今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

 ここで日記を書き始めるときにも同じようなことを書いたかもしれないのだけど、いまだにブログというのが分からないという。
 ことの起源としては、ウェブログの略で、参照URLに関して自分なりにまとめて記録したり、感想や論評をしてみたりすることだってのは感覚的に理解できているつもりなのだが、結局のところ、ブログというものが、SNSやら大きな意味でのソーシャルメディアとかがごっちゃになってきて得体の知れない怪物に見えたりするというのは大げさかもなんだが。
 いずれにせよ、私が開始した当時、はてなにはダイアリーもブログもあったのだが、一応服薬履歴を付けることが目的でダイアリーを選んで今に至るわけで。
 ただ、何となく個人のLogという意味でやっていることはどちらでもその適切性についてあまり変わらない気もしてはいるのだけども。

 で、個人的な文字というか文字群を作成する時の手法というのはもう30年ぐらい変わっていなくて(正確には進歩、能力向上をしていない)、およそ字数二桁までだといきなり手書きとか直打ちだが、それを超えると、修正、編集や推敲がうっとうしいのでデジタルデバイス(一番最初は、もはや知っている者は少ないであろうキヤノンが発売していたキャノワードというブラウン管内蔵のくそ重い日本語ワードプロセッサだった)に入力して加除を繰り返すため、完全に手書き(例えば原稿用紙のようなますめを埋めるようなもの)ができなくなった。
 小学校のころに宿題で出される読書感想文などの原稿用紙の枚数を指定(要は字数制限)されて書くことが当時いやでしょうがなく、いわゆる作文するための一手法である箇条書き→整理、再構成→文章化というプロセスも、その矢印間の転記が心を折る一番の要因だったりしたため、気が重かったりしたものである。
 それはさておき。
 Twitterで140文字というと、個人的に多すぎると思っていたりするし、著名人の方々がそもそも140文字では表現できないことが容易に想定できるテーマを複数に分けでtweetするのも本質的にどうかと思っていたりはするのだが、何となく1ミリ秒でも先に言ったもん勝ちみたいな世界からすれば、それはそれでしょうがないのかなぁ、という気もしなくはない。
 『140文字に抑えきれない思いをつづりたくなった』かどうか、という領域からすれば、「なんたらナウ」とか書いていた時代でさえも、個人的に持っているデバイスの面からすでに同時性も損なわれていたこともあって、該当しなさそうに見えはするが、思いをつづるとすれば少なからず140文字どころではないものを書き散らしてから加除、並べ替えなんかをするし、字数制限もなきに等しい場(過去1回だけ1日の字数制限を越えた。さすがにその挙動にびっくりした)を選んでいるがゆえに冗長でもほとんど無関係(脱線してさらにその先に線がないというヤツ)でも面倒臭いから削んなくていいやと残してしまうという意味で「抑えていない」ことは、ある意味正しいのかもしれない。
 というか、「おなかいたい」、「はらへった」、「だるい」、「ねむい」、「かえりは○○(スーパーとかの店名)で××(買う商品名)」ぐらいの10文字前後のものも確かに思いではあるものの、最近は書く意味もなくなりつつあるし。
 ソーシャル的に。
 なので、『新しい気づきを仲間と共有したくなった』ときとか(上の例だと新しくもないし気づきでさえないが)は、デジタルデバイスではなく、大抵直接的な音声コミュニケーション(要は会って話す)なので、多分書いているのは、あり得るかどうかは不明ながらも、時間軸上での先の自分と共有するためということになるかもしれない。
 そういう意味では、扱い的に完全に紙ベースでの日記と大差ないと思う。
 そういうのを求めた結果選択したサービスでもあったりするので。
 で、『寝る前に1日を振り返ったとき』はというと、大抵「あー、もうどうでもいいや、終わったことだし寝る」というだけだったりするので、個人的な文字化する基本的なタイムスケジュールはというと、朝にニュースとかを見てWord(いまだWord2000を使っている)に入力し、その後何か思いついたらメモしたりして、夜に付け足したり推敲したりして投稿、その時点で書き終わらなかったり思いついたもので当日の投稿後に書き始めたものは翌日投稿という方法だったりする。(お題はその週のどこかここかでだらだら書いて寝かしていることもあるけど)
 なので、基本的には既に数日前の自分の考えとかをまとめてから投稿していたりするので、即時性がない。
 そういう意味では、日記というよりは手帳とかに近いのかもしれない。
 確かに服薬履歴とか手帳だよね、、、とか思ってみたり。

 そう考えてみると、ブログっていつ書けばいい?と聞かれると、自身の中にあるどうやって書くのが正しいの?という疑問を解決しなければならない気がして、その未知の領域に思考は暗転する。

