料理を自分以外に作るということ

 増田ネタ。
 「変な料理作る漫画家さんが羨ましい」というタイトルなのだが、参照先の小林氏のブログを見た感じ、『変な』とか『ゲテモノ』と書いているのでどんな実験料理を披露しているのかと思いきや、料理の鉄則が随所にちりばめられた非常に真摯に料理に取り組んでいるブログだった。
 文調や扱っている食材に目を奪われがちだが、調理や保存、保管などに関する行動は様々な料理に応用のきく示唆に富む内容となっているように思う。
 ただ、こういったことは、ちゃんと体系的に料理を教わるか、付け焼刃で本とかを読みながら試行錯誤を繰り返して得た知見か、素人同士の情報のやりとりで培われるかは問われないとは思えど、手法の水平展開や逆展開ができるように料理で試行錯誤したことがなければ多分そういったつながりは見出せないようにも思う。
 私のような老いぼれにおいては、大学生のころなど今のように一生かかっても食べきれないほどの料理のレシピがネット上に転がっているわけでもなく、無料でもらえる小冊子やチラシなどといった少ない情報から料理を作るため、基礎となるレシピからどれほどまでに外れると各人の許容値を超えるのかなどといった実験料理を作っていたものだが、こういうくだらない経験をする者も今や少ないだろうことを鑑みれば、あまり現実的な話でもないかもしれない。

 くじらのことを書くと海犬さんが噛み付いてくる(陸に上がってこないでほしいなぁ)ので書きたくないことも多いが少しだけ。
 捕鯨が禁止されたのがいつだったのかはよく覚えていないが、私の小学生のころはまだ鯨の竜田揚げが給食に出るほどポピュラーな食べ物であった。
 多分、今の若者にとってはペンギンやアザラシを食べるぐらいの食品とは結びつかないイメージが鯨に対しては大勢を占めているかもしれない。
 近い将来、例えばウナギやマグロの捕獲が禁止され、私がくたばって何十年かしたころには、あんな汚い排水ホースみたいなの食ってたの?とか言われ始めているのではないかと思うと、まぁ、世の中そんなものではなかろうかとは思う。
 私の子供のころは、スーパーの店先で鯨の解体ショーとかをやっていたぐらいで、これを逃すと次いつ見れるか見当もつかないレベルのレアさなどこれっぽっちもなかったものだ。
 とはいえ多分、未だに普通に捕鯨が可能だったとしても、もし今やるとするなら衛生的な面で無理っぽいと思うが。)
 あと、当時は鯨肉は安かった。
 よって、私(の家族)にとって肉とは鯨肉だった。
 肉屋のショーケースに置かれたそれ以外の肉はあくまで置物であった。
 で、まぁ、それはそれとして、先の小林氏の記事でステーキなどの焼き物系を外しているのが気付いたかどうか、という部分があろうかと思う。(練りものとか作ってないとか言わないでね、ややこしくなるから。)
 とはいえ、誤解があるといけないので先に断っておくと、焼くのがダメというわけでもない。
 基本的に、焼くとすぐ固くなる(固いのが好きという人はそれはそれでいいのかも知れないが。以下同じ。)、臭みがくどくなる気がする(実際測定したわけではないので分からないが、食べた瞬間の食感とかがそんな感じがする。)といった問題に対処する必要があることが挙げられるだろう。
 例えば、炒め物に鯨肉を使うとして、「肉はよく火を通さないとね」とやっていると洒落にならないぐらい固くて味気ない、それでいて臭みだけが残る謎物の入った料理ができあがったりする。
 多分、ブログ主の小林氏も焼き系の料理を作っていたとしても、こういったグダグダな部分は、記事のノリに合わないため割愛したのかもしれない。(冷凍したところの写真を見ても様々なことを行っているのが垣間見れるが、一切説明がないのもそういうことかと推測。)

