どの語彙なのか

 ホットエントリとなっていた「英語の語彙は豊富(と言える)かという問いをどう考えればよいか、について補足(ちょっとだけ読書案内付き)」を読んで思い出した昔のことを書いてみます。

 私自身「語彙が豊富」などということばを聞いて、ミルコ・クロコップのごとく「おまえは何を言っているんだ」とガキの頃から思っていた割には、いまさら大学でちゃんと言語学を勉強しておけばよかったと思う老体なわけですが、誰が言ったか歳を食ってからのやっておけばよかったは後悔ではなくただの現実とか言うらしいので、当時の自分を恨むぐらいで諦めるしかないのかもしれません。
 さて、「語彙が豊富」であると表現する場合、多くは「○○さんは語彙が豊富で頭がいい」などという個人の属性を指すことが多いように思います。
 ただ、ほめている対象の「○○さんの語彙」とは何ぞ、と考えると何を言っているのか分からないと思っていた口です。
 実態としては、「語彙が豊富」という個人の属性は、その個人が操ることが可能な単語、熟語などの数が多く、またその理解度が高いことを表現したいと思われるため、その限定された内容から考えると、使用語彙に含まれる語の数が多いということで代用してもいいのでは、というように感じていました。

 で、なぜ本論の「英語は語彙が豊富」といった主語が別物のところから書いてみたかというと、やはり、「語彙」とは何か?というところに疑念を持っていた、ということがあります。
 実は、私は大学時代の教養科目(最近はそういう区分がなくなりつつあるのかな?よく知らないけど)で言語学っぽいもの(講座名をすでに覚えていない)を履修したりしました。
 ただ、なぜか教育学部のじいさん先生だったので、今思えばそれが主体の講座でなかったのかもしれないです。(今ほどシラバスなど整備されていない時代だったので。講座概要空白とか数文字とか平気であったし。)
 その時に、「語彙」とは何か?を授業で説明されたわけですが、『一定の条件に合致する語のグループを語彙と呼ぶ』『「『万葉集』の語彙」という場合には、『万葉集』に出てくるというのを条件とし、その条件に合致する語をひとまとめにしてそう呼ぶ』という、その例さえ全く同じことを言っていました。
 記事の著者の方が紹介された当該参照の書籍が2011年発行のものだとのことですが、多分、その例も含めて古くからそういう習わしなのかも知れません。
 とにかく「あのジジイが言ってたことはこのことか!!」などと読んでいて感動してしまいました。(教授に対して棘があるのは、全く講義がちんぷんかんぷんだった(まぁ、私もアホなのだが)という恨みが・・・。単位は楽に取れた(別学部の先生は基本的にやさしい)のだが、それはそれで実は結構悔しかったりしたので。)
 聞き損ねたのかどうなのかはわからないですが、記事内で引用された箇所で、先の授業で教わった説明になかった『語彙とは語の集合である』というのがあれば、理解が容易であったのではないかと思います。
 しかし、その冒頭の定義をマスクして、『一定の条件に合致する語のグループ』こそが「語彙」とするなら、条件からもれる言語的表現は「語彙」ではないのか?条件が提示されない「語彙」とは一体何を指すのか?などと考えたものです。
 口語で多く用いられる「○○さんは語彙が豊富」というような表現は、その条件を明示しないばかりか、その内容が全く定量的どころか定性的かどうかさえ怪しい個人的感覚に基づいているとはいえ、その条件付けに基づいた語の集合であるように発話者が認識していれば、およそ『一定の条件に合致する語のグループ』という定義に近しい使われ方をしていると納得していました。
 一方、「英語は語彙が豊富」というような場合、『一定の条件』とは制約条件がない(同一言語内でというのが条件といえば条件だが)わけで、結局のところ、日本語で表現される語すべて、英語で表現される語すべて、が対象になるように思われます。
 こういった話は大学時代、友人らと無駄に話し合ったりしたものですが、まず、母語話者が多ければ多いほど「語彙が豊富」なのか?という問題です。
 これも、各自持論があったと思うのですが、私は「語彙」を何と定義するか(集合の条件を何にするか)によって変わると思っていました。
 例えば、先の主語が人の場合で条件付けされた使用語彙を示すならば、記事の著者の方も指摘されていますが、多様性を持つ話者が多ければ多いほどその和集合に含まれる語は多くなると考えてもいいと思われます。
 主語が言語においてでもそれが使用語彙であると条件付けされた場合、何らかの統計的手法でその数値的優劣はある程度誤差が生じるとしても求められるかもしれません。
 ただ、言語の特性である柔軟性や順応性を考慮した場合、例えば日本語と英語を比較するとして、先の日本語話者群の使用語彙の和集合と英語話者群の使用語彙の和集合との不一致部分は一方の使用語彙ではなくても語として存在し、何らかの条件によっては語彙として扱うことができるのではないのか?と考えてもいいようにも思います。