 ブログ、こわい・・・・知らない人についていっちゃダメだって言われて・・・・(何の話だ)

昨日のWBS

 なんとなく見返す元気がなくて聞き飛ばしてしまったのだが、炊飯において水分量が増えると栄養価が下がることが「悩み」になるほどらしい。
 そうだったのか。
 1合で計算すると米150gとするとして、一般的な水の量は200ccなので200g。
 通常の炊飯器を見れば分かるが、蒸気がいくら出ていても極端に重量は減らない。
 仮に米と水の配合比によって調理後の栄養価に影響を与えないと仮定すると、40ccぐらい水を増やすと単位グラムあたりの栄養価は1割ぐらい減るわけだけども。(ちゃんと計算してないので正確ではない)
 それで悩むなら全粥でやれと言われた日には裸足で逃げ出すレベルだろうと思われる。
 そこまで食事を提供するのに限界ラインを攻めなければならず、さらにはそれを解決する選択肢がないとか極端に少ないとかいう世界なんだろうか、とか思ってみたり。
 とはいえ、炊飯器メーカーが質量保存の法則を無視して水と米の混合比にかかわらず一定の栄養価を持つような練成技術を備えた炊飯器を発売するわけではなさそうだし、なんというか、つながりが悪いと思えた。
 発売自体がまだ先なので、特許的な問題等も含んでメーカー自体が開示しない部分やメーカーが報道陣等に情報公開してもオフレコ扱いである部分などもあるはずだとは思う。
 で、それをある程度知った者が破綻なく記事を書き、そこから一般に公開できない部分を削って出来上がり、とすると、マスクされた部分の情報を持たない者が適切に理解できないことがままあるが、これもその1例ではないかとか思えてしまった。
 国語とかの世界でも、文章群の並べ替えとか文章群間の1文を埋めるとかいう問題を作成されたりするが、そこには単一の解答が存在し、その解答以外の組み合わせなり内容がことごとく破綻するか意味をなし得ないように配慮された上で作成される。
 ただ、残念なことに世の中の文章群などというのは、並べ替えるとしても適切な解が複数ある、最適解がありはするが別の解でも条件によっては問題にはならない、そもそも並びを考察するに適さない、文章の扱う場によって順番が変わる、全文章群をひとかたまりとすること自体が破綻しているのでいずれの並びも不適切など様々なパターンがあり、素直な場合の方が少ないように思える。
 また、1文を埋める場合、作問者の能力が低かったりすると、明らかな前後の文章群の転記で事足りる場合、その空白はあること自体冗長なんじゃないの?とか言われて悪問扱いされたりするが、逆に前後の文章群から想定可能な事象が範囲として広すぎるためにどのようにでも書けるとか、そもそも前後の文章群から想定することが不可能ないわゆるテストなどで扱う設問として成立しないようなものを作成することの方がはるかに簡単で、それゆえにそういった状況に遭遇する頻度も実生活では高いように思う。
 それを適切に理解できるようにせよというのが世の要請の1つのような気がするのだが、私にできないことを他者にさせることができるかよ、という。
 なんか、ささくれているというかそんな心持ちの上で見たせいか、どっと疲れた。


 あー、それにしてもハガマの内ブタ的ギミックって、あれって掃除するの面倒そうだなぁ。
 食洗機にぶっこめるなら人や現場によってはどうにかなりそうだけど。
 まぁ、いいや、もうどうでも・・・・

ねこ

 増田ネタ。
 「猫舌の事をもっと考えてほしい」ということで。
 科学的かどうかとかいう以前に、一応、いまだに痛みとかかゆみの自身の体感を相手に再現することができていないので、もはやどうにもならない溝は存在し続けると考えた方がいいかと年寄りは思ったりする。
 私もネタに欠かないレベルの猫舌だが、さしでがましいながら、増田の提言に付け加えさせてもらいたいのは、「わたしも大概猫舌だけど」と言いつつ、自身が口に投入できるからといって別の猫舌の者にその熱さの料理を薦めないで欲しいかなぁ、と。
 理解を示したかのように「(食品の温度が)食べても大丈夫」ということばがいかに信用できないかというのは、自らが生きる上での重要な知見だったりするわけで。
 当然ながら、その逆もあるはずなので、自ら律していく必要があると常々考えているつもりではあるのだが。
 いずれにせよ、猫舌に明確な数的基準もなければ、医学的に疾病として扱うための定義がなされているわけでもない(数十年前に聞いた話なので、今はどうかは知らないけど)ので、それでなくても疾病の理解が進まない昨今において、そこより先の領域はもともと権利が存在しないぐらいな心持ちから行動計画を組み立てた方が生きやすいかもしれない、とか思ってたり。

