野球しかなかった

 あまり時事的過ぎるゴシップをネタにするのは不謹慎な気はするのだが、清原氏に判決が言い渡された件について思ったことを書いてみる。
 TVとかでは2年6箇月、猶予4年が重いのかどうかとか、感情的な思いがあるからこそ感情的に判断するべきではない(私刑上等という思想なら法令の範囲内でOKだとは思うが)ことを突いていて、どうすんのこれ、と飯を食いながら思いはした。
 で、それとは別に、私が気になったのは、情状の面において「野球しかなかった」という発言があったことだろうか。
 およそ情状をどのように表現するかは、テクニカルな(若干悪い意味での技巧的な意味合い)問題と言えなくはなく、例えば被害者に対する理解や被害者の心情(これは民事かな)、犯行の原因の理解とその意識の累犯性への寄与、被告人の生育歴や家庭事情(未成年の場合などは特に)、また、今回の場合のような有名人などの場合などの社会的制裁などを用いてくまなくプッシュされているのは、自身に裁判の経験がなくても報道やドラマを観ている程度で想像がつくものと思われる。
 で、こういった手法が悪いというわけでも「野球しかなかった」という発言が悪いというわけでもない。
 野球界のスーパースターの一人としてどのような生い立ちをもってプロ野球界に入っていったのかTVなどで何度も特集を組まれているし、そういう内容から判断すれば、「野球しかなかった」という発言もウソっぽいようには聞こえない。
 ただ、とあるとがった才能でひとかどの人物となった者が被告席に立つ時に口から出ることばはテクニカルなプロセスを経たためか、「私には○○しかなかった」というよく似た表現方法が用いられることが多いように感じる。
 実をいうと、こういった考え方は4コママンガを多数描いているやくみつる氏が相当昔にコメントしていたのを覚えているに過ぎない。
 ただ、やく氏は、スポーツ界に対してとてもストイックに接している関係上、○○しかなかろうと、もうお前には○○はない。的な考えを持っているように感じるため、そういう意味では同じではないのだが。
 今回のような有名スポーツ選手という属性を持つ者に限らず、様々な属性を考慮した上で「私には○○しかなかった」という表現を行うことが弁護における常套句と化しているのかどうかは法曹界の人でも何でもないので分からないが、少なくともゴシップとして扱われるような属性を持つ被告人が犯行の動機や原因に対して「私には○○しかなかった」と言わしめることが司法として納得し得るものであるということだと思われる。
 すごくへんてこな言い換えをするとすれば、被告人席に座ることになる刑罰を伴う犯罪を行使するにあたり、○○(少なからず、今回の話で言えばスポーツ)でとがった功績を残してきた者にとっては、「私には○○しかなかった」ことが司法レベルで情状になりうる、ということだと思われる。
 で、こういった考えまで持ってきたのはわけがあって、先週あたりに増田で大学駅伝選手のその後についてやそれに関連したエントリを見ていて、この人はこうだった、いやこの人はこうだったという話になる傾向、または完全に逆にこういった属性はすべてこうだ、という話になっているような気がしたところにある。
 確かに誤りを示すために反証を例示してその解に替えるのはいいといえばいいのだが、じゃあ結局どうなんだよ、というのが現れないのが残念に思うので。
 多分、本質的なところから数値化するとすれば、どこでスポーツを諦めたかとかスポーツの占有時間の経年変化とかスポーツ外のキャリア形成(いわゆる実業団ではない普通の会社員として社会に出るとか)とかそれに伴う収入だとか幸福度が、そういった人と比較的相反する群と比較して何に有意の差があり何に有意の差が認められないかを大規模な社会実験で確かめる必要があるのかも知れないが、かなり困難であろうと思われる。
 ただ、結果から遡るとすれば、不法行為にまで手を染めるところまで転落する大きな原因として「私には○○しかなかった」という項目がお墨付きを与えられるほどの確度と影響力を持っているとするならば、進路を選択する際においてより注意深く考慮してもいいように思う。
 結果から遡っているために、必ずしもそれだけが原因であるとはいえず、またその原因が必ずしも不法行為に至るとも限らないが、今現在、岐路に立っている者からすれば、安全側をみて除去しておくべき事項ではないのだろうか、と考える。
 さすがにスポーツキャリア形成やセカンドキャリア形成の問題にまで持っていくつもりはないが、上位競技者ではない者においても人それぞれにキャリア形成は必要であり、スポーツキャリア形成なども参考になるとは思う。
 ただ、個人的には、「私には○○しかなかった」ことを回避していくためには、何ができて何ができないのか(何を知らないのかも含む)という現状認知、なりたい自分、進路などといった選択肢の確保、選択肢に至るために現状から何が必要かを考え、実行し、検証するといった道筋とより納得のいく答えを出す手法を自ら体得するか、もしくは誰かの手助けによって実現可能であるように感じる。
 それでも、結果的に「私には○○しかなかった」となるならば、それはそれでまた自身のなかでの○○の位置付けも変わっていようとは思う。
 「私には○○しかない」ということばは思った以上に強みとしてもてはやされる傾向にある気はするが、それは強みであるとともに弱みでもあることを本質的に意識しなければならないはずである。
 今回の清原氏の発言が弱み側であることを他山の石としなければならないように思う。