神だ、やっと神と・・・

 増田の「神になれなかった話」について、雑感を書いてみる。
 とはいえ、いつもどおり、自らをそして周囲をいかように捉えるかは社会的に顕著な不合理(一部厳格な合理性を求められる箇所もあろうとは思うが)がないかぎり可能であり受容されるべきだという前提である。
 が、コメも含めて読んでいて、自らの基点となっている考え方は多分古いのだな、と感じたので、それをメインに書いてみたい。


 さて、単純にことばの扱いとか学問が取り扱う範囲とかの話になるが、増田が冒頭に『宗教的な内容ではないです。』と書いたところで原語とその意味としてのくくりとしては宗教の範囲になってしまう。
 たとえ、『『何かに長けた人』を『神○○』と言う、アレ』だとしても。
 ちなみに、タイトルからネタバレしているのだが、魅上がキラに向ける心理という構造と同じ「神格化」という表現で扱われる内容となろう。
 本来日本人にも伝統的に理解しやすい宗教観である「神格化」という行為は、かなり失われているかもしれない(個人のイデオロギーに起因する場合は除く)ので、とりあえず、宗教学の元の意味としての「アポセオシス」といったところから考えていくことにすると、古代ギリシャ神話にみられる事物、概念などをさらに一段階上位の抽象的な存在に置き換え奉ることが「神格化」といえる。
 世界的に崇拝する人口比率が高い一神教においてはこの「アポセオシス」がその教義の構造を破壊するため禁じられていることが多く、そういう意味では、「神格化」という行為が『宗教的な内容ではない』といった別の概念として切り離してしまうのも不思議なことではない世の流れなのかもしれない。


 で、ここで構造論について書くような能力も持ち合わせていないのですっとばすとして、増田の発言から考慮しなければならないことを挙げると、
 (1) 他者を神格化するための自身における定義づけ
 (2) その定義に基づく自身が神格化されるためのプロセス(条件なども含む)
だと考えられる。
 増田自身、そういった意味で分かりやすく表現することを暗に狙っているのかどうかは不明であるが、提示された事例をまとめると、

神格化される事項:ダンスとかスポーツ?とかの領域
(1) クラシック。白鳥の湖が踊れる
(2) モダンやってたので筋が違う

神格化される事項:ゲーム
(1) DDRでPFC(FCじゃないだろう、多分)当たり前、デレステでスコアランキング入り(トロフィーがもらえる順位内?それとも1桁必須だとか?)
(2) DDRでは少し近づけたが、他はダメだった

神格化される事項:勉強
(1) 万年学年一位
(2) 一度一位を取ったが神認定されなかったので勉強自体意味がないと思った

神格化される事項:音響とか演技とか宣伝
(1) 音響センス抜群な子、演技が輝いてる子、口が上手くて宣伝上手な子
(2) いつも誰かの背中を見てた

神格化される事項:就職、労働形態
(1) ???
(2) 特筆すべき資格はない(あたりが該当か???)

