残業が意味するもの

 便乗ということで、増田の「残業を禁止したらブラック企業が生まれた話」について書いてみたい。

 で、現実問題として、どう考えようといいっちゃあいいんだが、日本国内で労働する(企業活動を行う)以上、法律は守れ、ぐらいなものかと。
 過去の記事にも書いたが、法令を守ればいいのか?それでいいのか?という問題以前に、まず、最低ラインであるそこはクリアすべきでは?という気はする。
 それさえできておらず、何らかの社会的制裁なり指導・勧告なりが降りかかっても自己弁護を繰り返す層と同列に国内の数百万社を並べて考察するのはかなり無理があろうかと思う。
 時事的な意味で某社が労基や省の立ち入りに対して同様な対策で対外的にアピールしているが、基点が違えば到達点も別物になることを、一方に振り切れた極端な事例として明白だと感じている者も多いのではなかろうかと感じる。
 議論が活発に行われることはいいことなのだが、先の極端な事例は別としても、残念ながら個人で国内の数百万社のかなりの部分を経験として認知できる者は物理的に不可能だろう。
 3桁に達する者さえほとんどいないのではないかと思われる中で、自らの経験のみで数百万社に水平展開して語ることにある程度無理があり、その振れ幅や適用範囲が一概に想定することが困難であることを前提として議論を組み立てなければならないことが重要ではないかと思う。

 で、増田が経験したような事例は驚くほどでもないほど日常的に転がっているもので、個人的にもそういう企業に所属していたことがある。
 コメに『違うでしょ?昔からブラックだったんでしょ。』とあるが、経験上そのとおりだと私は思う。
 『「このままでは労働基準法違反の犯罪者として我々は全員捕まる」と当時の彼はよく言っていた。』とあるように、ほぼ恒常的に違法な状態が続き、再三にわたって労基から指導を受けていた(もしくはそれに類するレベル)のではないかと想像されるが、新しくやってきた役員は別として、既存の経営陣に遵法性が見られずかつその対策もとられていない(この場合、「かつ」と繋いでいるが、立場的にその有無ではなく計画し実行され成果をあげているかどうかのみから評価される)ことは、既にブラックだったと考えるのが一般的であろうと思われる。
 ただ、企業の立場として、メーカーといえど何らかの系列であったり子会社であったりするなど、経営層がある意味雇われ役員どころではない末端部署の管理職レベルといった権能しか有していない場合や親会社のリスクの掃き溜めにされているような場合にはある程度同情せざるをえないが、これはこれで脱法行為に近いため、何ともいいようがない部分ではある。(これはどちらかといえば社会倫理などの問題に近い。)
 さて、あまり突っ込んでいる者もいないが、『原則17:30以降は仕事禁止で18:00にはオフィスは施錠されるというルールが導入された。』とあるにもかかわらず、『早出の常態化→残業をとがめる人はいても、会社に早く来ることをとがめる人がいないため。』とあり、鍵閉めてるのになぜ開けるのはフリーなの?とか思ったりする。
 当の労務担当の役員の脳みそがザルなのか社内システム自体がザルなのか会社のセキュリティの考え方がザルなのか分からない(といいつつ、意図的であるならば、ある程度経験的に理由は想像はつくが、あえて)が、労働時間、または残業時間に対する認識が根底で部分的に脱落していると思われる。
 およそ簡単な分け方として、労働時間なんてのは、時間というだけあって単なる時間を単位とする数値であることが1つである。
 労基も原則的にこの数値でもってその善悪を判断しているといっていいと思う。
 しかしながら、企業は労働時間を費やして収入を得、さらには利益をあげなければならない。
 立場として、労働者の場合、固定給であれば前者は残業時間などとして認知され、金銭と交換される部分であろうし、後者は査定などとして反映されると認知されるだろう。
 一方、経営者であれば、独立企業のオーナーの場合、前者は基本的に意味を成さない。
 ただし、雇われ経営者の場合は、労働者に準じるが、労基としては意味を成さないと以前いた会社の役員は言ってはいたが、法的にどういう扱いになるのかは契約によるので会社によるとしかいいようがない。
 後者は、査定を行う対象がステークホルダに変わるだけであまり変わらない。
 しかしながら、経営者は自身の残業時間の認知に加え、雇用する労働者全体の認知を集約し、調整し、適正化を図らなければならない。
 先の「企業は」という主語に代表される仮想集合体としての認知を自らが体現しなければならないことになる。
 少なからず、この程度の認知が経営層にあれば別のブラック化が防げた可能性はあると思われるが、経営層が表面的かつ刹那的な対応のみに終始していては、それを構成要素とする「企業」というものは、もんどり打とうがのたうちまわろうがブラックな領域に居座り続けていることに変わりはないというだけである。

