手法の悪用か悪行の手法か

 増田ネタ。
 「三大「相手の主張を封じるかっこいい言葉」」について。
 生存バイアス、太宰メソッドが挙げられていたのだが、正直言葉自体知らなかった。
 ググってみるとああ、なるほどそういうことね、と理解できたが、ごちゃっとした一連の現象を総括し抽象化して一つの単語として確立しているのはかっこいいというか清々しく感じるものだ。
 まぁ、「主語の大きい人」というのは知っていたというぐらいな知識の偏り方なので、単語を知らず言語を扱う能力が不足しているともいうが、面倒なのでそれはおいておく。

 生存バイアスに近い使い方ができることばとしては「それは結果論」とか「死人に口なし」とか「それはよかったね。勝てば官軍だし」といった表現だろうか。
 勝てば官軍という考え方で思いつくのは、歴史書を読んでいるときの記載内容をどう認識するか?という問題について考える際に関わってくることだろうか。
 およそ、敗者側は蹂躙されるなり滅失されるなりするために勝者側の書物や文書などが残りやすいのは事実で、そういう記録は勝者の意向に沿うものであるかその文書の著者が中立的な立場で書くつもりであったとしても結果的に何らかの勝者側の庇護を受けることになる可能性が高いためそれなりに事実が歪められるもしくは伝聞のより有利な情報を記載する形になっている可能性は否定できない。
 このため、世の歴史家は妄想を膨らます層は別として、他の文書や書状や私的な手紙などの記録や遺留品、現地の証拠などから裏付けていく作業を行っているわけである。
 個人的に議論において生存バイアスを俎上にあげる場合、とある結論に破綻なく論理がつながっていたとしても、はたしてその適用範囲はどこにあるのか、範囲外であればどういう事態が想定されるのかについて議論を促す、もしくは発言者に気づかせることを目的とすることが多いように思う。
 事実、生存バイアスはとりあえず生存者がいるという結果から考えれば、同一条件であれば全滅はしない手法であると考えられるため、そのプロセスの考察に値するということに変わりはなく、その結論も生存者を生むプロセスの一つであることに変わりはないと思われる。
 しかしながら、逆に適用者全員が生存している、もしくは生存しなかった原因が適用したプロセス自体を否定するものでないことが判明しているなら別であるが、生存しなかった原因も不明で場合によってはプロセス自体を否定されかねない危険性も孕んでいる場合は、その結果を求める手法としてそのプロセスの適用を諦めて別の方法を探るか、プロセスの適用した場合の原因分析をできる限り深めて原因を除去する手法を組み合わせるか、もしくは生存できなくなる状況を察知してそのまま死に至らないための適切な予防策を打つための事前準備なりシミュレーションが必要になるだろう。
 結局のところ、答えは一つではなく、一つの答えを選択してもその答えのみで解答にはならない事象に適切に対応するために認識すべき考え方であると思う。
 ただ、そのような使い方ではなく、単にそういった解答の一部分までしか考察できなかった者を嘲笑う手法として用いることも可能で、解答の一部分までしか考察できなかった理由を考えれば、即座にそれに対して切り返すことはまず不可能であろう。
 とはいえ、この手法はことばのキャッチボールを拒否しているだけであり果たして『主張を封じる』ことになっているのかどうかは分からない。
 複数人での議論におけるケースを考えた場合、議論する課題の困難さや議論する者の属性の偏りや能力的な面を考慮する必要はあるにせよ、同時に多数派工作が行われていなければ、相手側の多数派工作に負ける可能性も出てくる。
 多数派工作である理由は、その言葉を吐いて拒否した時点で自身も相手も適用精度や運用精度が低い解答であるとはいえ、複数ある答えの一つであり間違っているわけではない可能性が高いからである。
 その言葉を吐いて拒否したのは自身だけであり、相手が自らの考えを自身以外に「主張できない」状態ではないことに留意する必要はあろうと思う。
 その言葉を吐いて拒否したあとに、「きさまのようなクソ提案をする無能を議論の場に呼ぶんじゃなかった。ネンネは黙って寝てろカス」ぐらい精神的に追い詰めておけば『主張を封じる』ことを確実にできるかもしれないが、かっこよくてスタイリッシュかどうかは分からない。

 太宰メソッドは、実際どのような経緯で発生したことばかは分からないが、「主語の大きい人」などの現状の使われ方から考えるに確証バイアスに伴う主語(または適用範囲など)の肥大化という副次的な論理展開の誤謬をいうのではないかと思う。
 個人的な付き合いにおいて常日頃から確証バイアスで主語を拡張するような者と直接交流したことはない(うーん、残念ながらネット上では単なる煽りなのか経験はあるが)のだが、主語(活動主体)にかぎらず、いっしょくたにして考えてしまう傾向は多かれ少なかれ起こりうることだとは感じる。
 業務上においては、たとえば業務の効率化に関して同一手法を適用したり、ひとまとめにして作業してしまったりなどの手法がとられることが多いが、根本的な作業の意味を理解せずに自身の感覚に任せて「効率化」と称した別の行動が問題を招くこともある。
 時事的な話でいえば、形がちょっと違うだけだからそれっぽくちょっと数字をいじってやれば1から計測しなくてもいいよね?という効率化というのも根は同じではないかと思われる。
 いろいろ考えてみるのだが、個人的にこの太宰メソッドに該当する行動を行うことが極端に嫌なのではないかと自分でも思うことがあり、自分も及ばずながらそうありたいと思っているせいか、リアルの周囲に太宰メソッドの使い手がいないのは、実は私自身が最初からそういった人に避けられているのではないかという気もしてきた。
 いずれにせよ、ネットや書籍などではその効能を分かってやっている節がたびたびみられる関係上、単に拒否する意味で使えなくはないが、真性の者がどの程度いるのかはよく分からないところではある。

