学級崩壊 その4

 さすがに自分語りの比率が上がりすぎてなんなのかわからない状態になっていますが、懲りずに続けます。
 なんとなく、著者の過去の記事を最初から全部読んだほうがマシな感想が述べられるのではないかと思い始めていますが、ズボラなのでいつになることやら。

 『「……特別になにかある日や、知らせたいことや注意したいことがあるときだけ、プリント配ればいいのにさ」とぶつぶつ言っていたら、「そういう配慮ができているなら、学級崩壊してないってw」と夫。』。
 笑うところではないといわれても、理解のありすぎる両親すぎて草が生えるとしか言いようがありません。ただ、草が生える理由は、その状態ではなく、私自身の惨めさに、ということなのですが。
 前回の内容から、当該人物と私が経験した小学5年の担任とが境遇的にも能力的にも最も似ていると思うので、その人を想像しての話ですが、その学区の住民の良識レベルの差なのか、状況把握能力の差なのかはわからないですが、私の学校では、学級通信の生徒の記入内容と担任の記入内容の異常なまでの不整合(全く見当違いのやり取りがなされているなど)、もしくは相反(丁寧に掃除した→ふざけてほうきを壊した)などの記載が多いため、1学期などの初期においては保護者と生徒との不信感が増大し、家庭不和、もしくは家庭内暴力が起こりました。この事例は、高学年の話なので、小学1年生の「持ってくるものリストなどの板書を写す」という行為とはまた違ったものだとは思いますが、異常行動を起こす者は、たぶんどんな行為においてでも、それなりの異常性が感知できるのではないかと考えます。(例えば、一方的に『時間割が書いてあった。』など。)
 彼/彼女らの行動原理は、高名な心理学者などならうまく説明できるのでしょうが、私などでは、超次元な理論で動いているとしか思えないです。
 ただ、『ある日、担任がその紙を見たら、「これは、先生に言っていることなんだろ」と、なんでなのか、わからないんだが、言い始めて。』についても、同じ内容の言葉を吐いた事案があり、事例が少なすぎるとはいえ、それなりの共通点がもしやあるのではないか?と勘ぐってしまいそうです。
 私の場合の事案は、クラス内のいじめで、悪口を書いたメモを授業中に回していた(担任がそう言っていただけなので本当かどうかは分からない)ところ、メモが担任に見つかったようで、そのメモを担任が高々と差し上げて言うには、「先生の悪口を書いたんは誰や!!」と烈火のごとく怒り始めた、というものです。著者の言う、『被害妄想? 電波?』と思えるのですが、なんとなく被害妄想を患っている方や電波系の人に失礼な気さえするあの無駄な確信は何なのだろうと思います。
 『うちの娘は、ここんとこ、書いてこない日が多い。』というのは、経験上、担任と生徒との信頼関係が築けていないことが多いようです。自己確立も未熟で、社会的にも経済的にも自立が発展途上な状態で、生活の半分程度の時間を過ごす数少ない大人と信頼関係が結べないことは大人が思うより格段に大きなストレスになっていると言います。そんな状態において唯一頼れるのが保護者であり、保護者は、その生徒を受け止めてあげることが肝要、などと講釈を垂れるのですが、結局具体的にどうやって受け止めるんだよ、という点については、ゴニョゴニョと歯切れが悪くなりがちです。基本的に、ルール違反をした時には、ルール違反をした事項を正すのであって、ルール違反をした個人全体を否定することはしないことが挙げられます。そういう意味で、『ルールはルールなので、「なんで、書いてこないのよ。書くのが約束なんでしょ、きちんと座って書きなさい」と叱って』という対応については脱帽です。もし、「担任が書けっていってるんでしょ」としたらどうでしょうか。この場合、子供は「担任が正しいのでその指示に従わざるを得ない」というように捉えられるため、「担任が正しい」→「私(=私個人全体)が間違っている」ということで、上記受け止め行為は失敗したことになります。
 『「そうか、不公平なのか! うちのクラスは不公平なんだ!」』。
 小学1年なのに、すごい現状認識力だなぁ、と驚きながら、またしても、自分の小学5年のことを思い起こしていました。
 この時の担任が何かにつけて用いる言葉として「ヘンバでない○○」がありました。ここで「ヘンバ」とは「偏頗(正しくはヘンパと読む)」のことで、一方に偏っていて不公平なさまを指します。「ない」で否定することで、「公平」「平等」という概念を導いているようでした。しかしながら、担任の言動は理不尽であり公正さのかけらも見られないため、裏では、「変婆(へんばぁ=キ○ガイ婆さん)」と呼ばれていました。ただ、今思えば、担任の言動にはある法則があることに気づきました。「ヘンバでない○○」の後にくることが多いのは、「差別は嫌い」だったように思います。ここで重要なのは、人権用語で言うところの「discrimination」ではなく、マーケティング用語などで商品の差別化などのように使われる「differentiation」であることでしょう。結局、担任に映る差別を取り除いたあるべき姿は、「公平」「平等」ではなく「同質化」だったのではないかと思いました。個性のある子は徹底して嫌悪し、粘着する。すべての個性が失われ、同質化した状態。それが、彼女の目指す「公正」「平等」であったようです。
 ちなみに、私の担任は、婆というだけあってそれなりに高齢であったため、試合に入ってくることは全くありませんでしたが、気に入らない生徒には徹底して悪意あるジャッジを繰り返し、生徒がふてくされると思い切り通知表の成績を悪くしていました。

