物語性

 増田の「地方に人を呼びこむための物語を作る人が必要なのかもしれない」を読んでいて非常に興味深い内容だったため、本文に即して少しずつ感想を付け加えてみたい。

 『消費に物語が付与されてなければいけない』というのは、商品自体がコモディティ化し、全体的に革新性が乏しくなった場合にとりうる手段としては未だに定石であると思う。
 『ちょっと古い方法』と感じてしまうのは、様々な理由があるのだと思うが、個人的には、商品に関して消費者にアプローチする力が大きい供給者(例えば市場占有度が高い企業とか他者に比べて広告宣伝に非常に力を入れているとか)が結構なスピードでフェードアウトしていく(商品から手を引く、部署を切り離して他者に売るなど)ことや広告宣伝費として計上した方が真っ当なのではないかと思われるような商品の発売終売を繰り返す販売手法が常態化していることなどが挙げられるように思う。
 また、昔のTVCFのような商品の消費スタイルを何らかの羨望をもって想起させるような物語性は減った気がするが、これは消費者のライフスタイルや果ては人生観などまでが極度に多様化したために様々な消費スタイルを持つ者が販売ターゲットとなってしまい、結果同一の消費スタイルを提案するような物語性を提示できなくなったということもある。

 『地方に人を呼びこむにはもっと物語を生み出す人が必要なのではないか』ということに対して、その一例として『アニメの聖地と同じフォーマット』という点から、『物語』とはなにか?と考えてみる。
 アニメの聖地に対する行動については、アニメファンなどであるならばある程度推測はつくと思うが、アニメにおけるいわゆるコンテンツツーリズムと呼ばれるその行動について体系的にまとまっているとするなら、『情報化が旅行者行動に与える影響に関する研究 : アニメ聖地巡礼行動の事例分析から (岡本健 (2009). 2009年日本社会情報学会(JSIS&JASI)合同研究大会 研究発表論文集. pp.364-367.』)とか『アニメ聖地巡礼の特徴と研究動向 : 既往研究および調査の整理を通して』(岡本健 (2010). 次世代まちおこしとツーリズム : 鷲宮町幸手市に見る商店街振興の未来. 北海道大学観光学高等研究センター、鷲宮町商工会. pp.91-109.』)あたりとか、心理的な見地からのアプローチとしては、例えば動機形成における認知心理学としてのアプローチとして『アニメ聖地巡礼の動機形成と情報探索行動に関する研究 : 実験的アプローチの提案 (嘉幡貴至 (2010). 次世代まちおこしとツーリズム : 鷲宮町幸手市に見る商店街振興の未来. 北海道大学観光学高等研究センター、鷲宮町商工会. pp.110-114.』)がある。
 これらのアニメにおけるコンテンツツーリズムに関する知見からそれ以外の旅行動向にフィードバックするところまでには、事例数やその歴史の浅さなどを含め検討できるまでには至っていないようだが、こと「物語性」を考えた場合、アニメ本体の物語性とアニメを受け取る者の内部で引き起こされる気づきや情報共有などのプロセスにかかる物語性と現地で体感する感情などに至るもしくはその後の行動にかかる物語性、現地団体などの積極的なイベント参加などの社会的活動(リピーター的な行動特性)による物語性という多層構造を持っているように思う。
 一般的な「村おこし」や「町おこし」などにおいて観光客誘致を行う際に他との差別化を図る手法として物語性を盛り込むことも多い。
 ただ、その盛り込む方法、もしくは何をもって有効な手段とするかはかなり差があるわけで、ひどい場合は、何らかのハコモノを作る理由付けとして物語性を後付けし、ステークホルダー(ここでは、地域住民や納税者)の理解を表面的に得ることを主目的としていることもある。
 また、例え下衆な物語性を持ち得なかったとしても、昨今の消費者に訴求するための媒体の多様化によってアプローチに伴うレスポンスの定量化が難しいこともあるだろうし、物語性を持った商品が溢れることで「物語性を持った商品であること」そのものがコモディティ化を引き起こしかねない現状があるようにも思う。
 さらに、これらの物語性は消費者に一方的に与えられるものでしかない。
 昨今、訪日外国人の金に群がる者たちのなかには、「体験型消費」を前面に打ち出す手法を推進する者も増えているが、体験に伴う物語性を対象者に想起させ消費者に変えるためには、その前段階で、体験させるための演出をし、物語性を付加しなければならない。
 ここでより多くの対象者により大きなインパクトを与える方法を採るために易きに走ると、増田の言う『非日常』を扱う、もしくはそれを演出する必要が出てくる。
 結果的に、遊園地やテーマパークに限らず『大規模なお金をかけないといけないし、定期的にリニューアルも必要』といった、常にカンフル剤を投入し続けるというあまり健全とはいえない「村おこし」や「町おこし」になりかねない。(まぁ、そもそもそんな予算も下りないが。)
 要は、一方的に押し付ける形での物語性を創出し、より派手なインパクトをもって訴求するためにあられもない姿にデコレートしなければならなくなり、現状の手法のままでは手詰まり感が強いということだと思う。
 逆に考えると、『日常』を『非日常』化せずにありのままを物語化して、そして訴求できるものが求められるということではなかろうかと感じる。
 ただ、それを実現することは容易なことではないようにも思われるが。

