預言書

 増田の相変わらず自らが最も不得意な領域である「アメリカ人に肩こりがないと聞いて英語の完了形が理解できた」なんてネタに食い入ってしまった。
 が、当然のことながら何回読んでもまるっきり理解できない。
 まず、個人的なイメージとしては、完了形などの「相」に該当する領域はその上(上という表現も変なのだが)の「時制」に比べると口語ではどうにか通じてしまうレベルと考えると実はどうでもいいと思える、とても雑な表現だが。
 何というか、大雑把な感覚として、積極的に認識しなければならないといった労力が必要な過去完了などを意図的に使わずに無理やり意思疎通することも可能といえばなんとか可能なわけで、よく日本語を覚えたての外国人が現在形、過去形、体言止めの短文を列挙することで意思疎通を図ろうとしているのと同様に、逆にこちら側がしゃべる外国語も同様な違和感をもった感覚で先方に受け止められている可能性は高いわけだが。
 言語学的なアプローチをするとすれば、日本の現代国語を基準にして日本古文の「過去」や「完了」の理解でつまづきやすいのと同じで、英語だろうがフランス語だろうが「時制」や「相」の考え方が結構微妙に食い違っているわけだが、それを体系的に理解してから当該言語を習得するのかそれとも感覚的に体で覚えていくのかを比べた時に、多分後者が選ばれるように思われる。
 結局のところ、言語なんてのは、双方必ずしも厳密に一対一で対応するわけではないことから考えれば、常日頃他言語の文章を翻訳という形で一対一で対応させる癖がついているため気がつきにくいが、根本的に違うところがある、それを気づかせてくれたのが肩こりの有無という差異だったという話なのかと思ったが、実はそうでもなさそうである。

 完了形以外の例として、
 1) make sure
 2) is it possible 〜
 3) leave it to me.
が示されている。
 1)のmakeなんて、辞書を引いただけで吐き気がするほど意味が載っている単語の筆頭で英語ができない人間にとっては、後ろに来る語をなんかコネコネするとかとある形にぶっ立てるみたいな感じで読む癖がついた関係上、英語の点数は低い。
 ちなみに、make sureは「確認する」という故事成語、四文字熟語みたいなものであると記憶して対応していた。
 意味が通じるか、存在しえるかどうかではない。
 焼肉定食ではなく弱肉強食でなければならないとされる領域と同じである。
 結局この例でも、英語ができない人間にとっては、makeという単語の持つ意味が日本語と一意的に定まらないという『把握しづら』さということぐらいしか理解できない。
 2)は、さらによく分からなくて、Is it possible to do系なのかIs it possible that〜系なのかも分からない。
 前者だと「○○するのは可能ですか?」という意味を分かりやすくして「○○してもらっていいですか?」となる。
 後者だと「○○である可能性はあるかな?ないかな?」という意味を分かりやすくして「○○ってことはないですか?」という感じになる。
 possible=可能という図式からあまり外れずに理解可能であるため、多分、こういった領域に潜む英語ができない人間に知覚できない違和感がどこかに存在しているのかもしれない。
 3)は、leave it toという成句と認識していた。
 このleaveもmakeと日本語の意味が多いという部分でよく似てはいるが、日本語の対象認識の違いからか、向かう、離れる、出発する、卒業する、残すといった具合に対象から離れるのか対象にくっつくのかどっちかよく分からない単語という鬱陶しいい特徴がある。
 私のような英語ができない人間にとっては、電車でどこそこに行ってなどという長文にleaveが出たら問題を捨てる。
 なぜなら、登場人物がどこに行ったかよく分からないからである。
 その昔、学校を卒業したと訳していて意味がまるっきり通じなかったら、学校を出発していた。
 こんなことは日常茶飯事である。
 ヨタ話は置いておくとして、多分、3)も1)と根が同じのように感じられる。

 結局事例では分からないので先に進む。
 『そこでアメリカ人に肩こりがないという話が舞い込んできた。しかも、日本に住み始めると肩こりを自覚するというのだ。そこでひらめいたのは、当然環境も異なるが最も異なるのは言葉ではないかということだった。』とある。
 まず、単純な誤記もしくは表現ミスだとは思われるが「住み始める」だけで「最も異なるのは言葉」とは言えない。
 日本固有の現象であることを示すには、「住み始める」だけでは十分ではなく「積極的に日本語を扱い始める」必要があろう。
 そうでないと、その後の英語と日本語の違いに持っていく流れの関連性が低くなる。
 また、コメでアメリカ人における肩こりの症状の有無についていくつか発言があったが、そこから英語と日本語の違いによる「肩こり」の認知について考えてみる。
 例えば、アメリカ人にとって、日本語内で通用する「肩こり」という言葉を知って初めて「肩こり」に類する症状を「肩こり」であると知覚するという仮説を立てることも可能なのだが、それだと、直後の『英語はどの表現もフィジカルなものに対して使われるのに対し、日本語はメンタルを表現する使われ方が多い』に繋がらない。

