と表現
  ・「~きや」を江戸弁と認識
  ・「きれい」の否定を「きれいくない」と表現
  ・「祖父・祖母」が言えず「おじいさん・おばあさん」と表現

 (2)群
  ・「母」を尊敬語と認識

 (3)群、(4)群
  なし

 (5)群
  ・ビジネス文書に感嘆符を入れる

 (6)
  ・会社のWebページからの問い合わせ欄に絵文字を入れて送ってくる

 (7)
  ・論述テストで接続詞を「→」と表現

 (8)
  ・好きな子にいじわるする異性の心情がわからない

 ここで、(1)では、主に単語や成句の意味のゆれや表記、活用のゆれ、新しい表現を指し、およそ多く槍玉に挙げられる項目と思われる。
 中身だけど、なんだろ、「~きや」をからかわれたのに難癖をつけるのは、さすがに大人気ない気はする。
 あと、「祖父・祖母」と「おじいさん・おばあさん」だが、後者の方が意味が広く該当者が多くなるにもかかわらず、双方の認識が「祖父・祖母」と限定できているなら受け取る側のわがままかもしれない。
 逆に「おじいさん・おばあさん」が何度かの言語のやり取りを行わなければ「祖父・祖母」にまで限定できなかったのであれば、その違いの認識をうながしてもよいようには思える。
 (2)は敬語に関する領域で、別に(1)でも構わないが、戦後の風潮からして新しい表現が生まれることはなく、むしろ放置すればしぼんでいく表現のように思えたりする意味で少し意味合いが違うかと思うので分けている。
 また、(5)にも密接に関係する。
 ただ、ここでの事例は、『あなたの母』と表現したことに対し、理由をただしたところからするに、『あなたの母』が尊敬表現になっていないことを示唆したことにより、相手が『母』を尊敬語だと思ったなどという苦しい言い訳をした可能性があり、実態はよく分からない。
 いずれにせよ、大学講師と大学生のやり取りでの事例として挙げるには、双方大人気ない気はする。
 たとえ、学生側が本気で尊敬語と思っていたのであっても、恥ずかしいミスやし社会に出る前に正せてよかったやん、という気持ちにはなれないのかなぁ、余裕がないんだなぁ、、、とか思ったり。
 いずれにせよ、これはかなり毛色が違ったので、いいか悪いかは別として、別の要素を含んでいるおそれがあるよくない例ではあるが、すごいと思う。
 この項目でありがちな「おっしゃられる」とかの多重敬語も、個人的には、あぁ、頑張ってるなぁ、とほほえましく思う方なのでいいんだけど、人によっては過敏に反応するみたいなので、そういった感情的な面の違いを含めて(1)とは分けた方がいいのかもしれない。
 (3)、(4)は体裁と論理性で、後者は記事の本文(あくまで前の方)に挙げられている。
 前者は、単なる字下げとか、前略早々、英文のインデントとかがあるが、おおよそナチュラルに変態的なことをやらかしてくる事例ってのは、たいてい想像を越えてきたりはする。
 とはいえ、ここでは例が挙げられてなかったので深く掘り下げない。
 (5)は、古いことばで言えばTPOとかいった表現、記法の違いをどう捉えるかという部分で、マナーとかそういった領域だと考えていいように思う。
 感嘆符がどうのと言われると、さすがにビジネス文書にもいろいろあるでな、、、とかひねくれて思ったりはする。
 (5)というより(3)に該当するのだろうけど、某超大手企業の人によると、横書きの書類(管理文書のみにあらず)はすべて句読点は「,」「.」にしないとダメって会社が30年ぐらい前にあったんだが、今はどうなんかな・・・
 で、(6)~(8)は本来その他にあたるのだろうけど、真新しい事例なんで分けてみた。
 まず、(6)。
 えーと、いやなんだったらシステム改修したらどうかな。
 リテラシーの低い会社にリテラシーの低いユーザーがわくってことじゃない?
 (7)。
 どういう論述テストかという形式上の問題はあるにせよ、A→BをもしAならばBが成り立つことを示すのであれば、問題ないように思う。
 これが同値だとか論理的帰結であるとかならば、正す必要はあると思われるが、そもそも『接続詞』ってなんやの、『※取材に基づく』によって細かい部分が抜け落ちたんか?それとも大学教授が論理的表現に問題提起するのに『接続詞』って雑な表現するのか?とかもやもやしたりはするが、何というか、なかなかこういう事例は挙がらないかもしれない。
 何となくどっちもどっちな気がするし、そもそもこういったところにひっかからなくてもそれがすなわちより素晴らしい能力を持った学生であるようにもすでに思えないわけで、逆にもはや多数から多くの大学が研究機関だとは思われていないところからするに、学生にとって今分かってよかったと教授するのが役目となっているんではなかろうかとも思う。
 (8)。
 論外。
 学習塾代表の弁らしいけど、こんな人に子供あずけて勉強させたくないわ。

 ということで、いろいろ考えさせられる記事だった。