いつものオチ

 身の回りがバタバタしていて過去の書きかけのものをまとめようかと思っていたのにできていない。
 時事的過ぎるところからまとめていながらそれでもかなり残っている。
 はたして、元のリンクが残っているのかどうかとか、そんなレベル。
 で、今回も時事的なものなので書きかけの分を出してきたのではないのが悲しいところではある。

 それはさておき。

 トランプ氏が次期大統領となることが確実になって以降、グローバル化に対比するように大衆主義やナショナリズムを語るというような発言がかまびすしいように感じる。
 例えば、「オバマ氏が最後の外遊 ポピュリズムに警鐘 (日本経済新聞 11/17)」といった記事を読んでいても思うのだが、はたしてグローバル化が正義で大衆主義やナショナリズムが悪なのか?単純な二項対立なのか?という違和感をきつく感じてしまう。
 というのも、先の記事中に「ポピュリズム」を『大衆迎合主義』といった為政者が国民を煽って想定する多数派を練成しそれを政治基盤とするといった側面を示す用語を用いていることからして、報道の中立性という観点からしても(中立性など存在し得ないという考え方もあるようだが。)前提として一方的なものであるような気がしなくはないといった部分にある。
 この記事においては、およそオバマ氏のこれまでの発言や政策などを総合して考えれば、大衆迎合主義と訳しても問題がないというか、多分、それが適切なのだろうが、そういった前提条件を無視して読んでしまうと次期政権があたかも大衆迎合主義だと大統領選挙戦中に発言していた内容と同様であると確定したかのような感覚を与えかねない。
 まぁ、そもそもトランプ氏がどのような政権運営を行っていくつもりでどうなっていくのかは分からないのだが(分かるのならば多分その予見性を用いて大金持ちになっているだろう。)、先の大衆迎合主義の悪い側面としてとらえた場合、これまでの発言から想定するに、トランプ氏が大衆迎合主義ではないと断定できるわけでもない。
 とはいえ、先のオバマ氏が演説したような、大衆に語りかけ不安を煽って自らの政策(任期はもうないのだが)に目を向けさせることも大衆迎合のためのプロセスの1つに過ぎない。
 こういった、客観的ではなく特定の思想を持った観測者が仮想的対象の一断面、一側面、一要素、一経路、一変化などを捉えて表現した形態としてポピュリズムなどといった概念は考えざるを得ないように思う。
 さらにうっとうしいのは「ナショナリズム」で、以前の記事にも書いたかも知れないが、およそ「nationalism」に対する訳として複数の「○○主義」といった用語とそれぞれに違った意味やニュアンス、定義などを付与しているように、言語的表現というよりはこれまでの日本の歴史的経緯などから的確に表現することが難しい「nation」を基点とする考え方であることに起因して、国内において「ナショナリズム」というと「ナショナリズムである」と声高に叫ぶ者からその属性を類推することでイメージ化したものが「ナショナリズム」であるかのように思っている者がいたり、自らの思想が「ナショナリズム」だと思っている(比喩表現)者がいたりと、こういった極端な例も含めて、先のモノの見方、形態ともいえるものが広く散らばっているように思う。
 また、「ナショナリズム」は個人だけではなく、集団、法人、国家などといった仮想的な人格においても持つものと定義してその仮想的人格の行動原理などを考えることができる。
 ざっくりし過ぎであくまで一側面としての考え方だが、大航海時代におけるグローバル化は、国家の意志としてのグローバル化であると同時に植民地を加えた大国全体としてのナショナリズムでもあったと定義づけるとして、その後の植民地の独立に関してもこれはこれでナショナリズムであり、現代の領土としての植民地は存在しないが、実体として地位的隷属が存在する集団間の構図が存在することを容認するグローバル化を押し進める状態といった捉え方をすることで同様に進める側にとってナショナリズムとも呼べるわけである。
 結局のところ、グローバル化を推進しようとするグローバリズムと先の各種ナショナリズムは各々の具体的政策や活動、行動などにおいてその側面、観測者の違いなどから両者併せ持つような構造をしているように感じる。
 で、ポピュリズムはその一方だけではなく双方の形成や遂行に寄与するしもしくは枷となるのだろうと思う。
 個人的には、植民地時代に列強諸国のナショナリズムグローバル化が一体となったような構造で地球上が運営されていたものの、結局完全な均質化が行われるわけではなく地域的なナショナリズムによってその時代が終焉したように、今日の別の形態のグローバル化も何らかのナショナリズムによって次の時代に進むのだろうかなどと思ったりする。
 ただ、それが、歴史は繰り返すといいたいわけでも、今が繰り返す時ではないのかもだとか、「何らかのナショナリズム」が今、目に見えて報道なり発言なりされているところの「ナショナリズム」なのか、はたまた、私自身が当然ながらただのへなちょこな他律的に植え付けられた思想を持った一観測者に過ぎないことによる妄想なのかは分からないし、否定される話なのかもしれない。
 まぁ、いつものことながら、そもそもそんなことに答えがでるまでは生きていないだろうし、どうでもいいといえばいいのだが。