続けたくないけど一昨日の続き

 くだんの件で、とうとう県側に凸った者が現れたようだ。
 当該組織のイデオロギーにかかわる結論ありきの論説であるため、記事のリンクはしない。(引用はするけど。)
 とりあえず、該当部分のみ抜粋すると、『イベントを主催した同県子ども家庭課の小島厚課長は「ショッキングだ。勇気を振り絞って話した生徒への個人攻撃だけはやめてほしい。食べるものや着るものがあるとしても、修学旅行や部活の遠征に行けなかったり、進学をあきらめたりする『相対的貧困』の見えにくさを考えようというイベントだった。まさに見えにくさゆえに誤解が広がってしまった」と話した。』とのこと。
 なんというか、ここでも出ますか、最も効果的に機能するかわりに致命的というキーワードが、という。
 あまり、触れたくないんだけどなぁ、『『相対的貧困』の見えにくさ』という話は、、、と思いつつ、毒を食らわばなんとやらなのでとりあえず、書いてみることにする。
 余談だが、20時07分から23時23分の間に何があったのかは知らないが、記事に追加された箇所に登場する人物は、多分ことの内情を理解していないし、理解する気もないし、激情にかられて一方向に振れ切っているように感じられるのだが、もう少しおちつけ、と思うとともに、貧困に喘ぐ者はこんな人に意志や言説を委ねなければならないのかと思うと悲しくなる。

 さて、『『相対的貧困』の見えにくさ』なのだが、まず、相対的貧困について。
 説明は面倒なので省くとして、OECDにおける計算式は、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人員数の平方根で除す)において全人口の中央値(真ん中の人の金額)の半分未満の金額が相対的貧困の基準であると定義しているようだ。(これもめんどいので大雑把。ちゃんと裏をとって書いてないので容赦願います。以下同じ。)
 実際、自称貧困問題かぶれの者が意気揚々と「絶対的貧困」と「相対的貧困」ガー、とか言い始めても、果たして正しく理解しているかどうかよく分からない(私の知識が大雑把なのも問題あるかも知れないが)のだが、「絶対的貧困」を生活保護制度のような収入という絶対的な数値を基準にして貧困か否かを判定することで、「相対的貧困」はその時代の文化レベルにあわせた基準(ここで憲法を引き合いに出す場合も多い)によって貧困か否かを判定するという論法を目にすると、持論はいいのだが、さすがにそれは既に定義されていることばと衝突するからやめた方がいいのでは、、、と思うことはある。

 今まで、あまり触れなかったが、そもそも当該県は何をよりどころにして政策を展開しているのか、実のところよく分からない。
 以前の記事で触れた「子どもの貧困対策の推進に関する法律」の大綱に則った行為であるならば、「相対的貧困」なんてことばどこから持ってきたの?という話になる。
 実質的には先の「OECDが定める相対的貧困率」と同じ計算式(同値)である「貧困率」(大綱では限定的に「子供の貧困率」と「子供がいる現役世帯のうち大人が一人の貧困率」の2つ)が評価指標として設定され、定義されているわけだが、大綱の中には、「相対的」か「絶対的」かを「貧困」に対して分離する表現も、さらにはそのことばさえも用いられてはいない。
 当該県は地方自治体としては裕福であろうと想像できるため、県独自の独立した施策の可能性も高いし、特定の利権にまわる予算もそれなりに確保できている可能性もあるのかもしれない。
 ただ、そういうところを疑ってかかっても埒があかないため、「子どもの貧困対策の推進に関する法律」に関連する施策であると考えて先に進む。

 某はてなの炎上しているブログ記事を読んでいると、一般的に「貧困」と語られると「絶対的貧困」を思い浮かべてしまうために「相対的貧困」を「貧困」と代用する表現は誤解を生む、というようなことがコメに書かれていたが、政府の大綱もそういった意志伝達の不整合を生まないために、あえて計算式を沿えて「貧困率」と表記したのだと思われる。
