イは大きいのか小さいのか

 ウイダーinゼリーを始めて知ったのは、阪神淡路大震災である。
 たぶん、まだ当時は、スーパーやコンビニなどで一般的に販売されていなかったのではないかと思う(既に記憶があやふやだが)のだが、知人から「カロリーメイトしかなくてそれを水分なしで食うのとウイダーしかなくてそれを飲むのとを比べたら断然後者が楽だ」という話を聞いて、もしかしてカロリーメイトの缶入りみたいな新しいのが出たのか?と思っていたら全然違ってたという思い出がある。
 現在の震災において「しかない」プラス「それが続くかもしれない不安」などという状況に遭遇することはもはや認識することさえ不可能ではあろうが、当時、供給が困難を極めた地域においてはかなり重宝したようである。
 で、本題に入る前に、常日頃疑問に思っていたのは、なぜウイダーは大きい「イ」なのか、ということである。
 TVCFで外人っぽい声で「Weider」って言っているのを聞くと、私のクソ耳だと「ウィ・ダァー」であって、「ウ・イ・ダァー」ではないような気がする。
 ちなみに、発音記号を調べると、「ai」になっている(発音記号をそのまま書く方法が分からないので簡略化した。正確には辞書引いてね。)ところからして、実質的には「ワイダー」なんかい!とか思ってしまう始末。
 商標は、ウイダーウィダーも登録しているのでどっちでもよかったはずなんだろうが、なぜ森永製菓が大きい「イ」を選択したのか分からない。
 そもそも提携先が米Weider社であるから、森永製菓が勝手に決められるものでもないが、日本法人がない(はず)ことからすれば、日本的読み方は米Weider社からすればどっちでもいいはずだし、森永製菓が決めてもいい気もする。
 まぁ、「ウイダー」だろうと「ウィダー」だろうとgoogle先生は賢いので検索してくれるわけですが。
 ちなみに、知ってのとおり、正しくは「ウイダー」である。
 オフィシャルがそうなので。
 さて、なぜにウイダーinゼリーの話なのかというと、「ウイダーinゼリー、「奇跡的巻き返し」の裏側 (東洋経済ONLINE 8/21)」という記事が起点である。
 ただ、この手の話は、結果からよかった悪かったなどという世界である領域で評価される部分と、それ以外(例えば好き嫌い)で評価される(およそほとんどの場合は「する」)部分などに分かれるため、それ自体で当人が有能か無能かを示すものではなく、非難するわけではないことを先に断っておく。
 で、記事の中身はというと、定番商品で売上も安定していたウイダーinゼリーのパッケージを著名デザイナーを呼んでリニューアルしたが、結果売上が落ち、4ヵ月後にもとに戻したというもの(参照した記事以外の記事に書いてあることも含む)である。
 ちなみに、ウイダーinゼリーのパッケージはこれまで多分何度も変更されているはずであるが、商品コンセプト上と機能性から考えて大きくいじってはいなかったように思う。
 個人的には、最近あまりウイダーinゼリーを買っていなかったのだが、よくよく考えてみると、スーパーで「あ、また何か変なパチモンPB商品が出てきたなぁ」と思っていたのが今回話題になっている新パッケージだった。
 かといって、今回はパッケージデザインをいじりすぎただけだ、ということかというとそうでもない気はする。
 父がデザインを制作する仕事(正確にはデザイン(意匠)も含めてする仕事)をしていた関係上、デザインを突き詰めれば相手側の機能も侵食するという衝突が発生し、それのコントロールの仕方によっては、外見上デザインがへっぽこでも落としどころがそこしかなかったという苦渋の選択に迫られたがゆえの結果という場合もある、という泣き言みたいに受け取られるかもしれないが、そういうもののようである。
 そういう意味では、パッケージに与えられた機能を満たす最大限の努力をしたのだが、商品全体として総合的に結果に結びつかなかったとも考えらなくもない。
 しかしながら、「森永製菓、「ウイダーinゼリー」まさかの躓き (東洋経済ONLINE 8/16)」を見ると、当該デザイナーが『今回のリニューアルではデザインのみならず、クリエイティブディレクターとして、ブランドコンセプトの設計からコミュニケーション戦略まで、トータルでプロジェクトに参画した』とあり、商品の市場における定義づけのようなところから中心的な立場として携わっていることになる。
 成果主義的な観点から捉えると、社員であるならば、閑職に追いやられるなどで詰め腹を切る羽目になるであろうが、社外との業務委託契約であるならば、少なくとも売れなかったからといって瑕疵でもなく、三顧の礼で迎えるデザイナーであれば、報酬の半分は売上が伸びてから判断するなんて契約条項を忍ばせることも無理があるだろう。