 『なんでもない日常を捉え直す技術が共有されていない』ということにおいて増田の思うところがどこなのかかなり広範過ぎて絞り込めないのだが、個人的に同じようなことを考えていたので書いてみる。
 まず、供給者側が物語性を付加しようとする場合。
 この場合、『日常』に物語性を付加しようにも極彩色に彩られた『非日常』に埋没しかねない。
 ただ、『日常』を捻じ曲げることは最終的に消費者が現実を見ることを考えれば結果的に得策ではないだろう。
 どちらかと言えば、『非日常』の物語性よりも地味な物語性で戦う方法を模索した方がよいように思える。
 このヒントの1つとして、先の嘉幡氏の論文での動機形成でも触れられている商品(ここでは、特定地域や施設)の好感度のようなものが事前に醸成されているのかどうかということに繋がるように思う。
 地方スーパーマーケットが斜陽化し始めたころ、どういう付加価値を持たせることが可能か?という課題に対し、私は一般的なネット通販ではなくラジコンカメラ(今で言うと遠隔操作でペッパーを操作するようなイメージ)でスーパー内を回遊し、映像上で実際手に取り購入できるイベント経由型のシステムを考えたのだが、これは、本来の物理的な商圏以外の者が単純に購入することを満たすことだけが目的ではなく、そのスーパーで日常的に商品を購入する『日常』が本人にとって本来ありえない『日常』となるといった物語性とその店、地域の親近感、敷居の低さを演出できるものではないかと考えたからである。
 こういった手法は、供給者側が物語性を付加するのではなく、供給者側が購買ターゲットに対して物語性を実感するような仕掛けを提供することが主体であって、あくまで消費者側が何らかの形で自ら個人ごとの物語性を創出する形態となるものである。
 ただ、実際のところ、アニメの聖地と言えどアニメで扱われた地域や施設が1対1で必ずしも対応するものではなく、クソアニメ呼ばわりされている、もしくはなかったことにされているような作品のような好感度の低い意識が存在する場合には、聖地と呼ばれることもない。
 お仕着せでない物語性でないがゆえの強制力のなさであり、コストに見合う成果が必ず期待されるような世界では選択しにくい手法かも知れないが、好感度が低くなる事例を蓄積し分析すれば必要な因子が見えてくるかもしれないし、成功する確率も上がるかもしれない。

 『知り合いが地方にいるから実際にあって案内する』という話になってくると、今度は動機の部分は既にクリアしていて、体験に至るまでの障壁の問題になってくる。
 これも、以前上と同じような課題が出された時に考えたのが、一方にやってくる旅行者のサポートを行う要員を設定することである。
 これは、海外の現地ガイドや留学先のコーディネーターなどからヒントを得たのだが、いわゆる旅行業の現地までの旅券手配や現地でのタクシー業のような観光、宿泊施設(民泊なども含め)の確保だけでなく仲人のような第三者が介在することでそこまで面識のあるわけではない者同士の心理的障壁を下げようというものである。
 これを単純に実現するには、あまりに高価なサービスになってしまうため、全くもって現実性はない(あと、多分業法的にもアウトだと思う。)のだが、こういった手法に限らず、ハード面ではない心理的障壁を下げる方法を本質的には模索すべきだと思う。
 ただ、公的機関(市町村)レベルの予算運用から考えると、そのステークホルダーへの説明責任の簡便さから形の残るハード面に傾きがちなのは残念なことではあるが。

