私を倒しても第二、第三の

 少し前に触れてしまったネタなので書いてみる。
 「電通、「鬼十則」削除へ 過重労働と関連指摘 (日経新聞 11/17)」など、各誌、マスコミ等で報道されているとおり、過労死関係で槍玉にあがった会社の社訓ともいうべき十則を従業員向け手帳への掲載を見送る検討を始めたらしい。
 他の記事を読むと、次年度だけ、的な表現で記事にしているところもあるが、それは先の十則を会社として取り下げるとまでは言ってないという裏返しと捉えたことに起因するのか、それともブランドとして既存したので一時的にマスキングするだけなのか、取材内容全体が見渡せる立場にいるわけでもないため不明ではある。

 で、前回の記事で先の十則に私が触れたとき、違和感を覚えたということを書いたが、字面どおりのみで含意や背景を全く理解せずに受け取ってしまえば、実情にそぐわないといった現実が既に数十年前から存在したと考えてもいいように思う。
 逆に考えれば、実情にそぐわないのは含意や背景を理解していないことに起因しているとし、それを考察、分析することでその字面だけではない真意を読み取ることが可能であるともいえる。
 ここで、真意自体を抽出、構築したとしても実情にそぐわない場合は、それを破棄するのか、もしくは、教訓的な形態で歴史的にブランディングされているために、新たに含意や背景などを入れ替えるなどして時代にあった教訓的な形態として維持する構造をとるように再構成することになる。
 「時代が変われば風習も変わる」というように対象は流転し続けているわけだが、言語表現というものはその対象の空間、時間的な意味で一点のみを指し示すだけではなく、ある程度の広がりを持つことが可能であり、また持たないようにする方が極端に困難であると思われる。
 こういった対象と言語化されたものの相互変換におけるプロセスにおいて、その対象に関して発言者が奸計する悪意で構成されたあるべき姿から、言語化された教訓に至るプロセスを逆引きすることで、自らの悪行をこれまで正しいとされてきた教訓から導き出されるのだから正当な行為であると自己の正当化を図るといった手法に用いられることも多い。
 まずは、十則を掲載するしないという問題ではなく、その十則が示す対象がどのようなものとして定義されているのかを明確にし、開示し、自らを律していくことが求められるのではないかと思うが、多分、それはないのだろう。