 例えば、MBAの学習が日本語で行うより効率的であるとか、オタクコンテンツを鑑賞するのに日本語を勉強した方がより楽しめるなどと言われるのは、条件のない「語彙」が豊富というよりは、利用者数や当該領域の設立経緯などに伴うその時点での使用語彙の偏りであり、非母語話者の理解が進めば進むほどその偏りは埋まると考えれば、平衡状態へと向かう(例えば、使用語彙数が双方の言語で一致する)と考えることもできます。
 また、個人的に、他言語の語が自言語として表現することが不可能なことは原理的にないと思っていて、先の「一方の使用語彙ではない」何かが「語」でないことが固定化されることはないと考えています。
 言語自体は表現に必要性が生じた場合、「語」が生成可能であるため、必要とされる前は「使用語彙」でなかったり、概念そのものが当該言語で表現されてこなかったために「語」が存在しなかったとしても、それ以降は何らかの形で「語」が存在している(「語」の定義も始めなければならない気もしますが。)ことになろうかと思います。
 例えば、同じ祖語を持つ言語が移入されるなどにより他言語にかなりの部分の表現を任せているような構造の言語とかがあれば、それは例外となるかもしれません。
 ただ、日本語と英語、などという比較においては、成り立つのではないかと考えています。
 理解と表現において、一方で用いられる「語」をもう一方の言語で表現するにはニュアンスが伝わらないので相対する「語」にならない、よって「語」は存在しないし一方の方が「語」が多い、という話もあるのですが、「語」自体のゆれが同一母語の話者であっても存在するように、言語間の「語」の変換だけがいつ何時も厳格に同値であらねばならないわけでもないと思います。
 分散が一致すると仮定した場合、話者が多くなればなるほど定義した「語」から外れる者は増えていくと思われます。
 割合はたとえ同じであろうと、無視できないほどその話者の人数が増えた場合、「語」の範囲を広げるのか、「語」から外れる者の表現を示す新語を生み出すのか、矯正するのかは別問題だとは思いますが、そういった同一言語内での「語」の範囲の流動性と他言語間の「語」の範囲の流動性というだけの違いではないのかと考えます。
 これらの前提から語彙に対する条件を取り去っていくと、最終的に日本語全体の和集合と英語全体の和集合の2つの和集合であることを条件とした双方の言語における語の群が存在し得ないというわけではないことになり、一方の数が多いわけではなくなります。
 とはいえ、「豊富」ということばが、単なる数の比較を意味するのか、効率性(「か」←→「mosquito」のような字数レベルから「語」が表現する範囲の大小などに伴う意思伝達の効率、文法的な読み下すための難易からくる効率、教育など社会的要素を伴う伝達や理解のための効率、Googleなどで検索やインデックス化する効率など)なのか、芸術性(文学賞やコンテンツなど)の優劣なのか、などという比較パラメータが違ってくれば、今度は「語彙」に対する条件が言語同士で一致しなくなることにより優劣か決定されそうな気もします。
 ちなみにこの考え方は、大学の頃、レンタルビデオ屋で借りてきた某なんちゃらの遭遇と言う映画をぼーっと見ていて、感動的なラストシーンが言語の限界を物語っているようで恐ろしかったところから派生しているので、あまりほめられたものではないかもです。
 要は言語を用いて相互理解するとか理解を互いの言語で表現できている時点で人間という種であるかぎり「すべて」とされる「語彙」はどの言語でも同じ(自然に同じというわけではなく、同じにすることができるということかもしれない。)で、制約条件がない状態であるため、全体集合と一致することになるわけです。
 全体集合が「人間という種」という条件での集合に過ぎないとした場合、「人間ではない種」の集合は思いも寄らず、考えもつかない「語彙」のグループかもしれないし、先の映画の言語以外を用いなければならないという既に「語彙」の範疇を超えるものかもしれない、というのが原点です。
 ○○語なら分かり合えたよ!というラストではあまりに間抜けでしらけた話になってしまうので、演出上での話なのだとは思いますが、どの言語でもなかったということから言語の適用性を考えていった結果になります。
 しかしながら、この考え方は、少なからず辞書学の一部の領域などを完全否定しかねない空想的妄論なので、「おまえは何を言っているんだ」と逆に言われそうですが。
 ただ、否定されてしまうと、言語における優生論的思想を認めてもよいことにもなりかねないですし。
 まぁ、論理以前に総論っぽい領域(英語全体、日本語全体など)で優劣をつけるやり方自体が言語差別っぽい気がする(ぽいぽいって歯切れが悪すぎ)ので、はなっから身構えてしまう話ではあるのですが。


 いずれにせよ、歳を食ってくると「語彙」と単体で話中に現れた場合、発話者が想定する条件下の語の集合体である「語彙」においてはそうなんだ、ぐらいの認識でいいのかなぁ、などと枯れた考えに至っていたのですが、真理を探求する心は忘れてはいけないということでしょうか。
 勝手理論で放置していることがいかに多いことか、っていう。
 ちゃんと勉強しないとダメですね・・・