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同じといえば同じ?

 「昭和電工が資産の切り売り開始 武田薬品と同じ道へ (8/20 日本経済新聞)」ということらしいんだけど、「同じ道」とは何なん?という。
 微視的にみればぶっちゃけ金がないので資産を売ってどうにかするという点では同じかもしれんのだけども。
 あと、昨今よく見かけるカードを切ったら手元に残っているのはもはやカスしかないだとか、そもそもろくに切れるカードがないとかいう状態ではないことも同じなのかもしれない。
 ちなみにこの記事は日経ビジネスの記事を再構成しているらしいのでどうかは分からないけども、昭和電工側の話には、過去に触れたことのある日立化成の不祥事については全く触れられていない。
 別に過去の出来事が数的なやり取りに不可分に染み付いていなければならないわけではないのはないのだが、個人的には、はたしてシャイアーと日立化成は互いの社内で同じ扱いをうけるべくしてうけているのか、という点で異なっている気がする。
 『昭和電工の場合も、真っ先に売りに出ているのは日立化成の事業ではなく昭和電工側の事業。複雑な感情を抱く従業員は確かにいるかもしれない。』とあるけども、日立化成売却時の顛末を思い起こしてみれば、結果は簡単に邪推できる流れのように感じる。
 そして、それがまがいものだとしても似た挙動をするものだとするなら、聖域を抱え込んでしまったんだろうなぁ、とか思えたりする。
 字面の感覚的な点からすると聖域ってのはすばらしいところというものだと思うし、だからこそ強固に守られて味方を保護し支援するものであるはずなのだが、あくまで個人的な経験に伴う偏見ではあるものの、味方を後ろから攻撃するのがその領域な気がしている。
 ありていにいえばリスクを内包しそれを維持する力が加わっている状態な気がする。
 で、こういった場合のリスクはこの件に限らずどのような合併、買収案件でも存在はするんだろうけども、小説的な表現をするなら、先述の不祥事は複線だったりするんじゃないのかな、とか。
 一方、武田薬品工業の側はというと、最近の記事で「聖域なき」とかもう古語に近い表現がなされているのも目にするが、個人的に武田國男氏が社長をやってたころからそもそも聖域なんぞ存在してない気がする。
 そういう意味では、感覚的には何十年経っても変わらないってのはすごいなぁ、っていう。
 はたから見ている感じでは、先の内包するリスクはいつも引きずらないようにしているように映るので、シャイアーに関してもそうなんじゃないかなぁ、と思う。
 前者のどちらかとえいば連続して何かをつくり売っていく形態とは異なり、業態として外的なリスクと自然科学的な経営でどうにかなるものではないリスクが大きいこともあって、さらに後ろから撃たれるリスクなど抱え込んでいられないのも事実ではあろうけど。
 ただ、ここで内包するのは借金だけというのは確かなんだけど、シャイアーに関していえば案件がでかすぎて、ともすれば後ろから撃たれるまでもなく前から撃たれて死にかねない気もするけども。

 うーん、けど、結局金の話なんで同じか・・・・