 『通知表に書く個々の生徒への評価の文章が全然書けなくて、ギリギリになって他の先生が文章を考えて、書き写したそうな。毎月の学級通信もほぼ主任にお任せしていたようだし。』。
 まず、前提として通知表は公文書ではないので、妄想だろうと虚偽だろうと関係ない担任の著作物だという考えを持った学校(保護者がゴネたら、担任が朱書きで通知表を訂正し、これでいいですか?と突き返される等)とか、お預かりしている生徒たちの習熟度などの現状を保護者の方に確認して頂いて、レビュー(いわゆる外部監査的なもの)に替えるものとして認識する学校まで様々で、一概にどうとはいえないということを踏まえた上で。ある程度ちゃんとしている学校では、担任が下書きを作成して、学年主任がチェック、ダメ出し、修正して、OKが出て初めて担任は清書にかかります。(電子化されている場合は、清書の工程が不要ですが。)ここで考えられるのは、
 担任:誠心誠意、心を込めて書いたぜ。見てくれよ、素晴らしいだろう?
 主任:宇宙語すぎて草生えるわ!修正するとかいうレベルじゃねーよ!!
という状況なのか、
 担任:えへへぇー、生徒のことなんか知らんし、何も思いつかんわー。(ヘラヘラ)
 主任:○ね!キ○ガイ!!
という状況なのかという違いがあるかもしれません。
 生徒と保護者にとってみれば、いずれの場合も不適格甚だしいのですが、この違いが重要な役割を果たすのは、近年話題になった「指導力不足教員への対応」についてです。
 文部科学省から出た法律の施行通知「教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律について(通知)」に「指導が不適切である」教員に対する具体例が示されています。(以下引用)
 ① 教科に関する専門的知識、技術等が不足しているため、学習指導を適切に行うことができない場合(教える内容に誤りが多かったり、児童等の質問に正確に答え得ることができない等)
 ② 指導方法が不適切であるため、学習指導を適切に行うことができない場合(ほとんど授業内容を板書するだけで、児童等の質問を受け付けない等)
 ③ 児童等の心を理解する能力や意欲に欠け、学級経営や生徒指導を適切に行うことができない場合(児童等の意見を全く聞かず、対話もしないなど、児童等とのコミュニケーションをとろうとしない等)
(引用おわり)
このように、条項の末尾に対応する実例を示しているのですが、定性的に判断しやすい①を除き、②③は、「私は努力している」「私は歩み寄っている」などの意思表明がなされている場合、まず「指導が不適切である」とは認定されません。思った以上に供給者(教員)が不適切であるハードルはユーザー(生徒、保護者)がイメージするそれと比べてかなり高いと考えられます。

 『レポートもろくに書けなくても教職課程とれた』。
 痛い痛い痛い、バシバシ刺さってきますがな、どうしましょうか。(まぁ、当時はそこそこ頑張ったつもりなんですが、とか頑張ったアピールしてみたり。)
 それはさておき、まぁ、一部の大学によっては、金やコネでなんとでもなる世界でもあるのですが、個人的には、当該担任の社会性の欠如から想像するに『地方で社会人をやった』などという部分がにわかには信じがたいです。まぁ、そういう方面の人たちであれば、そういう方面の人たちだけのコミュニティ内で閉じた企業なんかもあるのかもしれませんが。
 それとも、一般企業から不適格の烙印を押され続けたため、一端もぐりこめば評価が甘く終身雇用の教職がオススメとか誰かにそそのかされたんだろうか、、、

『「みんなさ、あだ名をつけて呼んでいるんだよ」
「なんてつけているの?」
「……言いたくない。ひどいんだもん」』
 ・・・・・。
 心の腐った自分に泣けてきます。


 それにしても、今回の件を期に、もう心に鍵をして見ないようにしてきた小学5年のことを思い起こしてみて思うのは、よく学校行けたもんだなぁ、という驚きと、授業中に平気で生徒の1/3ぐらいが教室にいないとか、ちょくちょくPTA役員(市議会議員)が授業の見学と称して抜き打ちでやって来たり(当然PTA役員の親族などクラスにいない)、生徒指導のいかつい先生が授業途中に出入りする、他のクラスは担任が持ち上がりだったのに私のクラスだけ担任変更、小学6年の時の宿題の量が他のクラスに比べてべらぼうに多い(他のクラスより学力が劣っていたためという推測)などから、実はがっつり学級崩壊が起こっていたのかもしれません。