 で。
 『月に1回くらい知り合い集めて気合い入れた料理を楽しみたい』というのは。
 何というか、『勤め人の場合ハブになるメンバーが昔からコミュニティ持ってないと厳しい』とコメにもあるように、現実問題として、自由に活動することが可能な固定された時間を確保しさらに他者とスケジューリングしなければならないという意味でさえ難しいところがあると思う。
 自営業などで時間に融通がきく場合ならば他のメンバーの時間に合わせやすいことはあるかも知れないが。
 それにしても、個人的な話ではあるが、引っ越してきて1ヶ月かそこらでホームパーティに近所の知り合いを複数人招待できるコミュ力ってのはどうなってんのだろうと心底驚く、なんてことがあったりした。
 そのときは、メンバーが専業主婦か半専業主婦(家業を手伝っていることになっているが時間は結構自由)の集まりだったようなのだが、こういった人集めに極端に長けた者も中にはいないわけでもない。
 コメにある古くから確立された対人関係に頼らない方法としては、そういった近所付き合いの中で乗っかってみるのも手かもしれない。(その先の不安は別として。)
 他には、ホテルのレストランなので開催される料理教室っぽいもの(実体は、シェフが説明しながら調理しているのを参加者が見て、レシピもらって食べて帰るだけみたいなもの)に参加しても、その料理に関する腕やセンスの優劣は別として、基本的には「料理を作ってみたい。それも料理人みたいな感じで。」と多かれ少なかれ考えている者がほとんどであるため、そういった話になる/することが可能なメンバーである確率は高くなるだろうと思われる。

 あと。
 人に食わせるってどういうことなんだろう。
 そう思うことも多い。
 作る人がいて、食べる人が別にいるというだけであるのに、時と場合、立場などによって数多くの様相を呈すものではなかろうかと思う。
 思った以上に認知されていないことが多いとは思うが、とある1つの作る人と食べる人の関連性をすべてに押し広げてしまうという事例は、意識して見聞きしていると枚挙に暇がないことに気付かされると思う。
 例えば、とある教員と職業体験の話していた際に、飲食チェーン店で職業体験したから食の提供の考え方はもうばっちりやな、というのを聞いて、奥さんかわいそうやなぁ、とか考えてしまったりした。
 職業体験なので金銭の授受はないわけだが、提供する料理以外の付加価値は無視するとして調理することに生活のための労働対価(あくまで法的な意味での)が発生し、食べる者に調理する部分の労働対価以外の様々な経費などを加えて金銭を支払うだけの価値を与えんがために調理することに対するマニュアルなど様々な制約や条件が付されているわけである。
 同様な業態である飲食業であっても、均質な料理を提供する形態ではなく、顧客にあった料理を提供する店であった場合は、調理における制約や条件が変わってくる。
 先に付加価値を省いたが、飲食店の中でも付加価値に占める割合の方が格段に大きくなるような業態になればまた考え方自体が根本的に変わってくるし、飲食自体が付加的な業態になってくれば、もはや原形を留めないどころか完全に別の関連性を設定、構築した方がよいだろう。
 このようなビジネスの現場においては、食べる者が金銭を支払い(実際にその場で何らかの決済行為を含まない場合も含む)自らの手で食べることに変わりはないが、一方自ら食べない領域もある。
 面倒なので詳しく書かないが、介護の現場や病院、乳幼児などにおける食事、もしくは食事に代替するものなどがそれにあたる。
 また、家庭に目を向ければ、金銭の授受がなければ家族としての活動を営むことができないのは事実ではあるが、金銭的構造と精神的構造などが同一の構成をしているわけではなく、かといって完全に独立するわけではなく複雑に関連し、連携して機能するため、食べる者が金銭を支払い自らの手で食べる行為とは別の関連性、構造を持っていると考えた方が適切なのではないかと思う。
 で、こういった様々な事項などを考慮すると、先の事例のような者もいるだろうし、そもそも経験したことのない事例など想像し得ないという考え方から経験した事象については熟知しているが他はそうでもないとか、例え経験してきたことであっても最適なシステムが各人によって異なっていたり、ここに書かなかったような想定外の者もいるかもしれないし、様々な者が存在すると思われる。
 そういった者を束ねて料理を提供することというのは、金銭授受だけで合わなかったら二度と足を運ばないといった双方に社会的に決められたルールとしての選択権があるような飲食店とは違う構造の集まりに対して行うといった行為であろうし、それをホストとして制御・管理していくとすれば、もはや料理以外のスキルが多く求められているようにも感じる。
 また、調理する者と食べる者が分離せず、皆が思い思いの調理をして皆が試食するという形式であったとしても調理する側の意識の違いというのもあってなかなか難しいものだと思う。
 組織の常として近しい意識の者が残るという代謝がそれなりに機能しはするのだが、そのプロセス後の人間関係におよそ優しくないことを考えると、いきなりホストではなくメンバーあたりからいろいろ経験していく方がいいのではないかと思ったりもする。


 と、偉そうに書いてはみたが、私なんかはもはやそういうのが面倒臭くて自分が食べる分しか作らないけどな。
 もう疲れたし。