 そもそも大綱に則った行為であるならば、大綱に評価指標が定義されているにもかかわらず「見えにくさ」を強調するのも各所にケンカ売ってる話になりかねないので、結構不用意な発言のような気はする。
 また、公共団体における政策の透明性が求められている昨今、執行者側が「見えにくさ」を売りにする施策というのもいかがなものかと思う。
 下衆な勘繰りといってはそれまでだが、行政監視の観点から常日頃から執行者側は細心の注意を払う必要があると私は実感していた。(経験上、ね。個人の経験や感覚を一様に水平展開してしまうのもそれはそれでどうかとも思うが。)
 およそ、自治体の担当者側が自ら責任問題に触れることは決してしないわけで、原則的に土俵際ぎりぎりまでねばるのが定石である。
 さらに、責任問題に触れないような話題の方向付けをするために、こういった問題においては、「驚きました。とても心配ですねぇ。やめてほしいですぅ。orたいへんでしたぁ。」的な責任の所在も明らかにしない、責任もとらない、余計な作業を自らしゃべって仕事を増やさないという持っていき方が定石とされる。
 ただ、そういった観点から、発言の構造は似ているので定石どおりなのだが、いかんせん『『相対的貧困』の見えにくさ』という表現があたかも流行語のごとく軽々しく扱っているわりには、発話者の立場的な属性を考えれば、重くのしかかっているように感じざるを得ない。

 では、「OECDが定義する相対的貧困率」について触れてみる。
 「OECDが定義する相対的貧困率」は、今回の件でクローズアップされた感があるが、かなり前から話題にはなっていた。
 話題になるのも悲しい方向という意味でなのだが、要は日本の「OECDが定義する相対的貧困率」は、先進国の中ではかなり上位(よくない側)に位置するということである。
 報道などではOECDが調査対象とした国全体で見ても日本はよくない方で、経済が発展途上にある国ではなく経済が成熟した国の中では先述のとおりかなりよくない、と表現されることが多かったように思う。
 その理由や分析などは、様々な研究者や機関が議論を積み重ねてきたところであろうかと思うが、賽の河原状態で、積み上げた知見を崩してまわるような者によって阻まれ、未だに国民全体に知見が広まっているとは言いがたいと感じる。
 ググって情報を集めるなどという行動を捉えれば、問題自体が感情的、激情的でかつセンシティブであるため、必要な情報の取捨選択が難しい部分もある気はする。(基本的に検索結果は声が大きい者に重み付けされるわけなので。)
 前回の記事に書いたが、いわゆるセーフティネットを検討する場合にも当然「OECDが定義する相対的貧困率」は、当時評価指標として意識せざるを得ないものの1つであったのは確かである。
 というのも、具体的施策案にいかような理由付けをこねくりまわそうと、その結果は、施策の対象となった個人がどうであったか、を具体的に考察するわけではなく、ほとんどの場合、見える化と称して数値化された評価指標によって判断されることは、成果主義的な世界で活動している者からすればおなじみの現象であろうと思われる。
 そこで、研究者にとっては、その指標が本質的にどういう意味を持つのか、どういった場面で正しく適用できるかなどの適用可能範囲や可用性、指標に近しい周辺のパラメータ(一部の経済指標や今回の件だと労働関連の指標など)との相関や時系列的な意味合いなどを分析し、論理化するわけであろうし、なんたらな人はその指標で振り分けられた結果に対して激昂し声を荒げる(物理的音声という意味ではない)わけであろう。
 しかしながら、その指標によって評価される側を想定(置き換えて考えると、会社でとある評価指標で査定される社員)すれば、逆説的に評価指標の目標数値をいかに達成するかを考察するというプロセスもあっていいのではないか、という気もする。
 要は、売上目標という評価指標の目標数値が800万円だったとして、期限までにあと何万円売ればいいのか、そこから販売計画なり具体的な行動計画、スケジューリングを行うといった考え方、程度な話である。