 さて、先の「十則を掲載しない」ことにしたとして、その後のプロセスは様々であるが、よくないパターンはいくつかある。
 例えば、いわゆることば狩りの一種のプロセスと同様に言語化されたものが利用できなくなったために当該字句で表現できなくなっただけでは、名前を持たなくなった対象自体は厳然と存在し続けるわけである。
 卑近な例としては、薬物犯罪や性犯罪などにおいて隠語が用いられるのと同様に、あれ、とかそれとか分かりにくく置き換わるだけともいえる。
 実のところ、先の犯罪といった領域においては、善良な一般市民が実犯罪を目に触れにくくする(認知しにくくする)ことで実犯罪に直接触れにくくする、実行するまでに至る者を減らすといった障壁としての働きがあるといわれているが、社訓のような狭い集団や精神的統制が行いやすい領域でのシステムであれば、社内全体が隠語で再教育され、対外的にはことばは存在しなくなったというただの対外アピールに過ぎないという見られ方をされても不思議ではない。
 広告代理店だけあってミスディレクションを狙っているのかも知れないが、もしそうなら、自らは公器であって自らの売る商業広告ではないと考え直すべきところであろう。
 もう1つ、自身の経験で未だにそんな企業があるのかどうかわからない事例を示すと、先の槍玉にあがったような十則のような社訓(とりきめ)が問題視されたことにより経営陣がそれを捨て、もう知ーらね、と半ば放り出すというケースが存在した。
 制御不能になってしまうことを「凧の糸が切れたよう」と表現することも多いが、当時私たちの間では「ハンドルとブレーキがついていない暴走車」と揶揄していたものである。
 およそその違いは自らに推進力があるかどうか初速が何によってもたらされているかどうかなどを暗示するか否かであり、後者は今現在より先の状況を予測しずらく、また、影響力のある者にとってみれば、まだまだ対処するために取り得る選択肢も残されているように感じるし、注意力のない(意図的にマスクしている場合も含む)者は、とにかく今走っているからいいや、という判断を行うことで安寧を得るなどの様々な払拭しづらい温度差が発生しやすい。
 必ずしもそうばかりとはいい切れないが、先の影響力のある者(およそ部長とか支店長とかのレベル)が暴走車の中で暴走を始めてしまうと、もはや手に負えなくなってくる。
 これも、先の対象が訂正されていないにもかかわらずことばだけ消滅させたということが原因ではあるのだが、望ましい状態であるとはいえないものの、社訓(とりきめ)が際者組織のシステム的問題のある程度の歯止めとして機能していたという悲しい現実が横たわっているという事態に直面したわけである。
 構図としては、正義面をして悪を倒したが、その悪を倒したせいでより巨大な悪を生んだというものである。
 悪が倒されるときの定番として「私を倒しても第二、第三の…」とかいうフレーズがあるが、もはや浪費されすぎて単なる負け惜しみとしてしか機能していない気もしなくはない。
 しかしながら、実際のところ第二、第三のというところからして、ぶっちゃけ私がラスボスではないと明言しているようなものであるともいえなくはない。
 こういったお約束として悪に体を乗っ取られて的な話があるが、これと逆の考え方で雑毒の善といったことを考えれば、善悪を双方持ち合わせるものといった考え方をしていたのだが、その当時、ある人から、善から悪は生まれ、悪から善が生まれるということをいった人がいて、そういう考え方もありか、などと思ったものである。
 要は、制御不能な善は行為者自体が悪もあわせ持つが、その一方でそのような善(多分、雑毒の善と考えていいのだろうけど。)により行為を受ける側で悪の行為者を生んでいるということなのだろうと思う。
 まぁ、実をいうと、この理論を用いれば条件によってはパワーインフレが説明できてしまうため、なるほどとか思ってしまったわけだが、それはまた別の話。