となる。
 ここで、現在進行形の労働に関する事項は明確な神格化への基準と自らが神格化される/されないプロセスについて明記されていないところが、ある意味生々しいところだとは思われるが、ここではあまり関係がない。
 実際のところ、具体例でも見えてきにくいものなのだが、およそ(1)と(2)は対象が逆転しているだけで同様と考えてしまうと同一の結果を生まないということである。
 例示された項目の中で唯一(1)を(2)において満たしたのが「勉強」の項目なのだが、この時点で同一の結果(神格化される対象となる)を生まない理由を考察するチャンスであったとは思われる。
 が、多分、様々な理由でその芽は芽吹くことなく摘み取られたのだろう。
 「英雄は人が必要に駆られてつくられたもの」とはよく言ったもので、人が神格化された状態は、当人からすれば、自身のパーソナリティとは別の作られたパーソナリティが形成されている状態と考えられる。
 その両方を重ね合わせもしくは一方のみを外部から観測することで神格化される事項、内容、レベルが抽出される。
 しかしながら、その抽出した属性を別の者が持ち合わせたとしてもすべての外部の観測点を網羅できない関係上、同一物として扱われることがなく、よって同一の神格化を体現することは確実ではない。
 その観測されたデータのずれやずれを軽減させる観測を行ったとして、その状況と同一化しきれない部分が先の「同一の結果を生まない」理由の1つといえるだろう。
 ただ、具体的な話でいえば、こういった部分の思考は学業だけでなくスポーツの世界などでも古来の精神論も相まって頂点に立ってから考えろ的な特権的意味を持つ風潮があるため、まずは1番になることを目標にすることが定石とされる。
 とはいえ、その後にそれを無にするような条件を考察する必要があるのならば1番になってもダメなこともあるという覚悟も先にしておく必要はあるのだろう。
 ぶっちゃけ「頂点に立ってから考える」ことで解決できるのは、かなり生存バイアスがかかっており、「頂点に立ってから考える」のでは順番的に無理があることも当然多い。
 およそ1番になるということはそれだけ1番狙われやすい立場にいることであり、また周囲にいる味方らしき立場の者にうしろから撃ち殺されるのかその者の弾除けにされるのかは自らの努力や実施期間でどうにかなる部分とならない部分があるため、先に行動しておくのが効率的であろうかと思う。(打算的であれという意味ではない。)
 今回の事例でいえば、およそ『家族には「日本人だからできて当然」「全体順位が真ん中じゃ無意味」と言われ』ることが中高生であればある程度は想定できると思われるため、自らの目的に対する行動が環境要因において他者よりも基点がマイナスであるという認知が行動計画に反映されていなければならないといえる。


 さて、私は古い人間なので、そもそも1番でなければならないのか?ということに疑問を感じる。
 某エリマキトカゲの1番であることと2番であることの違いを理解できないという意味ではなく、1番であることの意味、価値と1番ではないことの意味、価値はそれぞれ別に存在すると考えるからである。
 昔の子供がつめこみ教育による本人の能力を正しく示しているかは無関係の数的管理指標が腐るほど存在していた時代では、事実かどうかは無関係のレッテル貼りも可能であったために本質的に1番である者に1番であることの意味、価値が与えられないなどということもなくはないという弊害が取りざたされたものだが、最近の現場では無理やり付加価値を文章化することが求められるため1番かどうかという定義そのものが希釈され価値を失い始めているのではないかというように感じる。
 ただ、いずれにせよそのON/OFFとして考えるとして、古い方で話をすると、例えば学内同学年の生徒が500人いたとして一位以外は499人いるとする。
 これが20年(人のとある1サイクル)繰り返されるとして同じ地域で1万人のうち20人以外がそれではない。(人口流動は面倒なので考えない)
 1万人の都市の一区分として考えてその域内でほとんど人がいない状態を想定したとして社会活動が維持されるかというと常識的な範疇ではほぼ無理だろう。(あえて確率で考えていない。)
 結局のところ、神格化されるされないにかかわらず全員に意味があり、それとは別にとある者が神格化されることは付加的にその者の属性として意味がもたらされるということになる。(人権の概念とはまた別。)
 また、景気がよかった当時の経済的構造としてそういった緩やかな考え方が容認されているところも当然見据えた上での事実認知であろうと思われる。
 一方、悪意をもった見方をすれば、不況下で人員を抑制しようとした時期からふるい落とすことを目的に自らがその能力を企業内で御しきれるわけでもないにもかかわらず、頭抜けた能力を求める企業体質に呼応して教育現場でも頭抜けた能力のレッテルを強引に貼るとか誰かに貼るために別の誰かのを無理やりはがしていたり、似かよった贋作なのかバリエーションなのかもはや見当のつかないレッテルを量産して貼り付けてその場を誤魔化しているようにも感じる。
 だからといってどうしようもない。
 現在進行形で、常に自らの棚卸しを賽の河原のように繰り返している結果、本来現状認知の助けとなるべきものが、俗物的で現金な価値の捏造に寄与するものになっている場合も就活などで見受けられる。
 とはいえ、それは現代においては処世術として必要なことであり、そういう領域に関して正直ベースで生きていては、数値的に1万人のうちの20人以外であることが福引の1等に当たらないレベルであることだとしても、ポケットティッシュでしたと言い切って通用しないことは承知のとおりだと思われる。
 猫も杓子もこぞってポケットティッシュをいかに神格化させるかを求め、それに応えるのが本質的な意味としてどれほどの価値があるのかと個人的に思ったりはするが、しゃあないとしかいいようがない。
 そもそも「2番手以下の企業に1番の労働者が応募すると思ってんのか?能天気クソ野郎」と吐き捨ててしまうと相手の気分を害してしまう恐れがあるため、茶番の出演料を一方的に負担させられているぐらいの心持ちでなければやっていけないのかもしれない。
 多分、それは、就職や労働などだけに限らず、生きていく中の様々な場面で現れる現象なのではないかと思う。