 私があれこれ考察していた時期でも「OECDが定義する相対的貧困率」を施策などの評価指標とした場合、指標自体の意義は考慮しないこととしてどういう手段が有効であるのかという点について、それこそそのままコピペすれば報告書が完成するようなものはなかったように思う。
 単に検索ワードに問題があるのかもしれないが、そういった傾向は現在もその当時とあまり変わっていない気がする。(感覚的には、なんたらな人のなんちゃって版というかにわか版的な人は増えたように思われるが・・・)
 そんなわけで、当時どこの数値を変化させれば評価指標が反応するのか、どういうアプローチがよいのか仮説を立てたわけである。
 具体的には以下の3点である。
 1) 収入における労働行為と世帯間の距離感などの位置的変化ではないか
 2) 世帯における構造的問題ではないか
 3) 等価可処分所得の分布全体から単純に効率解を求められないか

 1)であるが、もともとの考えは、産業構造の変化などにより個人事業主が多かった時代から雇われ労働者に移行する際、何か大きな政策的見落としをしてきたのではないだろうか?というところが起点にある。
 個人事業主と雇われ労働者の立場の違いに起因する事象は多岐にわたるが、多分、分析の世界では前者は事業収入、後者は給与のみで考察(前者は事業主の給与や専従者給与などもあるが、めんどいので省く)している可能性は高いが、個人事業主の労働行為における現場と世帯との距離は近く、そのリソースの流動性はそれなりに考慮することが可能ではないかと思われる。
 逆に雇われ労働者の立場になれば、職権濫用を用いた会社の私物化やいわゆるミクロ的横領などといった実質的な違法行為ぐらいしか残された道はないほどその距離感は遠くなる。
 例えば、半分家族経営のような中小企業で、幼稚園や保育所の送り迎えを社員が当番でやる(当然、当番ならば勤務時間に遅れたり勤務時間中に抜けることになるが、給料とは無関係)という明文化した育児休暇・時短制度があるわけではない領域において、労働行為(会社そのものともいえるかもしれない)と世帯の距離感が近いことによる柔軟性でもって、統計に用いられる金額に添加することなく雇い主、雇われ労働者双方が弾力的にそれを吸収している事例に出合うことがある。
 この事例でいうと、距離感が近いと統計に出てくる金額以外に企業が実質的に負担している金額が存在し、世帯における生活の質の向上が金額からは見えてこない。
 逆に、そういった世帯における生活の質の向上のためと称して育児休暇・時短制度などの企業からの金銭的な補助がある場合は、その向上のための金額が統計には反映される。
 が、実態として、企業にとって払えるカネは有限であり、どんどん手当てを増やして労働者配分率を常に100%超えていては、存続し得るわけもない。
 これを解決する方法は基本的に2種類しかなく、売上を増やすか支出を減らすかである。
 しかしながら、昨今の経済停滞を考慮すれば売上をほいほい伸ばせるわけもない。
 経営的に火の車の会社においては、手当てが増えて基本給が減るなどの話が出ることがあるが、そこまで露骨ではないにしても、増やした手当てはどこかで吸収しているということを考えなければならないということであろう。
 さて、具体的な話として、労働政策研究・研修機構が発行している国際労働比較Databook2015のp.90を引用すると、『従業上の地位別構成を時系列でみると、アメリカ、スウェーデンなどは1960年代に既に雇用者割合が8割を超えていたが、日本では、約5割(1960年)、約6割(1970年)、約7割(1980年)、約8割(1990年)と徐々に上昇してきた点が特徴的(中略)。こうした傾向は、経済の発展に伴い主要産業が自営業や家族従業者が中心であった農林水産業から雇用者割合の大きい製造業へ、さらに雇用者割合の大きいサービス業へとシフトし、それに伴って就業構造が変化する過程の一端を示している。』とある。
 ちなみに、このような国内での傾向については、中学校レベルで学習するだろう。
 で、実はここから先が資料がない。