 記事中にも『「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……」という内容が過重労働につながっているとの指摘を受けている。』とあるように、過労自殺という事件を関連付けて想起可能な文言が用いられているため、不謹慎であるとか、不適切などといった指摘をうける結果となったのは確かであろう。
 とはいえ、不謹慎であることを承知で書くとすれば、『殺されても放すな』としても肉体が損壊し生理学的に意識が存在し得ない状態であってさえ放さないという条件は存在しない。(死後硬直が云々とか言わないでね、面倒臭いから。)
 先の記事でも吉田氏の十則に込められた真意を示すような著書などを参照したこともなく、現在の社としての理解(もしくは造った定義)がいかようなものかは知らないわけだが、勝手に想像するのは3つある。
 まずは、ことばの綾である。
 戦後から高度成長期に至る急激に経済が立ち上がってきた頃と当時の言葉遣い、精神的な説明の仕方と相まって、いわゆる「死ぬ気でがんばれ」とか「死んだつもりでやれ」とかいったある意味死語と同様な表現であるとするものである。
 現代風に読みかえるとすれば、「適切かつ効果的に遂行せよ」ということだろう。
 2つめは、1つめのことばの綾という部分もあるが、先の文字どおりに考えれば、社員が殺されてしまっては、社にとって目的を完遂できないのは当然の帰結である。
 死ぬ直前に誰かに渡せということならかなり問題があるわけだが、いわゆる「死んでも放さない」といった執着心を持つことを推奨するなら、社として執着心などといった社員の意欲をいかなる状況下でも効果的に発揮することに対応してその社員を適切にマネジメントし、結果として社の利となすと考えることもできる。
 これを現代風に読みかえるとすれば、「社員に自主性を重んじた体制で仕事を任せ最大限のやる気を求めるし、またその社員、その行為に社は適切かつ最大限のマネジメント、フォローなどを行う」ぐらいだろうか。
 ちなみに、最近のチームマネジメントなどの考え方からは相容れない部分も存在するが、当時なかった概念であるためしかたがないとして、何らかの形で併記するなどの必要性はあるのだろう。
 3つめは、「死」自体が生理学的な意味ではないというものである。
 これは、様々なパターンがあると思われるが、例えば、営業の現場などでクライアントに「死」を宣告されるとはどういう状況か考えてみれば分かりやすいかもしれない。
 飛び込み営業で「いらんわ、帰れ!」と追い出されても、それはその場における案件の「死」であろう。
 受注できたとしても、先方に気に入ってもらえなくて「次からおまえのところに頼むのやめるわ」といわれれば、想定していた継続案件などといった見込み案件の「死」を意味する。
 こういった側面から考えれば、クライアントとの関係性において、ダメだといわれても、失敗しても諦めて引き下がることなく食らいついていくことを推奨しているように考えることもできる。
 高度成長期においては、そもそもパイがどんどん大きくなる時代であり、ミクロ的な見方をすれば、逃した小さな顧客、クライアントの発注量もどんどん増大するわけで、高々小さな案件だとして逃してしまえば、将来的な大きな利益を失いかねないという考え方も存在した。
 私よりも古い人に当時の話を聞くと、上司に「まずは百回死んでこい!」と言われたらしい。
 ここで「死ぬ」とは当然生理的な死ではない。
 そもそも100回も死ねない。
 要は、100回断られてこい、ということであり、それも同じ想定顧客にまずは100回断られろというレベルの話である。
 当時の時代背景からして、そういった営業手法でも受注の可能性がそれなりにあったことや、戦後の流行語などとなった「モーレツ」とかいわゆる「気合いでなんとかする」といった行動特性でその手法を遂行していたことを考えれば、失敗してもクライアントとの関係性は易々と放してはならない、という意味とも取れる。
 昨今では、様々な営業ツールを導入し、効率的な営業方法が実施されていると思われ(未だにドブ板というのもなくはない)、何が何でも関係性を維持することが費用対効果から利益に寄与しないという考え方もあるため一概には適用できるものではないが、それでも未だに重要な事項の1つであろうとは思う。
 また、こういった考え方は、対クライアントだけではなく、上司、部下との関係などとも設定することは可能かもしれない。
 ぶっちゃけで一般化するとすれば、「失敗しても投げ出すな」という程度のことだと思われる。
 で、今回は、4つめとして「自殺するまで働け」という意味が付加されたということだろうと思う。
 ちなみに、これらとは別に社が想定する意味合いは別にあるのだと思うが、多分、これらのどれとも符合しないような気もするし、想像することも不可能なので書きようもない。

 前回の記事の時点では、この十則の方面に踏み込むとは思っていなかったので、そこそこに端折ってしまったが、せっかくなので、無理やり大雑把に読み替えてみたい。
 ちなみに、こういったアプローチは、社長業などを営む(社長職であるとは言わない)者が肩馴らしにつついてほめそやすにはうってつけのネタであるために、そういった方向性の内容を求める者においては、別にググってみる方をお勧めしたい。
 およそ、私のようなパシリごときが解説するようなネタではないため、あまり求められる内容ではなかろうと思うからだ。
 さて、何か意図があるのかどうかは分からないが、この十則をオフィシャルに解説したものは出回っているようには思えない。
 一般化された文言、文章などというものに一々解説をつけてしまっては野暮であると同時に、各自が咀嚼して具体的な事項に適用させるための範囲を自ら狭めてしまうのも得策ではないといえなくもない。
 とはいえ、そのことは、逆に、今回のような現実に則さない解釈をすることで問題を引き起こすこともあるという諸刃の剣でもあるわけだが。
 あと、全体としていえることは、前回の記事にも書いたように遵法的発想が一切触れられていないこと、共生、最近でいうところのダイバーシティ的な発想がないこと、コスト意識とそれに伴う組織としての効率性などといった発想がないこと、原義でいうところのCSRなどといった組織としての社会性やその構成要素である各人の社会性についての発想がないことなどが挙げられる。
 しかしながら、これらの、現代の社会人、組織人が当然持ち合わせるべきものとして認識されるような概念は、戦後すぐにおいてはすべて経営層のみが担うといった分業の形態であったことからすれば、致し方ないところではあろうかと思う。
 そういう意味では、現代の組織人に新たに求められるものとして鬼十則以外にもそれに付帯するような鰐十則とか蟹十則などといったものが本来必要になっているのかもしれない。
 また、当然ながら判断基準が増え、錯綜し、なかには相反する事態も発生することを考えれば、必ずしもそのどれかに従っておけばよいといった思考停止状態では適切な判断が下せない状況にも陥ろうかと思う。
 前置きはこの程度にして行ってみる。