 いうなれば「やり逃げだ!」と揶揄されても不思議ではない世界ではあるのだが、だからこそ逆にやりがいのある世界だ、と父と同職の人(基本的に個人事務所が多いので)が教えてくれたことがある。(父はそういうことを言わない人だったので聞いたことはない。ただ、個人事務所の同業が多いだけに薀蓄を私のようなガキ相手に垂れる者もいたというだけである。わかるかなぁ、わかんないだろうなぁ、と言われながらも実のところ結構ためになった気はしている。)
 先に成果主義ということを書いたが、一般企業や個人が数値的に推し量られて評価されることが常態化し、さらに厳格化(+厳罰化)している昨今において、芸術なので定量的に判断できない、ということからその流れから完全に取り残されていた世界であるわけではあるが、こと、今回のような工業デザインの世界においては、既に機能に対する付加価値という次元から機能と融合する次元に移って久しい。
 あまりいい例を思いつかないが、たとえば「かっこいいから使ってみたい」ではなく「かっこいいから使いやすい」というような価値の違いであろうか。
 ちょっとググっただけで見つからなかったので、合ってるかどうか怪しいのだが、ウイダーinゼリーの昔のパッケージデザインをした人は、理系卒(機械が電子かだったと思うのだが)だったはずである。
 理系と文系と人をわけるのはどうかと思うし、学歴(今回デザインした人は、さのった人で有名になった美大)で判断するのもどうかと思うが、符合する点を探してしまうのは悲しいサガではある。
 ここからは、単に私の好みとか性向に起因するものなのだが、今回デザインした人の工業デザインに関しては、極度の拒否感がある。
 個人的に工業デザインというのは、
 1) 行使する内容を想像し行使したいかどうかを感情化、意識化する
 2) その感情や意識から行動を選択する
 3) 実際に行使する
 4) 行使中、または行使後の感情や意識から次回の行使への知見として蓄積される
という各段階で機能すると考えている。
 で、今回デザインした人の工業デザインに関しては、私は1)の「行使する内容を想像」した時点で、拒否感が半端ない。
 要は、使いたくなかったり、商品を手に取りたくないという形である。
 具体例でいうと、その対象を某コンビニのコーヒーメーカーと当該人物がデザインしたウイダーinゼリーのパッケージとする。
 使いたくない感覚が起こる原因を考えてみると、こじゃれてはいるが非常に使いずらそうという先入観を持つことにある。
 ちなみに設置されてすぐにその気持ちを押さえてむりやり使ってみたが、自分の中で余計にその使いづらさが引き立つ結果となってしまった。
 あくまで感覚的な話ではあるが、世間にあふれているボタン型の入力装置を無意識にマニュアルもなしに操作している脳内の工業デザインの統一感に則っていないように感じたものである。(※個人の感想です)
 一人世帯のデザイン意識の高い女性をターゲットにした家電とかであれば、慣れで問題ないであろうが、不特定多数の者が操作することを考えればあるべき形は違ったのではないか?または、そういった無意識な領域でのユーザビリティに関する知識やセンスが欠如しているのではないか?と思ったものである。(※しつこいですが個人の感想です)
 同様にウイダーinゼリーも先述のとおり「パチモンのPB」と捉えた時点で、自らが指名買いで探すというシチュエーションでなければ購入に至らないどころか、手に取ることすらなかったというのが実情である。
 まぁ、簡単に言うと、今回デザインした人とセンスがずれているという話ではある。


 と、言ったところで、今回デザインした人が巣に帰るわけでもなく、下級国民のゴミカス1匹のたわごとに過ぎない。
 そういう意味でできる自営手段はそれなりに限られているだろうと思われる。
 選択肢を複数持つ、代替品を見繕っておく、メーカーと商品名をちゃんと覚えておいてブランド戦略なんかで新旧が結びつかないほど変わってしまってもググればなんとかなるようにしておく、最悪の場合、無理やり慣れる、ぐらいか。
 まぁ、年寄りは順応性が低いからしょうがないさね。


 んー、そういえばキリンの別格も同じ人なんだよね、確か。
 まさか企業の業績を叩き落して危機感をあおって発奮させ、結果的に売上を伸ばすデザイナーってことは・・・・ないよね、さすがに。
 あと、個人的にダイワだけはマジ勘弁。
 あれに生理的嫌悪感をもよおすのは何故だろう。(こればっかりは分からん。)
 言い出したらキリがないのでやめる。