 まず『出来立てあつあつを薦めるのはやめろ』ってのは。
 個人的に、原則的に社会性が問われるレベルでさめるまで完全拒否で、そもそも口に入れようとしないので、もはや薦められようがないというか。
 多分、それを越える行為は薦めるではなく強要とかになるわけで。(そして双方の社会性が問われるわけである)
 それはそれとして、個人的に自身のその特性を説明するのに、料理や食品、食材の好き嫌いと同じ、というように説明して理解を得ようとしている。
 それで理解が得られない場合は、自身がされて嫌なことを相手にするとはなかなかなお子さま脳にも劣りますね、という内容を婉曲に伝えてしまうので、大抵食事が同一になることがそれ以降まずない。
 接待とかだと幸いなことに食材とかの好き嫌いと違っていつしか温度は下がるのでのらりくらりとやり過ごしているとどうにかなったものである。(実際、あまり高温の料理を振舞う店も限定される気はするが)
 というか、そんな大変な立場にもならなかったので、単におとなしくしていればよかっただけなんだけども。
 仲間内で某池袋の某料理店に行ったときに、某店員がなれなれしくあつあつで食べることを薦めてくるので、猫舌なんですとかかわしていたら、見ず知らずの他のテーブルの客まで巻き込んで小馬鹿にされ始めたので、ぶち切れて帰ろうとしてしまったことがある。(結果的に先輩に連れ戻されちゃったんだけど。店側にも話をつけてもらっちゃったし。まさに極悪非道・・・てか大人気ない・・・)
 当時、まだ大学生。
 若気の至り(自己弁護)とはいえ、それでも当時の友人らには一気にその顛末が広まってしまい、数十年経った今でもまだネタにされたりする。
 多分、もう死ぬまで言われるか、死んでも言われるのを覚悟しなければならないレベルだが、しょうがない。
 嫌な気分になりながらではなく、食事はよろこんでするもの(ただし、自身が優先される。何しろ生存の欲求だからね。自己中だけど)だと思っているしで諦める。
 あと、先のような店側の理由(ただし、それを伝える接客手法としては今でも正しかったとは思っていないが)が存在する場合は別として、薦める論理的根拠が乏しいことも多いとは思う。
 例えば、猫舌の話をすると結構「損をしている」と言われたりするが、常に「そうですね、そのとおりです」と応えるようにしている。
 事実、相手が当該食品をその状態で食して何らかの心理的作用として得をしていると思うことを私自身が実感することは不可能なわけで、その点に関してはまぎれもなく「損をしている」ことになる。
 ただ、それだけのことであって、そこで話を切っているにもかかわらず、相手がさらに勢い込んで続けるなら大抵は拒絶する。
 当然ながら、逆に相手が食べられなかったり、食べたことがなかったり、まずいと思ったりすることに関して、私が普通に食べたりおいしいと感じることは少なくとも存在するはず(相手との年齢差が顕著な場合は無理があったり受け入れられない場合もあるかもしれないが)で、相手よりは得をしていることになる。
 結果的に、相手が「損をしている」ことを私は咎めないので手打ちにしませんか?ということをこれまた婉曲に言ったりする。
 そんな生き方がいいとはけっしていわないけども。

 次。
 『猫舌の人と熱い物を食べる時、自分が先に食べ終わったからって急かすな』。
 私は、急かされたら、料理が残っていたとしても先に食べ終わった人といっしょに店を出るかな。
 貧乏性なので残すのは忍びないが、制約条件のなかでは最適解という意味で無理なものは無理だし、そこで何らかの努力をしたところで、報われる努力ではない、イコール努力でさえない無駄な痛々しい行為だと思ってしまうので。
 ただ、同じ料理をつつく場合は別にして、相手が料理の温度とかに関係なく早食いの場合は、早く来そうな料理を選ぶとか、さます必要が確実にないものを選ぶとかいう努力はするけども。
 急かすっていうので思い出したのは、その理由、かと。
 最近でこそ食事処の多くが禁煙になってきたことからは想像できないが、昔は逆にタバコを吸うのが当たり前だった時代もあり、そしてその過渡期もあったわけで。
 で、人によっては食事が済むと吸いたくてしかたがないとかいうのもあったようで(私は吸わないのでよくわからない)、食事の後、その場で吸えないともう店の外に出たくてしょうがないという態度を示されることも結構あったりした。
 逆に口に出さない分、「先に出てて」と言いやすかったりはしたのだが、多分、2世代とかのレベルで若いであろう増田の急かされるシチュエーションは全く異なっているのかも知れない。
 結局、急かす理由によるのかなぁ。
 急かす、というよりは不特定多数に急かされるという話だが、昔、仕事先の周辺事情がまだよく分からない時期に仕事先の隣にあった某吉野家に何人かで昼食に行った際、地域特性なのかも知れないが、後ろの至近距離(少なくとも人が通れないぐらい)に詰め寄られて席待ちで並ばれるみたいなシステムになっていて、あまりの居たたまれなさに、一緒に行った人と同時にほとんど食べることができないまま会計して店を出たことがある。
 まぁ、慣れてくると夜中の2時位に夜食を食べに行って、あまりの客の居なさに数分ぐらい寝落ちしていたりするレベルにまで堕落したりする(今あるのかどうか分からない(周辺地図が変わってしまっているし)が、当時は24時間営業だったのでブラックにはもってこいだった)と、あぁ、昼食時はごはんも炊きたてだったんやなぁ、私にはどだい無理やったんやね、とか思ったものである。