1.仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
 この1.と2.については、最近のブラック企業的な属性と符合させることで問題があると受け取る向きもあるように思う。
 そして、知っている者も多いとは思うが、高度成長期のビジネス啓蒙書などでは、こういった姿勢が推奨されていたのも事実である。
 最近では労基に通用するいいわけではないだろうが、何十年か前には、私も「あいつが勝手に仕事して、勝手に残業しただけです。」といけしゃあしゃあと上司が説明したのには怒りを通り越してただただあきれるしかなかった(当然、事前にリーダーを伴ってすべて説明済)が、自ら創造する仕事においてデメリットは仕事をした者のせいで成果が生まれれば上司の手柄といった搾取の構造を作り上げるといった悪用も横行したように思う。
 また、この文中に会社が組織として運営されるために必要としている「与えられる/た仕事」には意図的かどうか分からないが記述されていない。
 はたしてこの会社に事務分掌などの規定が存在するのかどうかわからないが、それができて当たり前である、という前提であるとするならば、ここから遵法思想などにも踏み込むことは可能かもしれない。
 とはいえ、それ以前の問題として、自ら創造する仕事どころか与えられた仕事もオーバーフローして回せない者ばかりで、マネジメントする側もマネジメントされた対象の結果から評価すれば与えられた仕事ができておらず、それらを統括する経営層も手を打たずに与えられた仕事をしていないという、すべてが与えられた仕事ができていない状態というのはいかんともしがたい。
 まぁ、取り下げるということなので、そういった状態であることを是認するという証左なのかも知れないが。

2.仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
 1.で書いたこととほぼ同じ構造の内容であろうと思う。
 ただ、私が数十年か前に地方の広告代理店の人と仕事の関係で話をしたときに、今回槍玉に上がっている会社の提案力は洒落にならないほどすばらしいということを教えてもらったものである。
 今でこそ提案営業などというと就活生などからすれば知っているはずのビジネス用語だと思われるが、戦後間もない御用聞きがまだ幅を利かせていた時期に提案営業といった考え方が第三次産業には重要だということをいち早く指し示したということになるのだろう。
 ただ、1.で書いたとおり、現場が回らなくなれば、先手に働きかけるどころか後手で受け身な仕事を無理やりさばく状態になり、さらに悪化すると受け身も取れずに叩きつけられるだけといった状況となる。
 1.も同じだが、十則のうちの一で提示されたプロセスを維持できる状態から転げ落ち始めると持ち直すのは思った以上に難しい。
 さらには、昨今の長期的な景気低迷の中では、瀕死状態で地べたをのた打ち回っているような最低最悪だと思えるレベルを維持することすら難しいのが実情といえなくはない。
 下見りゃきりなしではあろうが、取り下げるとかどうとか生ぬるいことをマジ顔で口から垂れるのであれば、企業としてまだまだどころか相当余裕があるのだろうと思う。