 勝手に想像すれば、「OECDが定義する相対的貧困率」がお互い高めの日本とアメリカを考えた場合、雇われ労働者の比率がアメリカ並みに増えてきてやっと日本の「OECDが定義する相対的貧困率」がアメリカのそれと肩を並べるようになった、とも取れなくはない。
 アメリカとEU諸国(一部を除く)を考えた場合、雇われ労働者の比率が変化せず、構造変化が双方起こっていないにもかかわらず、アメリカの「OECDが定義する相対的貧困率」が高いのは、よく似た労働者保護政策を打っていてなお存在する有意な差は日本で起こった構造変化と同様な30年以上前の構造変化時に違う分岐を選んだ何らかの変節点があったとも取れる。
 さらには、日本とEU諸国(一部を除く)を考えた場合、構造変化に30年以上のタイムラグがあることから、EU諸国(一部を除く)の歴史を参考に政策を打つだけで30年後にはEU諸国(一部を除く)と同程度の数値に落ち着くという楽観的な可能性を模索することもできるかもしれない。
 いずれにせよ、「OECDが定義する相対的貧困率」、個人事業主か雇われ労働者かといった構造的なものの比率、先ほどの距離感に関する客観的な指標などの各国における年次変化が分からないと分析はできない。
 確かなのは、現状、EU諸国とその構成比が変わらないにもかかわらず、日本の「OECDが定義する相対的貧困率」が高い理由付けにはならない、ということぐらいではある。
 結局、1)は仮説のみであって裏付け資料がないためその仮説からむりやり想像していっているだけに具体的にどういじれば「OECDが定義する相対的貧困率」の数値が減るのか考えづらい。
 個人事業主を増やせばよいなら個人事業主を極端に優遇する制度(公共事業の個人事業主の優遇とか)を作るとか、行使しなければならない行為(先の例だと幼児の送り迎えなど)のために計算上可処分所得が増えたように見えることが問題であれば、計算上可処分所得に計上されない政策(企業が当人に給与として支払うのではなく、当人が機能を満たすための行為が当人においてのみ金銭のやり取りが存在しない(金銭的取引はBBG間のみ)ようなシステムをどんどん特区などで立ち上げて致命的問題がなければさっさと全国展開するとか(ちなみに、無料券のような換金性が存在するようなシステムは利権屋はありがたい金づるではあろうが当然それゆえ有効性は低い))が考えられるが、これも想像上の産物である。

 2)については、これも義務教育で覚えさせられるキーワードだと思われる「核家族化」などの領域である。
 最近の世代においては、「核家族」の方があたりまえで、「核家族」でない世帯構造がアスファルト舗装されていない道路ばかりが出てくるアニメの中ぐらいでしか認知できない状態からすると、既に学校で「核家族」などということばは使用されていないかもしれない。
 総務省統計局が公表している世界の統計2016 2-9世帯の項から計算すると、日本の平均世帯人員数は2.41である。(世帯人員が6人以上の場合は6人として算出。以下同じ)
 平均世帯人員数はおおむね発展途上国においては多めに経済が成熟すれば少なめになるといわれているが、それ自体が貧困と数値的に相関があるとしても、現象として直接的に結びつくわけではなく様々なプロセスを経た結果として現れていると考えられる。
 ただ、どちらが主でどちらが従かというと主は経済の発展度合いということになる。
 そうでないなら、発展途上国は既存の世帯を分割するだけで一気に経済成長を遂げてしまう。
 要は、その国の経済の発展度合い、成熟度合いに世帯構造が最適化された結果、平均世帯人員数として現れているような気がしてならない。
 「OECDが定義する相対的貧困率」が総じて低いと言われるのはEU諸国であるのだが、旧社会主義国であった東欧諸国や経済的特性がかなり特殊なルクセンブルクやスイスなどを除き、引き合いに出されることが多いのは、先のスウェーデンやドイツ、オランダ、イギリスなどであろうか。
 個人的にフランスを外したのは、労働環境が結構特殊であることがあるためだが、それを言い出すとどこの国にも経済的な特徴はあるといえばある(例えば、スウェーデンは労働環境よりも国民的意識として教育期間を過ぎると経済的に世帯を分離するという性向が強いことが世帯人員数に影響していそうではあったりする)ので、あまり深入りしないでおきたい。
