さくら

 先日、スーパーに行くのにとある道を通ったら、街路樹のさくらの木が掘り返されてなくなっていた。
 少なくとも下の方から切っただけというわけではなさそうで、木があった場所だけ何もなく土が新しくなっていたので根ごと引き抜いたのではないかと想像してみる。
 で、さくらとはいうものの、少なくともソメイヨシノでないのは確実ではあった。
 なぜかというと、春、花の後に赤い果実(さくらんぼ)がついているのを見かけるからである。
 枯れていたり病害虫などによって木自体に問題が発生し、倒壊のおそれがあるなどというようなわけではこれまでなさそうだったので、およそ木に寄ってくる虫とか木から発生するゴミ(葉とか落果とか)とかが撤去の要因なんだろうか。
 個人的にはイチョウとかの方がよっぽどひどいと思うし、狭い歩道に何を思ったか無理やりヤマモモを植えて歩道全体が古い血のりのように赤黒く染まっているよりはマシな気はするのだが。
 ヤマボウシは、、、、落ちる実の数の問題か、あんまり気にはならないが・・・(ちょうど時期的に落ちているのでとりあえず書いてみた)
 まぁ、ツツジでも汚いと文句をつける人は市や県に連続イタ電レベルで恫喝する人もいるらしいので、そこまでいくと何ひとつ生えていない方がいいのかもしれないが、いろいろではある。
 ただ、今回の件で興味深かったのは、その箇所がいわゆるボンエルフ(生活道などで車道を蛇行させるように街路樹などをレイアウトするもの)内であったので、個人的にいつものことなのかなぁ、という気がしたところである。
 あくまで個人的には、だが、ボンエルフがどうも国内の交通に関する指向に合致していない気がする、というのが数十年来あることによる。
 私がボンエルフを始めて意識したのは、大学でそういうのを教わったのと同時期に市内のモデルケースとしてそれが施工された箇所が近くにできた、というのがあったときである。
 で、現物を見た印象はというと、一見恰好よさそうにみえるのだが、地理的に繁華街から下町に抜ける一方通行路であることと、およそその道路の通行車両の意識があまよろしくない(ボンエルフがなかった当時は夜間に代行運転の車が抜け道として爆走していたレベル。グーグルマップで見るといまや見る影もないが)こともあって、逆に危ないんじゃないのか?とか思ったりもした。
 一応、体裁としては車両のスピードを落とさせることを目的としているはずなのだが、造ってもスピードを落とさないので事故が起こり、事故の原因は道路の構造にある、的な話になりそうな気がしてならなかった。
 で、結果はというと、数年で縁石は削られたり歯抜けになり、木がへし折られれば撤去され新たに植栽されることもなかった。(単に市の予算の問題というのもあろうが適切に総括されたのかどうかは知らない)
 ちなみに、グーグルマップで現在の姿を確認すると、当時とは逆に歩道と車道がフラットになり、ところどころ当時の蛇行した道路形状が路面に確認できるに過ぎないありさまだった。(今を確認するには便利な世の中になったなぁ、それにしても)
 とはいえ、ボンエルフのような構造が受け入れられなさそうというのはあくまで感覚的な話で、その理由を表現することは未だにできないし、何らかの認知バイアスかもしれないし、ただの誤認かもしれない。
 ただ、少なくとも、運転速度と時間などといったような効率の観点からだけで表現し尽くせるものではないはずだと思う。
 いずれにせよ、構造的な問題という点から一部の自己のみの利益を優先させれば、例えば視認性が悪いので撤去しろと恫喝まがいの話が出れば、それはそれで対象物がなくなっても不思議ではないわけではある。
 さくらが消えた今回の道も抜け道になっている路線なので、トラックを含め爆走していることを懸念したものかもしれないし、単にその周辺で事故があったのかもしれないし、何ともいえなくはあるのだが。
 何はともあれ、ボンエルフ撤去の前触れなんかもしれんなぁ、とか思ったりもした。

あまり見たくない世界

 某九州の高校での校内暴力(狭義)((狭義)と書いておけば自分には分かるので事案の顛末を書くまでもない)に関して、当事者逮捕という形になったようである。
 対比するには時期が古過ぎるとはいえ、私の通っていた中学校もそういったレベルが極端に高かった(低かった?)ため、日常的であったが、義務教育内ということもあるとはいえ、数十年前は校内での行為は校内で処理するみたいな身勝手な治外法権まがいがまかり通っていたりしたので、事案化することもほとんどなかった(校外や学校関係者以外の目撃者がいた場合は別)りして、隔世の感もなくはない。
 直接的に経験したわけではないが、とある小学校教員が慢性的な打撲のため(理由は想像に任せる)、半年とかで異動願が受理されたとかいう話がありふれた話題として口にのぼっていた時代ではもはやない、ということかもしれない。
 とはいえ、数十年前と確実に変化したことは、悪い言い方をすると組織内犯罪の隠蔽という構造が取りにくい、もしくは関係各組織が当該組織の内的犯罪として認知しそれに対応せざるを得ない状況になってしまう(今回の場合は、TwitterなどによるSNSへの当事者らによる積極的意思をもった開示)道具が多くの者に数多く与えられてしまっていることにあろうかと思う。
 その扱い方が正しいのかどうか、そして行動自体が正しいかどうかとは無関係に、可能かどうかを考慮した際、可能ではある選択肢が過去よりかは増えてしまっていることがあるように思う。
 さらにいうならば、およそ選択肢が過去に選択肢として存在し得なかった時代に生きた者にだけ認知可能ではあるのだが、増えた選択肢のうち安易に選択できるもの(今風にいうならば拙速なコスパによる選択というべきか)はリスクが見逃されやすい、もしくはそこから終端の漆黒までの範囲のどこかであったりすることが多いように感じる。
 こういった部分は老いぼれの特権ではあるが、かといって有益に生かされる場面もほとんどといってない。
 ちなみに今回だって同様である。
 そういった意味では、見たくない世界、認知したくない領域だと、自身のこころの平穏だけを考えれば、ひどく薄情なものにもなってしまう。