 3つめ。
 『「猫舌って舌の使い方が駄目らしいよ?」と矯正させようとするのをやめろ』。
 私も何度か言われたことがあるが、実のところ、それで去勢、じゃなかった矯正できた人っているんだろうか。
 私は以前吸い飲み(病院で寝たまま液体が飲めるようになっている水さしというかじょうろの先端を外したみたいな形状のもの)で口の奥に注ぎ込まれたときは熱いというか痛くて吐き出してしまったわけだが。(噴き出したに近いか、、、)
 よく冗談で「肉のたんぱく質が変成する温度ってのは人体も同じ肉なんだからダメでしょ」と言ったりした(少なくともそんな単純な比較はできないし、実質的にほぼ虚言である)が、口、食道、胃に熱いのが入っていくのが一番うまい、とか豪語していながら、それが原因で急性食道炎になって病院送りとなり、またそれをネタにするなんてのも個人の流儀なんで、人それぞれでいいとは思うのだが、なかなかうまくはいかないんだろうね。
 猫として天寿をまっとうしたいなら、矯正、じゃなかった去勢するしかないといわれても、個人的には全力で拒否したいけどなぁ。

 で。
 個人的によくネタにするのは、少なくともうちで飼ってたネコよりは私は猫舌だった。
 なにしろ、私が熱くて飲めないマグカップのミルクを先に飲み、作っていたチキンラーメンを3分経つ前に頭を突っ込んで先に食っていた。
 医学的、生物学的にネコがいわゆる猫舌なのかどうかは知らないのだが、何代か飼育すると、下僕(人間)の食べているものを可食として認知し盗み食いする傾向が強いネコは、思った以上に熱いものでも躊躇せずに食っていた気がする。(火をつけたごとくの上で調理中に食おうとするのでたまにやけどしていたりしたが。)
 食べてから「これ熱いじゃん!」ってやめるネコはいなくて、近づいた時の体感温度で直感的に忌避しているっぽい気がしなくはない。
 懲りているのか食わず嫌いなのか。
 それこそ猫によるのかもしれないが。

主語のないはなし

 主語をなくすと途端に話が大きくなって時事性さえ失うが、さらにいえば多分読み返した際に何を認知してそう考え至ったのかも全くトレースできなくなる。
 という前提の上での話。
 誰が言ったのか、「威厳はつくられたものではなくつくりだすものだ」というのをググってみても出てこないところをみると、間違えて覚えているのか勘違いしているかしている気はする。
 とはいえ、結局のところ、とある時間断面でいうと現存しつくられてしまっているものというのは、結果としてつくられたものであって、今まさにつくりだそうとしていることの方が崇高であるという考え方もあろうかと思える。(個人的にはどちらも尊重させるべきだと思うのだけれども、時間軸に対して影響を大きく受ける事象(例えば連続性とか安定性に対する心理など)は、人が時間を操れない以上、それを均衡させるために後発がある程度優先される必要があるという理由でそれはそれでありかなぁ、という考え方だったりするが)
 また、一方では、同時に権利とは与えるものでもなければ奪い取るものでもなく厳として奪われてはならないものであるという考え方もあるのかもしれない。
 これも、とある時間断面で考えると、何かを引き換えにして与えられたものとか、奪い取ったものは、他を犠牲にして得た権利っぽい何か(多分、ただの利益?)という見せかけの一時的な蜃気楼だとでもいいたいのかもしれない。
 いいように捉えればどうとでもなるし、悪いように捉えればこれまたどうとでもなる話ではあるのだが。
 今日のってこんなのばっか・・・・