 で、オランダはデータがなかったので、残りの平均世帯人員数はというと、スウェーデン:2.13、ドイツ:2.12、イギリス:2.34である。
 ちなみに日本と同じ先進国でありながら「OECDが定義する相対的貧困率」が高いお仲間であるアメリカは2.54で日本よりも大きい。
 様々な経済指標で経済的豊かさを推し量って先進国であることが定義づけられているとは思われるが、世帯人員数となって現れるような経済構造というのはその先進国というような定義とは微妙に違っている、もしくはさらに分類する必要があると考えられるかもしれない。
 先述のとおり、その主従関係から日本の平均世帯人員数を「OECDが定義する相対的貧困率」が低い国にあわせる形で2.4→2.1とかにすれば解決されるわけではない。
 むしろ、日本の現状の経済状態では、世帯人員数を減らしても労働市場に好影響を及ぼすとは考えにくく、経済全体にマイナスに触れると思われるし、日本の経済構造がかなりの部分でアメリカを手本にして形作られていることを考えれば、その構造の最適な値は、アメリカの数値である2.5付近でさえないと考えてもよく、その適切な数値というのは、大きめの値なのではないかという仮説を立ててもいいのではないかと考えてしまう。
 こういう観点は、前の記事でも触れた分離している世帯同士の経済的融通性といった世帯分離の問題も含まれることになる。
 数値を求めるには実現性が乏しいが、世帯間の経済的つながりを考慮した上で等価可処分所得をさらに補正した場合、その結果は変わってくる可能性はあるだろう。
 しかしながら、世帯分離の問題には、逆の側面もある。
 それは、とりもなおさず、世帯が分離することで経済的に破綻する(収入がなくなる)世帯が誕生してしまうような問題である。
 世帯における構造的な問題は世帯人員数のほかにも世帯における有業人員数も非常に密接に関わっていると思われるが、これについては資料がない。
 行政側が貧困者であると認定してしまった者に対する支援に関して世帯分離の問題を考える場合には、もはやカネを出すか出さないかの線引きをいかように決めるかの話に過ぎないためどうしようもないとは思われる。
 ただ、一部冗談で独身税であるとか唱えられているが、世帯にかかわらず生計を一にする者同士であることが認定できるシステムがあるとした上で、多いほど優遇する、もしくは最頻値を4(目標平均3.2とか)としてそれから離れる世帯にそれなりの行動圧力をかけるような施策によって「OECDが定義する相対的貧困率」が低下するかもしれない。
 また、生計を一にすることが面識がなければならないわけでもなく、その支援のレベルも画一的である必要はないため、例えばふるさと納税制度のようなシステムを用いて、自らが支払う実質的税金(ふるさと納税制度も支払っているのは税ではない)は貧困者支援という目的税みたいなものであるが、そのカネで支援を受ける者は行政側に委ねるといった形態による保障制度で、同様に「OECDが定義する相対的貧困率」は低下するかもしれない。

 最後に3)であるが、まず先に等価可処分所得ジニ係数から考えてみる。
 ジニ係数も受験用語ではあるが、教科として無関係であれば習っていないかもしれない。
 めんどいので細かい説明は抜きにして、その数値が大きいと等価可処分所得の格差が大きい、という程度で留めておく。
 で、その数値はと言うと、大雑把にアメリカは大きく、日本はEU諸国とあまり変わらない。
 しかし、日本はEU諸国と比べて「OECDが定義する相対的貧困率」が高いことを考えると、ジニ係数では、現在議論になっているような「貧困みたいななにか」や「格差社会というようななにか」を正確には現せていないことになる。
 その疑問に答える解答なり資料なり書籍なりはあるのだろうとは思うが、面倒なので調べていない。
 で、計算や数式などであまり頭の使わない直感的、感覚的なところから考えられないかとして思いあたったのが、等価可処分所得の分布全体から単純に「OECDが定義する相対的貧困率」を下げる効率解を求められないか、という話である。