 あと、『負荷軽減を目指した施策が負荷を増やす。なぜこんな矛盾が生じたのだろうか?』とあり、その後に『一人当たりの仕事量が減らないまま強制的に勤務時間だけが減らされた』とあるが、要は計画した施策が『負荷軽減を目指した施策』という目的を果たすために機能しなかったというだけの話で、何ら矛盾はない。
 増田が『仕事量が減らないまま』と認識しているにもかかわらず『矛盾』と表現できるのか不思議ではあるが、それはそれとして、要は小学校の算数のレベルの話なので、何もいいようがない。
 とはいえ、そういったことが多くの企業で平然と行われているのもまた事実ではある。

 ちなみに、労働時間と労働内容とがどうのという話とは全く無関係にこういった経営層の行動が見られることもある。
 増田は半年ほどで転職したようだが、単なる口減らしというのが目的という場合である。
 今はそういった職業が成り立つのかどうか分からないが、その昔、中小などでは終身雇用がまだまだ当たり前で、首が切りにくかったころは、労務関係の流れの役員がやってきて社内を引っ掻き回して半分ぐらい人を減らすなんてこともあった。
 これは、労務的、会計的その他様々な領域にわたりコンプライアンスとして真っ黒(まぁ、当事者は大抵白に近いグレーだと言い張るが。)なのだが、要は企業としては継続することが経営層で意思統一されているため、冷静に見れば(その企業に雇用される者としてはほぼ無理だとは思うが。)ある程度節度をもってぐちゃぐちゃにしていたりするのが見えたりするものだ。
 とはいえ、社員にとっては嵐としかいいようがなく、処世術に長けた者は、会社が切り落とさない部分に閉じこもってしまうとか、それが無理な者はさっさと出て行く(事後に聞いた話だが、同業他社もそういった事情に薄々気付いているので思った以上に温かく迎え入れてくれたらしい。知らぬは社員ばかりなりである。)とかぐらいしかなかったりする。(会社の弱みを握って居座るというクソもいたが、まぁ、いい死に方はしてないんじゃないかと思う。1人は事故で処理されたしなぁ。まぁいいけど。)
 増田の過去勤めていた会社が現時点で元の体質、元の社内システムに戻っているならば、こういった線も捨てがたくはある。

 増田が転職した先が、同業でかつホワイトであったとして、どう違うのかということが一切触れられていないため、それが意図したものかどうかも含め分からないが、いわゆるベンチマーキングなどの手法により、増田の元々勤めていた会社がなぜブラックであり続け、さらには社会的に排斥されず存続し得るのかが分かるかもしれない。
 これは、メーカーというくくりではあまりに大雑把過ぎ、また業務形態(製造現場を持つかとか海外工場の有無や系列、親会社など)などでも比較対象にならない場合もあるため具体的に見なければ分からない。
 ただ、どこの企業も同じパターンのブラックさであるなら業態として無理があるわけで、当然労基もそれを把握しているだろうし、さらにはどの会社をスケープゴートにするか虎視眈々と品定めしている最中だったかもしれない。
 ちなみに、同業間で体質的に緩い護送船団方式から抜けられないところは、増田の過去勤めていた会社のような何振り構わない労基用の対外アピールを打ってしまうと、体力が弱った隙に他の同業に袋叩きにあったり、零細なんかだと突如社長が海外逃亡なんて話(どういった層が関与しどういうプロセスでその結果を招いたかは噂の域を出ないのだが、まぁ、これもどうでもいい)もあったりする。