 では、逆説的に『英語はどの表現もフィジカルなものに対して使われるのに対し、日本語はメンタルを表現する使われ方が多い』と結論付けた事例を再検討する形で遡ってみる。
 フィジカル、メンタルなどというと、私なんかは、最近は「当たり負けしない」、「折れない心」と脳内変換されてしまうので、まずは、一端日本語に置き換えることにする。
 フィジカルは多分、物理学的、身体的、物質的、メンタルは心的、知能の、精神的、観念的あたりだろうか。
 フィジカルについては、後方に『肉体』という表現が存在するため、「身体的」が一番近いことになるだろう。
 メンタルは後方に説明がないため判然としない。
 『肉体を無理やりに押さえつけようとする』対象としてメンタルを定義づけているようだが、これだけでは「何か」まで絞り込むことは難しい。
 また、『人格』『犯罪に至った心理』という表現を拾い上げることもできるが、かなり説明不十分にぶっちゃけ過ぎて、コメでも『突っ込みどころが多すぎる』と表現される部分だと思われるので、精度として正しく結び付けられる気がしない。
 というわけで、しかたがないので、とりあえず、英語側が「身体的」である接点を探すことにする。
 完了形がhaveのことを言いたかったとして、have、make、possible、leaveに共通することを考えてみると、possible以外、日本語として認識するためには多種多様な表現を駆使する必要があるところだろうか。
 そこで、have、make、leaveが「身体的」であるためにはどう考えるべきかを想像するのだが、あまりいい案は浮かばない。
 例えば、人を主語に持つことができる基本動作に派生的な意味を含めて多彩な意味をぶら下げていることが、肉体中心的発想とするなら、日本語でそれらの多彩な意味を別々の単語で表現することは、観念的=メンタルと捉えてよいかもしれない。
 しかしながら、日本語も同様に「あげる」「さげる」「しく」などの人を主語に持つ動詞でありながら、英訳する場合には多彩な単語で表現せざるを得ないケースも存在する。
 さらには、こういう部分は言語形成の違いで説明できることが多く、全体を通じて一方がこれこれでもう一方がこれこれというような分類はできないように思われる。

 と、結局私はここから先が仮説さえ思いつかず進めない。
 コメも何度か読んではみたが、解決の糸口が見つからない。
 例えば、コメの『まずフィジカルが分からなかった。メンタルも。肉体的とか精神的と書かないのは、微妙に意味が違うから?』とあるように、私と同じような箇所でつまづいている読者もいれば、コメ全体を見る限り、多分読者によってつまづくところがまちまちである印象を受けることを考えると、各所で仮説を立てて読み解いていく中で、仮説の微妙なエラーが積み重なったのか、増田の考えと相反する根本的かつ致命的なエラーが見落とされているのかも知れないのだが、見つけられない。
 増田と私自身との密接に関連し得るパーソナリティの違いに関して言えば、個人の英語能力とその能力がもたらす何らかの意識の違いによるものに起因しているとも考えられるのだが、私などより格段に英語能力の高いはてな住人が書き込んでいるコメでも体系的に理解した上で同意している書き込みが見当たらない。(なんとなく分かるという書き込みはあるのだが。)
 さらには、『さらに少し飛躍した考え』と前置きした上で、『もし重い肩こりに悩む人がいたら、それは肉体の仕業だと切り離して考えてみる』という難文が待ち構えている。
 「何を」切り離しているのか読者の不安を解消する意味も込めてあえて明示していてくれればありがたかったのだが、その次の文章の『その肉体を無理やりに押さえつけようとする』部分から、先述のとおり「肉体と相反するもの→精神」という一般的な図式を当てはめて「精神→増田が言うところの『メンタル』」と繋げざるを得ない。
 しかしながら、「肩こりがない=英語話者=フィジカル」であることが「肉体と何かが分離されている状態」で、これに対比して「肩こりがある=日本語話者=メンタル」であることが「肉体と何かが一体化されている状態」と考えるならば、「メンタル=肉体+何か」という図式が成り立たなければならなくなり、何かをメンタルであると定義してしまうと、肉体=0となり『肉体の仕業だと切り離』す意味が損なわれる。
 よって、「メンタル≠何か」となってしまうわけだが、こう考えるといわゆる古来からの肉体・精神論とは全く別の考え方に基づいて「フィジカル」「メンタル」を論じている可能性も出てくる。
 これは、先のコメの『肉体的とか精神的と書かないのは、微妙に意味が違うから?』という認識にも繋がっている気がする。
 だが、だからといってその「何か」が何なのかを読み解くヒントは見つけることができなかった。

 と、何というかパズル化された預言書でも読んでいるような気分にさせられたという話である。
 できれば、無粋ではあるが、解答も書いて欲しいところではある。