あまり見たくない世界

 某九州の高校での校内暴力(狭義)((狭義)と書いておけば自分には分かるので事案の顛末を書くまでもない)に関して、当事者逮捕という形になったようである。
 対比するには時期が古過ぎるとはいえ、私の通っていた中学校もそういったレベルが極端に高かった(低かった?)ため、日常的であったが、義務教育内ということもあるとはいえ、数十年前は校内での行為は校内で処理するみたいな身勝手な治外法権まがいがまかり通っていたりしたので、事案化することもほとんどなかった(校外や学校関係者以外の目撃者がいた場合は別)りして、隔世の感もなくはない。
 直接的に経験したわけではないが、とある小学校教員が慢性的な打撲のため(理由は想像に任せる)、半年とかで異動願が受理されたとかいう話がありふれた話題として口にのぼっていた時代ではもはやない、ということかもしれない。
 とはいえ、数十年前と確実に変化したことは、悪い言い方をすると組織内犯罪の隠蔽という構造が取りにくい、もしくは関係各組織が当該組織の内的犯罪として認知しそれに対応せざるを得ない状況になってしまう(今回の場合は、TwitterなどによるSNSへの当事者らによる積極的意思をもった開示)道具が多くの者に数多く与えられてしまっていることにあろうかと思う。
 その扱い方が正しいのかどうか、そして行動自体が正しいかどうかとは無関係に、可能かどうかを考慮した際、可能ではある選択肢が過去よりかは増えてしまっていることがあるように思う。
 さらにいうならば、およそ選択肢が過去に選択肢として存在し得なかった時代に生きた者にだけ認知可能ではあるのだが、増えた選択肢のうち安易に選択できるもの(今風にいうならば拙速なコスパによる選択というべきか)はリスクが見逃されやすい、もしくはそこから終端の漆黒までの範囲のどこかであったりすることが多いように感じる。
 こういった部分は老いぼれの特権ではあるが、かといって有益に生かされる場面もほとんどといってない。
 ちなみに今回だって同様である。
 そういった意味では、見たくない世界、認知したくない領域だと、自身のこころの平穏だけを考えれば、ひどく薄情なものにもなってしまう。