 地域と『なんでもない日常』を考えた時にgoogle mapが現われる前は、私は電車やバスの窓にカメラと発信機をつけて位置と映像が表示できるようなもの(いわゆる魚群探知機とか航空レーダーみたいなものと車窓が一画面内に表示されるようなもの)があったらいい暇つぶしになるのにと思っていたぐらいなのだが、そういったその地域での日常を表示する手段の具体的イメージとして現在ではgoogle map一色に置き換わったように思う。
 昔のキャッチコピーに「来て見て触って」というのがあったが、「来る」→「見る」→「触る」という動作の順番が明確に示されていた時代は終わって、「来なくても見れる。見れれば触れなくてもいい」ということになれば、どこの行動で消費行動が抑制されたのか分からなくなってしまう。
 また、観光地をgoogle mapで見たから満足した、という層(いわゆるエア観光というヤツ)がリピーター足りえないと切り捨てて考えてよいものかどうかなど、考えるべき項目はどんどん増えていっているように思う。
 ただ、捉えようによっては、地域活性化を考える者にとっては、現状を嘆くよりも「来なくても見ることができる」ことで事足りること以外を模索すればよくなったという風に気持ちを切り替えた方がいいのかもしれない。
 とはいえ、ここ数年はインバウンドにしか目が向かない気もするがどうなるんだろう、とか思ったりもする。(他人事ではあるのだが。)