 実際のところ、当該問題の資料では「OECDが定義する相対的貧困者」がこんなにいる!的なグラフの作り方をしているので、全体の分布ではなく参考にならないことが多い。
 また、各国の分布を並べて直感的にその違いを見てみたい気はするが、数値が揃わないのと面倒なのでやめる。
 多分どこかの研究機関とかがもうやっているだろうとは思うが。
 ちなみに感覚的につかみづらい「OECDが定義する相対的貧困率」であるが、単純化のために可処分所得の補正を行わないと仮定して、1人目が1円で、2人目が2円、1億人目が1億円という形であった場合、「OECDが定義する相対的貧困率」は25%になる。
 正三角形であった場合、12.5%、全員同額であれば0%である。
 何かの分布を想像する場合、正規分布のような形を思い描くかも知れないが、可処分所得にマイナスはない(借金が含まれていない)ため、0円で打ち止めである。
 このため、基本的には0方向に向かって下膨れな形になっている。
 さて、日本における等価可処分所得のグラフのイメージは、横軸金額、縦軸人数とした場合、

  / --___
 /     -----_______

みたいな感じである。
 そして、最頻値は中央値よりも小さい。
 そこで、「OECDが定義する相対的貧困率」を下げるためにどういう方法があるのか全人口のヒストグラム全体を見て考えると、例えば、
 a)最頻値を中央値未満に近づける
 b)中央値周辺の層を最頻値付近、またはそれ以下に持っていく
の2つが思いつく。
 以下、数字遊びを行う。
 a)は、最頻値に特徴的な環境、構造的な特徴を特定し、その部分を重点的に支障除去、支援するという不公平ではあるが、ボリュームという点で効率的に底上げするという方法が考えられる。
 限られた予算を配分する場合、下からばらまいても「OECDが定義する相対的貧困率」はあまり改善されないからだ。
 当然ながら、前提として語義どおりの絶対的貧困への対策は生活保護制度等で担保されるものとする。
 デメリットはめんどうなので書かないが、メリットのなかで特徴的な点であろうことは、「OECDが定義する相対的貧困率」を低減するにあたり、具体的にどのような行為が「OECDが定義する相対的貧困率」に寄与し改善すべき「OECDが定義する相対的貧困」の事例なのかが明確に定義されることであろう。
 以前の記事でも書いたが、何らかの明確な目的を持った定義を行わなければ、網羅的であることに加えて新たな欲望が生まれるたびに付加していかなければならない、とか考える者がいても不思議ではない。
 昨今の上見りゃきりなし下見りゃきりなし的な認識のぶれは自らの生活環境や指向性などによって生成され、結果優先順位なり要不要なりに反映されて当然で、またそれを否定して回るのも現実的ではない。
 だからといって、執行者側がこっそりと秘密のものさしを隠し持っていたりすると、本当に救うべき者への支援に対して民意をえられないという事態になりかねない。
 そういう問題に対応することはできるかと思われる。
 b)は、ヒストグラム的にいえば中央値から逆方向側での考え方で、中央値周辺の層を最頻値周辺、またはそれ以下に持っていく方法である。
 等価可処分所得における中央値前後の世帯と最頻値の差を税として巻き上げることで相対的貧困率は下がる。
 計算上からいうと、超高所得者に重税をかけて巻き上げても税収自体は増えるかも知れないが、人数が少ないため相対的貧困率はそれほど下がらない。
 税の名前を中央値・最頻値乖離税(ネーミングセンスもへったくれもないな)とした場合、毎年、前年の統計値から税率が変わる痛い税となる。
 ただし、1年スパンというタイムラグはあるものの、常に「OECDが定義する相対的貧困率」が改善され続ける。
 さらにメリットかどうかもはや分からないが、「OECDが定義する相対的貧困」に該当する者に対して様々な条件を設定して支援する必要もなくなる。