 で、結局のところ、『本当に負荷を軽減するなら、仕事の柔軟性や裁量を増やすべきで、/長時間勤務も短時間勤務も在宅勤務も認めるようにするべきだと思う。』という形で締めているのだが、先の小学生の算数からいえば、なぜ一方だけが可変なのか?ということになろう。
 その部分については、増田の追記で若干述べられている。
 それは、A2の最後に『これ以上どこに無駄が残っているというのだろうか?』とあるのだが、その前に記載される事例からは、○○というデバイス、ツールを導入した、○○という業務をやめた、という点に終始している。
 確かに無駄は残ってはいないかもしれないが、実態として尾を飲み込む蛇と同じことで「あとは自分自身が無駄」というところまでいかなければ無駄はあるという人もいるので無駄だけを論じるとすれば何ともいえない。
 まぁ、これはある意味皮肉なのだが。
 で、結局のところ、そういうばかばかしい領域に至るまでもなく、もう2、30年ぐらい前には、「やめる効率化」から「行う効率化」に移行している。
 これは、何もパラダイムシフトを伴うような大掛かりなものである必要はない。
 増田自身が「効率化」に対してつりでとぼけて書いているのかどうか不明なので詳しくは書かないことにする。

 以降、追記の部分に移る。
 まず、A1の部分。
 『ちなみに新役員のイメージとしては』云々の部分だが、例示された彼を擁護する気もさらさらなく、むしろ数社を半殺しにしてきた疫病神だと心底思っているが、彼の手法は、短期的にバランスシートの見栄えをよくするためのもっとも数遊び的に効果的な施策を打つだけであって、今回の事例において、はたして残業時間云々に手をつけることが有効な手段であったのかどうかはよく分からない。
 当の企業が人件費率の高いサービス業であればそれもありかとも思われるが、数百人規模のメーカーということなら、人件費がどの程度損益として重しになっているのか想像するのは難しい。
 また、『人件費削減という汚れ仕事をよそ者に押し付けたい』のであれば、先述の社内を混ぜっ返すための一手法として残業時間削減を掲げた場合などを除き、基本的にクビを切ることから始めるだろう。
 労務的に残業時間をがんばって減らすより単純に人数が減る方がよっぽど経費削減としては大きく効いてくるからだ。
 ただ、経営層が企業統治という意味で限りなく無能でも、ある程度企業が維持される関係上、先の小学生の数の比較レベルで理解できる部分が正しく理解できない者も少なくないので、これも何ともいえない部分ではある。

 A2の『人員に余裕を持つということは、不況時にリストラされる可能性が上がることも意味している』。
 そのとおりではあるが、それは社会的な『不況時』に限ったことではない。
 多分、当該企業が業績不振に陥ったときも含んでいるのだろうとは思うが、あえて分けて考えたいところではある。
 まず、マクロ的な不況下では、クビになる可能性は当然高い。
 しかしながら、昨今の持続的不況の場合は別として、一般的には、経営層の考え方によって、例えば景気が上向いたときに一時的に労務的費用を集中して投下することで生産に対応する(さらに借金するにしてもその時点では金利は上がっている)のを是とするのか、不況下で借金してでも景気が上向いたときの労務関連の費用増大を平準化させることを是とするのかによってクビになる確率は変わってくる。
 景気が悪い時期から上向く時も労務倒産(最近頻用される人手不足が原因の倒産という意味ではない)の関係上、残業してでも現場を回さなければどうしようもない状態であろうとクビを切るなんてことも発生することもある。
 資本主義社会である以上、クビを完全になくすことは無理だとは思われるが、逆に『リストラを食らうくらいなら平時は残業で労働力不足をカバーする方がまし』と労働者側が考えていたところで、クビになるときはクビになるだろう。
 結局のところ、雇用契約による双方の立場とその考え方が違うことを考えれば、一方がどうだから必ずこうだ、という話にはなりにくいのではないかと思われる。
 ただ、1つ言えるのは、しつこいようだが、いかに考え方が自由といえど法令の範囲内で行動して欲しくはある。

 Q2の『教育削るなよ。』。
 増田自身、新人教育をやめたことは明記しているが、その結果について『新人の放置』ぐらいしか触れられていない。
 新人教育はやめてそれ以外の階層の教育はやめていないのか、それともそれ以外の教育も全部やめたのかは分からないが、『仕事を教えあう時間がない』というのは、少なくとも「教育」のごく一部、もしくは、会社によっては意識的に他の「教育」と分けて定義づけている場合もあるため、そもそも増田が何を「企業における教育」と位置付け、それとコメ主が同様に位置付けたものと食い違っていれば、議論が成り立っていない可能性もある。
 個人的には、増田が『新人教育が削られたのも、業務の主力たる彼らが事業に専念しないと仕事が回らないため。』と書いて終了してしまえる程度で、実際のところ、大きなデメリットが存在せず、考えなければ出てこないレベルならば、そんな新人教育はやめてよかったのだと思う。
 もっと『技術系の仕事は一人前の戦力になるまで時間がかかる』という部分に効果的に寄与する体系的な教育の方が重要であろう。