 こんなところで前提条件を書くのも卑怯なのだが、ここまで供給者側でもマーケティング部分にのみ話を絞ってきた。
 同じ供給者側であっても、消費者の候補に対して直接商品をアピールしたり、商品を実際に手渡したり、その後のメンテナンスに実際に出向くと言った部分には触れていない。
 また、同様に商品開発を行う経営判断の部分についてもあまり触れていない。
 地方への旅行に置き換えた場合、前者は受け入れ側(商工会や地域住民、公共機関など)の意識(共感や拒否、共存意識など)とそれに基づく行動などであろうし、後者は単純にカネや全体もしくは一部に影響を及ぼすコネや圧力、地域性などの固有の環境要因が挙げられる。
 現状では一般にこの前者でも後者でもない者が物語を作っていることになる。
 村おこしや町おこしの場合、物語を作る側はその地域から直接的に委託されたいわゆるコンサルとか専門のNGOとかだったりするが、いずれにせよ供給者(その地域のモノ、ヒト)でもなく消費者(その地域への旅行者)でもなく第三者としてふるまうことが多い。(中にはその地域に定住して行動する団体も存在はするが。)
 このとき物語を作る側は供給者と消費者をマッチングすることで消費を産むことを目指すわけだが、そもそも消費が生まれていないということはミスマッチが起こっているためであるのだから、マッチングするためにそれなりのエネルギーが必要であることは当たり前のことのはずである。
 ここで、エネルギーとは結局、ヒト・モノ・カネであり、ヒトは人件費だけではなくその地域の各個人の意識であったり試算の難しい何らかの協業(相乗効果)であったりするだろうし、カネはいわゆる物語を作る側やそのプロジェクトにかかる予算のみならずその地域の個人の意識改革に費やされる費用や旅行者を受け入れたりもてなしたりするその地域の個人が負担するコストも含まれる。
 ただ、物語を作る側は第三者という位置付けであるため、前者の事象に関しても後者の事象に関してもアウェーであり、マッチングのために何らかのエネルギーを得る際の障壁が存在した場合、コントロールが難しい領域として一緒くたにして考えてしまう、もしくはプロジェクトの関係から考えざるをえないことが多い。
 また、物語を作る側は、プロジェクトが成功した暁にはそれを喧伝することが許され、華々しくその実績を上梓したりするわけだが、その実績の背後には死屍累々が築かれていることは自らの住まう周囲の事例(ただし田舎住みに限るが)を鑑みれば簡単に想像がつくわけで、さらにそれを詳細に分析されることは物語を作る側にとってメリットがあまりないため少ないと思われる。
 この失敗の原因や問題点については、多分誰かが書くだろうと思っていたのであえて触れなかったし、既に何件かコメでも解説されているのでそちらに譲ることにする。
 ただ、個人的には、これらの問題点を解決するには、コンサルとか専門のNGOがその地域と直接的にタイアップする方法では、活動できる期間や予算、権限などの問題から限界が来ているように思っている。
 およそ、失敗事例が思った以上に明確にされない上にそれなりの失敗事例を2、3聞かされると、「本当にこんなことをやって成功するのか?」という疑心暗鬼から地域住民において逆張りの発想をすんなり受け入れてもらいにくくなっていることもあると思う。
 例えば、物語を作る側が供給者とも消費者とも直接的な契約関係がない違う領域からのアプローチ(厳密にはコンテンツツーリズムを考えれば、現地のフィルムコミッションなどを経由するため供給者と関係はするが、利害関係は薄まっているように思う)であるといった形式を多階層に積み上げることを継続的に実施できる仕掛けによって外堀を埋め、受け入れはどちらかと言えば人が来過ぎて困るぐらいになる程度での後付けであれば先の後者側の抵抗勢力も文句を言いにくいようになるのではと考えられるのではないかと思う。
 冒頭で会社組織に例えたが、昨今の効率的な組織運営のスキルを持つ者が選択的に配置されている世界ではなく、実態はその逆である可能性の高いコミュニティでの組織論を考える必要があるため、どちらかといえば昔ながらのドブ板的な発想が求められるのかもしれず、逆に現代で否定された昔の組織運営論が有効な手段として活用できるのかもしれない。
 また、個人において半強制的に物語を作らせるような仕掛けもあっていいように思う。
 その昔、地域振興券などというものがあったが、このとき、地域振興を考えるなら、田舎で遠くの場合、額面にウェイトがつくようになっていれば旅行と言う意味で人口流動が起こるんじゃないか?そもそも人口が少ないところで現地の人口分程度の少量のカネが動いても経済活性化は期待できないのでは?と考えたことがあったが、確か何件かの法律、法令に抵触していて実現不可能だったと思う。
 その点ふるさと納税制度なんかは非常に巧妙に作りこまれていると思うが、話が逸れた。
 政策的な観点から考えると、例えば、レジャーなどの日が固定され何もしなくても人口流動が行われ混雑するだけの領域ではなく、ビジネスの領域などでの消費(例えば、地方出張などでの消費に関しての何らかの措置による動機付けなど)などから新たな物語性を産む方向付けなどもあっていいと思う。

 また、コメにある「物語の価値を認めていない」ということと「大資本が企画したような町興しが一過性で終わる」ことと間接的に関わっていたりする。
 およそ、短期的に地域をブランディングするために地域そのものもしくは地域の商品などを物語化することで成果を得ようとするものの、プロジェクトを推進する側からすれば自身が当事者でないだけにコントロールし得ない領域での問題に直面することになる可能性も高くなる。
 「物語の価値を認めていない」者の抵抗などもその最たる例であろう。
 ただ、その道のプロであるがゆえに、様々な手法を駆使して解決する者もいれば、易きに流れて、予算に見合ったインカムが契約期間内にその地域に落ちることのみを目的として、地域をブランディングせず、その地域の上に予算内で既存商品を載っけてそれをさばき切ったら終了というようなプロセスを用いた一過性のイベント群でお茶を濁している業者も多い。
 からくりから考えれば、町おこし業者というよりはただのイベンターが自らの業務の表現の仕方を変えているだけともいえる。
 その昔、こういったイベンターが高い予算をつける地方の自治体に目をつけてあたかも壺を売るような商売をした関係で、自治体や地元団体などにおいてはそのリスクヘッジのために町おこしの1プロジェクトあたりの予算を限りなく小額にしていったなどと言う人もいたのだが、裏が取れるものではないとはいえ、カネを出す側が萎縮する理由付けとして考えても不思議ではない実情がこの界隈にはあるように思う。
 本当に真剣に取り組んでいる業者や団体にはたまったものではないのだが、自由経済である以上ある程度は致し方ないところもあるわけで、現状で打てる手を考えるしかないように思う。