 コメ欄に「エビデンス」が挙げられていたが、これもなるほどと思う。
 類似なものとしては「誰が言った?何月何日何時何分何秒!!」とかに近いだろうか。
 口頭でやり合っているのに証拠を出せというかなり嫌らしい返しを意識高い系っぽくした方法だろうとは思う。
 個人的に、「エビデンス」を口語で使っている人がいるとまず「かっぱえびせん」のエビの映像が浮かぶとともに、その口に「かっぱえびせん」か「エビフライ」を突っ込んで黙らせてやろうかなどと考えながら生暖かい視線を送るのが常である。
 まぁ、最近は「エビデンス」ということば自体が意味とは全く関係なく意識が高いと勘違いしている意識高い系が使いやすいことばになっているため、「君の提案にはエビデンスがないよ」という表現に際して、根拠(調査分析や実験のデータなど)ではなく、内容が薄いとかセンスがない的な意味で使う者まで現われているため、こういった使い方をすれば、一体どこからつっこめばいいのか思案するうちに畳み掛けられることもあるかもしれない。

 で、何かないか考えてみたのだが、「杓子定規」というのはどうだろうか。
 そもそも何かに対してよりよい手法を主張するとかいう場合は、「どうでもいいだろそんなもん」というそもそも議論自体が意味をなさない方向性としては使えるとは思う。
 ただ、当人の趣味、嗜好であるとか妄信的なイデオロギーなどの場合は使いようもないわけだが。
 こういう手合いは「寄るな、キモイ。タヒね!」で済む話とも言えなくはないが、かっこよくはないと思う。
 あとは、かっこよくないけど「興味ない」とか。
 あと、いわゆる禅問答で返す方法も良く使われる方法ではあるかもしれない。
 「なぜ?」や「どうして?」は基本的に論拠をより明確にかつ確実にするために必要な行為ではあるが、ことばのキャッチボールとしてすべて「なぜ?」「どうして?」のみを連続して返すと封じるわけではないが拒否は可能になるだろう。

 以下、コメ欄を眺めていて気づいたこと。
 コメ欄に当該のことばの使い方を先にだらだらと書いてきたことと同様な内容でかつ短文で分かり易く書かれているので参照した方がよいってのをこんな位置に書くのもむちゃくちゃなのだが、客観的に恥ずかしいかどうかは・・・・未知数かなぁ。
 周囲のほぼ全ての人が当該のことばの使い方を両方知っていれば恥ずかしいかもしれないが、そんな現場ばかりではないと思うし。
 何というか、個人的にはそれが恥ずかしいとされる現場に遭遇したためしがないので、もしあるならばあこがれるけども。
 ただ、同様な考えを示す別のコメに、勝ち誇った結果が恥ずかしいとするのは、当該のことばを発せられた状況に自身が飲まれていると言ってもいいかもしれない。
 あまり認識したくない領域かも知れないが、相手が「勝ち誇った」と表現する時点で自身が何らかの形で負けている可能性を認知しているわけで、その感情が自己の正しさから想定する勝敗との乖離を実感した上でそれを正当化するために「恥ずかしい」としてしまうことが多いためだと考える。
 個人的に相手の活動に伴うイメージを勝ち誇っていると自身が認識してしまった時点で自身の心なり主張なり論理などが折れかけていると考えるべきという気持ちで対峙することが多かったためそう思うだけかも知れず、人それぞれかも知れないが。
 あと「悪魔の証明」を私が思っている意味と違う意味としていることがある気がした。
 「悪魔の証明」は法律論の原義から派生して、とある事象を証明するためには遡及的に別の事象を証明しなければならず、その流れが繰り返されるため、証明を完了できない命題を指すと考えていた。
 だが、どうも「悪魔」のような仮想のものが存在するのかとか正しいかどうかを証明することを指しているような気がする。
 いずれにせよ、仮想のものを証明するために仮説を立てれば証明しなければならない事象が増えるという繰り返しになるというプロセスから考えれば同じことだとも言えなくもないが、なんとなく違和感を覚えた。
 まぁ、これも先のエビデンスの原義から考えると間違っているっぽい表現を叩き込む方法という意味でフレア的な効果は期待できるかもしれない。



 あと、なんというか。
 3つめの『相手の主張を封じるかっこいい言葉』を考えさせられている時点で、その間、自身の主張が見事に封じられている気もしなくもない。