総括しない意義

 結構前に教育関連の質問に答えるといった記事を書いたときに若干触れたと思うのだが、いわゆる「ゆとり教育」について総括をしていない、というか意図的に避けてきた感があった。
 意図的に避ける理由は、悪いと認めた以上、その責任問題として政策立案なのか執行管理なのか現場での執行そのもの(この場合、一般的な製造業などと違い現場での権限がそれなりに存在するため)などのどこに求めるのかという話に基本的にはなるはずだが、およそ悪いと認めた説明責任を負う者が個人名という立場としてその責任の矢面に立って実質的にとらされることが多いように思う。
 そういう部分は、ステークホルダ側という外部から監理する立場とする者が権利と遂行と責任を経験上正しく認識できないことにもそれなりに影響されている気はしなくはないのだが、執行する側としても、その官僚制の悪癖を利用して不明瞭にしていることもあろうとは思う。
 と、まぁ、「ゆとり教育」の件に限らずあらゆる事案で煙に巻いたり、巻かれて辺りかまわず敵味方区別なしに剣を振り回したりするような事態は、それなりに起こっているように感じる。
 ただ、煙に巻かない選択をするならば、真っ向から剣を振り回す者と対峙するということになるわけで、それなりの度胸と覚悟が必要になる。
 そういう意味で、「漢」な者はいやしないだろ、と思っていた。

 が、5/10の馳大臣の会見の一部(馳浩文部科学大臣記者会見録(平成28年5月10日))の『ゆとり教育との決別宣言』なるものを近いうちに表明するとした件と、それに付帯して「「脱ゆとり宣言」に“まるで差別用語”と猛反発続出 (R25 5/13)」という捉えられ方をされたようである。
 馳大臣の会見にもあるとおり、「ゆとり」という単語を文部科学省が設定したものとは違う意味として定着させたのは紛れもなくマスコミなわけだが、そもそもそこに責任を問う話でもなく、『私はゆとり教育がゆるみ教育と、間違った解釈で現場に浸透してしまったのではないかという危惧と、そういう現場の声を矢がつきささるほど、たくさんいただいてまいりました。』と発言しているとおり、執行に関してどこに原因があるのかを特に追求するわけでもないが、『本来目指されていたゆとり教育と、本質的なものが現場では違っていた』ことを明言したことは、すごいことのように思えた。
 議員歴は長いとはいえ、大臣としての短い期間でよくこれだけの発言を官僚以下黙らせてできるようにしたということはとんでもないエネルギーが費やされたのではないかと感じる。
 ただ、その意志を受け取る者の中には、極度の自己中心的考えなどからか、自身の受け取ったモノは型落ちの粗悪品で他の者が新製品の高級品を受け取ることに我慢がならない、という論理の飛躍が起きるようである。
 本音を言うと、『本来目指されていたゆとり教育と、本質的なものが現場では違っていた』という言葉が大ボスの口から出ただけで、個人的にはもう満足だったりするのだが、世の中は当然ながらそう簡単ではないということだろう。

 マスコミなどによって形付けられた「ゆとり」のイメージというのは様々に言語化され定義されているように思うが、「ゆとり世代」に該当する年齢層の国内教育を受けた者が均質にそれらの定義された特質を保有しているかというと工場産品でもなく規格外を葬り去れるわけでもないため、当然ながら千差万別だろうと思われる。
 個人的に認知し得る「ゆとり世代」に属する者は全体からすれば誤差レベルでしかないが、現在の状況を考えれば「ゆとり」のイメージとは異なることの方が多いように感じる。
 どちらかといえば、「ゆとり世代」の中で、当時のマスコミを賑わすような反社会的行動をとるものや単純に特殊犯罪に手を染めるような触法少年において認められる特質を総じて「ゆとり」の特質として定義されているように感じるのだが、その作られた「ゆとり」のイメージがもたらす「ゆとり」という表現をされて、その特質を否定しないとするのはそれを自認しているのだろうか、それとも同世代を多く見てきた者にとって他の年代と比してその傾向が顕著だと感じている者が未だに多いということなのだろうか。
 「ゆとり世代」に該当しない層が「ゆとり」という言葉に踊らされて、対象者を認知バイアスによって悪い面だけ補強する手法はただの幼稚な自己保身の手法に過ぎないので、それはそれで救いようがないとは思うが、又聞きになるのだが、職務上問題が出るケースとしての特徴というのは、ある程度あるらしい。
 まず1つめは、自己を完全に固定し、その自己に対してインプットとアウトプットを考えるという思考である。
 この考え方は、捉え方によっては自己中心的な考え方の1つとして考えてしまいそうだが、考え方自体が特に悪いものではない。
 自と他を正しく分離し、旧来の滅私奉公なり誰かの所有物になるなどといった考え方ではなく、どちらかといえば欧米の倫理観などに近づいているように感じる。
 しかしながら、正しく分離できていなかったり、権利、義務、責任の様々な境界をはき違えたり、自己の固定を絶対軸でしか捉えられないか相対軸で捉えられるかなどによって問題点として顕在化するのか他に伍する能力として顕現するかという違いがあるように思える。
 2つめは先鋭化した同質化を求めることである。
 そもそも1つめも同じなのだが、「ゆとり」教育そのものから導き出せる特質ではないため、理由は「ゆとり」教育自体にはないのかもしれない。
 で、そういう前置きがあるとして、たとえば、「差別」ということばの使い方が、どちらかといえばとある事項に関して「どういうことなのか」とか「なぜなのか」といった理由を求めずに結論付けて議論をぶったぎれる魔法のことばとして行使される場面が多いことが挙げられるかもしれない。
 また、場合によってはいい事なのかも知れないが、現場での問題点の修正や改善に関して原因を単一化しようとしたり、複数の問題点自体をないまぜにする傾向があるようだ。
 先述のとおり「ゆとり」教育自体は「なぜ?」「どのように?」という思考を培うことが目的であったはずであるが、それとは逆の性向を示すというのは理由付けができそうにない。
 3つめは歪んだ自己肯定力と自己を修正する選択肢の狭さである。
 これは、一般的に言われている「ゆとり」の性向に合致するので説明は省く。

 で、先の記事に取り上げられたTwitterの書き込みは、その前後や本人の属性(記事内でも『思われるユーザー』となってもいるし)を十分に吟味し、とある領域などでも問題視されているなりすましに注意する必要はあるが、先に挙げた性向で発言内容の生成機序が大抵説明できてしまう。
 もし、なりすましであるなら、結構熟練な技を持った方だとは思うが、今後「ゆとり世代」という幻影をスケープゴートにして、「ゆとり」と言っておけば少しぐらいなら許される的なことを考える「ゆとり世代」ではない何かが現われてほしくないものだなぁ、と感じた。