リッツ

 リッツが特売っぽかった(定価わかんねぇ。)ので久しぶりに買ってみた。
 大学の一時期はまっていて、いつもそればっかり食ってたものだから、一部からクッキーモンスター(あの青いヤツ。ヤツが食ってるのはチョコクッキーなので厳密には違う)呼ばわりされたりした。
 友人から海外みやげで現地のリッツをもらうことがあったりしたが、日本ではノーマルタイプ(?)のほぼ1種類しかお目にかかることがないのと比べ、日本のポテトチップスのバリエーションと同じく様々なフレバーが存在するようだった。さらに、板状のものとかパッケージに「Ritz」と描かれているだけで何か別のパチモノっぽいと認識してしまうようなものまであった。
 日本での製造者はJリーグのナビスコカップのスポンサーとしてなじみのあるヤマザキナビスコなのだが、大もとのアメリカのナビスコ社と資本関係がない。(昔はあったらしいが。)
 多分、ブランドの使用権を払うような契約を通じて製造販売している形だと思うので、リッツのバリエーションに限らず、海外のナビスコブランドの他の商品がほとんど入ってこない(入ってきてるのはオレオぐらい?)理由ということにもなると思われる。
 ブランドの使用権的なもののなかに原材料の比率や製造技術などのレシピに関わるような部分にどこまで踏み込んでいるのか分からないので、日本版のリッツと海外のリッツとの味が違うのかどうか思い出そうとしたのだが、当時あまり気にしていなかったせいか忘れてしまった。
 しかしながら、もう何年もリッツを食べていないにもかかわらず、国内産のリッツの味は「昔と変わってない気がする」と感じてしまった。
 およそ、古くから続く国内独自ブランドの定番商品において、そのほとんどは製造工程やレシピそのものをその時期のトレンドに沿う形で変化させ販売力の向上に力を注いでいる。
 ただし、この変化は、既存購買層の飽きなどによる離脱の抑止と新規購買層の獲得に寄与するが、変化を望まなかった既存購買層の離脱もあることを考慮しなければならない諸刃の剣ともいえる。
 今回のリッツを例にとると、国内においては地域独占販売権を持っているようなものであるかわりに、その商品のブランディングは原則として本社にあるといった一般的な形態(キットカットやコカコーラのような一般的でない方が注目されがちだが)だろうと仮定すれば、国内ブランドの傾向とは違った昔と変わらない味であることの理由になるのではないかと考えたりした。
 ここで、いらぬ心配をしてみると、昔と変わらない伝統的な味が次第に消費者から飽きられて来た場合、国内でブランディングを行っているメーカーに比べて販売を止めてしまうという選択肢を選びやすいという利点がメーカー側にある。これは、逆に言うと、消費者側にとっては、その特徴ゆえに市場から消滅するリスクが高い商品であることを示していることにもなってしまう。
 で、これをどこにつなげたいのかというと、昨日の郷土料理の話である。
 食育などにおいて、市場から消えるリスクを考慮すべき同じ食品カテゴリのなかで、郷土料理は保護してインダストリアルプロダクツはその範疇外だと定義してしまう理由付けはどこからきているのだろうか、という疑問をいつも抱いているのだが、これを明解に示している資料に出会ったことがない。
 こういった話題のときに、ユネスコ無形文化遺産に和食が登録されているんだから、そのなかの郷土料理、そのなかの○○という料理として考えていけば、保護されて当然という人もいるが、具体的な施策を抽出する上でのブレイクダウンの一手法として間違っていないとは思うが、無形文化遺産に登録されている状態が「無形文化遺産の保護に関する条約」上、どういう意味を持つのかを考えた場合、本質を突いているとはいえなくなってくる。
 細かいところは条約本体を参照するとして、文化遺産が「無形」ということからも分かるように、具体的な料理そのものとして提示可能な「有形」のものではなく、和食という食事が存在する背景となっている社会構造や風習などのことであり、これらが、『文化の多様性及び人類の創造性に対する尊重を助長する』(条約第2条より)ものを示していることになる。
 「文化」を考察する段において、「文化」による一事例を持ち出してそれをどうするかという考えで展開した場合、最終的にもとの「文化」との整合性がまるっきりとれない可能性があることを考えると、先の間違っていないとは思う、という歯切れの悪い表現にならざるをえない理由がそこにあると思う。
 結局、その考察の逆の流れをたどる手法を用いて、誰の手助けもなく、美味くない郷土料理の1つを食べさせられることで『文化の多様性及び人類の創造性に対する尊重を助長する』レベルまで意識を高めるなど、到底無理な話だと思う。
 郷土料理をそれぞれ純粋な市場原理に任せてすべて消滅にまかせていいとまでは言わないが、郷土料理は何でもかんでも保護するというような狂信的な蒐集癖を持ち合わせるのもどうかと思う。
 その個人的な分け目が、提供した状況において口に合うか合わないかに設定している、という話である。そして、それは郷土料理だからとかそうじゃないとかという広い意味においても同様であると考えている。
 なにかを食べて美味しかった経験が『文化の多様性及び人類の創造性に対する尊重を助長する』レベルまで意識を高めることに一生かけてつながらなくても、結果的にそこまでの必要がなかったとしても、実食せずとも明らかな料理で不味い経験をするよりははるかに意義があるようには思う。

 というわけで、これで、一応昨日の記事の最後のあたりがつながったかもしれない。



追記:
 好んで不味いものを食べるのを趣味にしている人は、除外した方がいいかもしれない。統計的に幼少期にろくでもない味のものばかりを提供された者は味覚音痴の傾向があるが、「統計的」であるがゆえに不味いものを食わされた過去があっても機微に富む料理人になる場合も当然あるので、一概に不味いものを食べること自体が悪というわけでもない。極端と例外は必ず付きまとうことなのかもしれない。