結局のところ、「OECDが定義する相対的貧困」というものは、具体的な生活ぶりから感覚的なものとして推し量る(例えば、『文化的』であるかどうかなど)数値ではない。
 ただ、カネが動く以上、その感覚的なものを否定していいわけではないだろう。
 その感覚と数値の乖離をどう埋めるか、ということになるのだとは思う。
 先述のとおり、政府の大綱では「相対的」というその乖離に鋭敏に反応する可能性が高い用語や考え方を排除したにも関わらず、下々に降りた時点でゾンビの如く復活するのは非常に不幸なというか業の深さのようなものを感じる。
 変な話、行政側の施策に対する感覚的な肯定や否定とは別に、支援制度などにおいては、試算段階で想定した人数や金額などから予算が設定されるわけであるが、実施後、それとの乖離が大きい場合は、これまた問題視される事項となる。
 要は、「OECDが定義する相対的貧困」は、具体的な生活ぶりから感覚的なものとして推し量るものではないがゆえに、条件的に支援を受けられない人が支援内容を否定する以外に、条件的に支援を受ける基準に合致していながら基準に合致していないと思い込んでいる層が存在するという部分が行政側としては恐れるところであると思われる。
 また、予算的な問題以外にも、他の施策の影響も当然ありはするが、あまりに支援が進まないようでは、大綱に示された評価基準を満たさないことにもなりかねない。
 こういった行政側の思惑と利権側の思惑とが合致した結果が、今回目立つことになってしまった、「貧困の認知」であろうと、私は考えている。(昔からあった考え方だが。)
 「貧困だと思わなかったのだけど、実は貧困だったのかぁ!(あっと驚く云々)」ということを認知する、というよりかは「させる」ことである。
 これを手段化した場合、認知「させる」ということで、例えば、あなたはこんなこともできなかったのよ、あんなこともできなかったのよ、それもこれも全部云々、という形で半ば洗脳していく手法へと昇華していく。
 別にそれが悪いわけでもない(よほどの強制的行為に出ない限り罰則のある違法行為にはならない。踊らされる者においてはその限りではないが、それは少年法の観点などから除外する。)が、カミングアウトすれば認められる的な発想が一般的に定着することは、あまり健全な心理状態ではないと思われる。
 手前味噌だが、その昔「潜在的貧困」などということばを仮定してみたことがあった。
 「潜在的貧困」は昨今の「かくれ貧乏」とよばれるものや家計がプライマリーバランスレベルで破綻している状態などを指すものではない。
 人間の潜在的能力(政治的能力、社会的能力、経済的能力、人間的能力、保護的能力)力を発揮する機会が剥奪され欠如し、社会的に隔絶された状態といった意味を貧困と定義することによって設定された「人間開発指標」から少し踏み込んで、人間の潜在的能力(政治的能力、社会的能力、経済的能力、人間的能力、保護的能力)を発揮する機会自体は与えられるが、何らかの形で選択肢になりえない状態として定義したものである。
 「人間開発指標」の定義である貧困の状態ではないが、取った選択肢によっては、貧困の定義に合致する状態に陥るような状態を指す。
 要はプチ貧乏の一種のようなものではあるのだが、セーフティネットの検討から派生しているため、バッドエンドへの条件分岐をいかに避けるか(いわゆるリスクヘッジ)、将来における行動の選択とその実現性、およびその行動への計画性をどの時点でどの程度持ち合わせるのかなどにより、ネットがなければフリーフォールしていく状態ではなく、ある程度当人が自助的に機能するようなシステムを作ることを考えた時に、自らの状態と自らの将来の状態、選択肢を的確に「認知」する必要が出てくる。
 この認知に対する支援は、自助的な支援ということになろうが、先の認知に対する支援は、他律的な支援に意味合いが近くなる気がしてならない。
 もし、セーフティネットの時代の考え方をパクっているのなら、別に構いはしないが、悪用だけは止めてくれ、という気がする。
 これはこれで、負け犬の遠吠えなわけだが、なんというか、すっきりしないなぁ、という。
 まぁ、だから触れたくなかったわけではあるのだが。。。