 あと、コメに若干触れられていたが、地元で村おこしや町おこしを考える時、仕掛けが先かインフラが先かという議論が起こることも多いように思う。
 実際のところどちらも大事で仕掛けがダメだとインフラは無駄になるが再利用できるかもしれなかったり、インフラがダメだと仕掛けがよくてもリピーターに繋がらないどころかマイナスイメージを持たれてしまうという問題があるからである。
 ただ、最近は個人的に「仕掛けが先」という方に傾いている。
 過去、何かの既存の数式があるのかどうか分からないのだが、インフラの量(質も数値化して含む)と周辺住人の満足度は二乗に比例することを聞いたことがある。
 感覚としては、インフラの量がある一定以上減少すると急激に満足度が下がるということである。
 逆に言えば、インフラが格段に整備された人口の多い大都市圏と同じ満足度を得るためにそれと同程度のインフラを整備し維持しつづける財源の目途が立つとは思えない。
 かといって、満足度が急激に下がるギリギリのラインを常に維持し続けるような人的資源を政策的に確保し続けることも困難だと思われる。
 また、こういったことに手当てするために、ソフト的な知見の地方への移転や予算配分に留まらない人的配分などが地方創生などにおいていつも俎上にあがりはするが、それぞれのしがらみや法的問題などによって実現はされないままである。
 こういったことが行えるようにする方策を練るのも一考ではあるが、とりあえずそういった領域は置いておくとして、今後もそのままだ、という状態を起点にして考えるのが現実的ではないかと思われる。
 で、ぶっちゃけてしまうと、中途半端にインフラ整備しても陳腐なだけじゃないの?陳腐だと思われたらリピート客にならないんじゃないの?という考え方からすると、いっそ最低限のインフラで困難を笑えるような消費者を取り込んでから、そこから生まれたリピーターと協業してよりニーズの高いインフラを整備していく方が、財源的にも知的人材(消費者本人なのでもっとも知に近いという意味で)としても確保していけるものではないかと思う。
 では、今度はそうではない者は消費者候補足り得ないのか、という問題になってくる。
 東京圏への集中が叫ばれて久しいが、東京圏を志向する者において東京圏の利便性もしくは想像する利便性を求めているとするなら、それよりも低い利便性を持つ地域に行ってみたいと思うのだろうか、行って楽しいのだろうかと思う。
 大都市圏の利便性を志向する者とそうでない者との地方への旅行意識調査をした事例にお目にかかったことがない(そもそも調査後に訴求可能な需要調査でないので調査されていないとは思うが。)のだが、感覚的に有意な差があるのではないかという気がする。
 もしそうならば、まずは、リピーター及びその地域で社会的関わりを持とうとする者などをコア、もしくは消費のベースにして、そういった者に追随して「楽しめるかも」と思う気持ちが利便性の差異による心理的障壁を上回って初めて消費者候補になると思われる。
 ベースラインが整備されるまでは、例え潜在顧客であると捉えるとしても、重要視すべきではない潜在顧客であって、訴求すべきはその大きいマスではなくリピーターなどから抽出される特定の属性を持った者なのではなかろうかと思う。

 と、書いてはみたが、これで万事解決するならそれで金儲けしとるわ、って話なので、そんな単純なことではなかろうと思う。
 多分、これまで何人もが試行錯誤してきた中で未だに成功も失敗もごたまぜな状況からすれば、万能薬なんてのはなくて、その地域や時期や時代の流れなどで変わってくるのだと思う。
 そういう意味で、偶然かなんか分からないが成功事例だけを見学したり読んだりしてリプレースする流れだけでは不十分で、失敗した知見やまだ試されていない手法がどんどん提示されていくことはとても重要なことだと思う。
 とりあえず、知の断絶とか知の偏在とかは面倒なので考えないことにして、ではあるが。



 あと、なんで論文が北大ばっかなのかというと、意図したわけではなくリポジトリを引っ掻き回したら釣れたの北大のヤツばっかだったというオチである。
 多分、いろんなところで研究されているとは思うが、勘弁して。