 最後の節の『正義の御旗のもとに盲目的に悪を弾劾するのもありだとは思うが、こういう世間の空気による同調圧力こそがブラック企業長時間労働を正当化した原因』。
 ごめん。
 バカだからよく分かんない。
 『反ブラック企業の皆さん』の行動が結果的に『ブラック企業長時間労働を正当化』せしめたということだと思うのだが。
 さすがに、私のようなFラン卒には無理があったか・・・・・・。

 『アジアの新興国との競争も激化しているというのは周知のとおり。/彼らのハングリー精神はすさまじいものがあり、昭和の日本を思わせるモーレツぶりを発揮している。』。
 うーん。
 いつの話だ、どこの話だ。
 まぁ、特定避けという意味でしかたがないとしても、一般論からすれば、今更持ち出す話ではないでしょ、という気もする。
 増田という場としての限界といえば限界なのだが、そもそも個別案件というわけでもないのでどうしようもないといえばどうしようもない。
 同じことを繰り返すが、世界各国はまがいなりにも法治主義を掲げている以上、できることは国ごとに限られてくるわけで、現状としてはその差異が存在することを前提に活動することが企業人としてのあるべき姿であろうと思う。
 また、今後どう制度改革をすべきかは、また別の問題ではあろう。
 東南アジアに限らず、フランスやブラジル、オーストラリアのような独特な労働環境、労働法制、労働規制、労働感情を持つ国であっても、それに従いたくないから云々では社会性を持つ生き物からすれば問題行動であるとされても致し方ないところではあろうし、それを企業活動として実行するものではない。
 また、日本と他国を比較する場合も同様である。
 悪法も法、といえばそうなのだが、結局当該国で法的にビジネススキームが設定できないとか、業務プロセスが成り立たない(多分、個人が残業しないと無理とかいう話になるのはここなあたりかと)とか、品質、価格などにおいて最適解どころか成立する解が存在しない場合は、善悪ですらなく、そもそも存在自体が認められていないということになる。

 最後の煽りは、まぁ、反応しないことにして、何となくではあるが、増田の過去にいた企業の内実に皆が反応しているわけではなく、増田がその企業の内実を増田のものの捉え方や考え方といったフィルタを通して表現される部分に反応した結果、『文章の表面的な部分を拾って一斉に弾劾する』かのように感じるのではないかと思われる。
 多分、弾劾しているのは、企業の内実ではなく、増田の捉え方に反応した矛先が参照という形で実態に向いているだけではないかと考える。
 勝手な想像だが、『昭和の』などといったことばが出たり、追記の方では企業の経営者側的な立場での抽象的表現が見られることから、現職は経営層かもしくはそれに類する立場にいるのではないかと思われる。
 もしそうであるなら、『近視眼的すぎる』という前に、自らのもとに今現在もずっと継続して企業活動を行っている者がいることを考えて欲しいとは思う。
 経営層は長期的な展望に立たなければならないこともあるし、理想だけではなく現実を直視しなければならないときも存在する。
 が、それも自らのもとにいる思考し感情を持つ人間というリソースが存在し続けているからこそ成り立っていることであり、逆もまたしかりである。
 要は、自ら立ってもいるが、立たされてもいる、という認識と適切なバランスが必要なのだと感じる。
 ちなみに、私個人はというと、適切なバランスが厳密でなければならないのは経営者側であり、労働者側はある程度ばらつきがあってよく、また理想を追った形の達成のためのハードルが高いものであってもいいと考えている。
 間接民主主義である関係上、その社会的意志は緩やかにフィルタがかけられて法令などとして制定されるわけで、若干盛っててもまぁいいかということではあかんのか?という心持ちでいる。
 間接民主主義的な規則化のプロセスを同調圧力と呼ぶのなら、相容れないとは思うが。