で、まぁ、オチとしては、

 勉強もできずFラン卒で、(ただし、結果論として増田よりは高学歴扱い)
 運動はからっきしで、(常時煙突かあひるだった)
 ろくな遊びもできず、(いろいろガキのころのトラウマがあるからなぁ)
 芸術活動も域に達せず、(親父はその道なのだがなぁ)

誰が呼んだかゴミクソ扱いってのからすると、私からすれば根本的に理解不能なんだろうと思う。
 『欲張りだって友達に言われた。』ことなんて生まれてこの方いわれたことないしな。(あ、穀潰し的な意味でいわれたことならあるか。)
 とりあえず、中途半端である事例を引き合いに出して自らを中途半端であると評する者は、自らの周囲には私よりもゴミカス(真にゴミカスであるにもかかわらずよく見せようとするためにめぼしい事項を抽出しようとするが捏造したとしても中途半端なものしか表現できないパターン)か、限りなく謙虚かのどちらかだったのだが、増田がどうなのかはよく分からない。
 ただ、『牙を剥』いている実情を鑑みれば、『牙を剥』かなれば社会的に排斥されそれなりの地位に陥らなければならないことが確実であれば真のゴミカスである可能性もあるし、そうでなければ、『牙を剥』かないことで享受することのできるメリットもあると思われる。
 個人的には、『牙を剥』いていては謙虚であることが実現できないと思うからだ。
 とはいえ、謙虚で「あらねばならない」というわけでもないのだが。
 ちなみに、謙虚であるというのは、そこいらにのされて転がっている状態(ここに事例がある)ではなく、相手をある程度まで招き入れても自らを防衛することが可能であることおよびその根拠と自信があることを指す。
 結果的に『牙を剥』いている状態からは、その防衛能力の実効性も根拠も自信も自らの経験として認知し蓄積することもできず、また他者からもそれを認知されることがなく、加えて他者から神格化される機会も失っていることになる。
 ただ、無能な私の経験からいうと、他者の能力に追いつき追い越す努力より牙をむくなり噛み付くなりした方が手っ取り早く楽だということに気付いてしまうと常習性は半端なくなってくるものだ。
 多分、他者の能力に追いつき追い越す努力などに対する成功体験が数的、質的、記憶としての重み付けなどとしてどんどん小さくなっていくことがその常習性に拍車をかけるのであろう。
 経験上、牙が折れる/自ら折るのは思考構造の劇的な変化を伴う関係上年齢的に早い方がいいだろうし、折るどころかどんどん磨きをかけるつもりであれば、死ぬ直前まで『牙を剥』き続けるしかない。
 ただ、これもいずれの場合でも実現不可能なわけでもなく、先述のとおりいかようにその選択肢を選んでもダメなことはないと思う。
 ただ、『牙を剥』くのなら、個人的には相手に『牙を剥』く以外の選択肢を考慮させ自身に与えさせる手法は奸謀に値するだろうと思うが、それさえも生き方のひとつといえばひとつだろう。

 と、そもそも自身に『なんにも、胸が張れることがない』ことに何の感情も湧かない者が書いてみた。