3.大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
 4.とセットだと考えるべきところで、要は大は小を兼ねるといったところだろうか。
 高度成長期の第二次産業における重厚長大への信奉といったものを第三次産業の世界に馴染みやすい形式で表現したものだと今から考えれば想像することは可能ではあるが、当時にそういった発想ができたことにはすごいとしか言いようがない。
 こういうことを言うと、必ず第三次産業重厚長大に含まないという者が出てくるのだが、高度成長期末期からバブル期あたりの軽薄短小といった概念の逆を示すものとして捉えてほしいと思う。
 また、それとは別に、組織論として重厚長大な案件を手がけるといった規模を求めなければ、組織、企業そのものが進歩しない、もしくは立ち行かなくなるということからして、推奨される行為ではあろうかと思われる。
 とはいえ、ニッチといった領域が狩り尽くされて死語になってしまうほどに事業として規模を求めることが不可能(可能ではあるが実行すれば事業として成り立たない意)な領域を模索せざるを得ない場面も増えてきた関係上、重厚長大を希求する発想自体が自らを死に追いやるということもなくはない。
 大企業においてはそういった心配はないのかも知れないが、スピンオフやスピンアウト、企業買収などといった領域では、それなりに気にしなければならないらしい。(聞いた話なだけで未経験なので詳しくはない。)

4.難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
 3.とセットになっている、ということだと思う。
 中身的には同様にあまりこねくり回すところではないかと思う。
 扱い方も3.と同様かと。

5.取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
 これは先述のとおり。
 端的に言えば、仕事なんだから投げ出すな、ということなのだが、そもそも投げ出さなければならないマネジメント自体がクソであることも本質的には触れられてしかるべき話であろうし、ましてや後ろから撃たれるようではこの事項は満たさないといっていいだろう。

6.周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
 これは前回の記事で触れたが、戦後間もない時期において会社組織だけでなく社会システムさえ劇的に変化していくと予見されたころにおいて、自らがそれに率先して関わっていかなければ自らの領分の仕事とすることができず、またその結果実入りも少ないということであろう。
 また、広告代理店といった複数の会社、組織を横断的にたばねて業務を行う関係上、主導権が握れない、もしくは握ることが可能である場面においてそれを発揮しないことは仕事全体の質の低下につながるという考え方もあると思われる。
 こういうことをいうと、最近ではウォーターフォール型かアジャイル型かという話を持ち出す者も多いが、それは、まぁ、業種、業態によってメリットデメリット、果ては可能、不可能まで行き着く話であるため、一概に何とも言いがたい部分ではある。
 ただ、社会人としてそれなりに経験した者のほとんどは、何でもかんでも引きずりまわしてしまえば、引きずっていたものがゾンビと化して自らにまといつき、結果的に自身の行動を阻害することに気づいているとは思う。
 そういう意味では、使い所が肝要であろうと思われる。

7.計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
 高度成長期に向かうバラ色の世界を夢想し、古いことばで言うところのイケイケドンドン的な発想で行き当たりばったりでもどうにかなった時代に貪欲かつ効果的な方法として計画、最近のことばで言えばさらに大きな領域を指すフレームワークなどの考え方を提示したことに意義があったろうと思う。
 ただ、そういった発想が当たり前になった現在において、他社と差別化を図り、利益を得るために、より綿密なものによって正確さを向上させるのか、別のブレークスルーに注力するのかというさらに大きな「計画」を考慮する必要が出てきているように思える。
 もし、この項に対して、残業してでも納期を守ろうとか、夏休みに何をするのかという小学生レベルのスケジューリングを引き合いに出しているようでは、氏は草葉の陰から涙を流して悲しんでいるかもしれない。

8.自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
 最近では自己肯定力などといった概念を曲解した者たちが跋扈し始めた関係上、なんとなくではあるが、この曲解された自己肯定力と詐称する何か別のものから生成されるものが自信であるかのように振舞う者も見かけるようになったように思う。
 こういった事例に限らず、思った以上に「自信」ということばは分かっていそうで人によって捉え方が変質しやすいものだと思う。
 で、この項においては、「自信」とは何か、を正しく定義できなければ正しい結果をもたらすことは難しいのではないかと思える。
 「「君の」仕事」と限定的に表現し、それに直接的に影響する「自信」とは、高度成長期の端緒において、「進め!といわれれば躊躇なくみな突撃しろ」的な発想でどうにかなってしまうといった、他律的な躊躇のなさと成功体験いう「自信」ではなく自立的な「自信」(まぁ、「自」なので自律も他律もないという人がいればさらに多くを参照しなければならなくなるため割愛するが。)であると考えた方がよいと思われる。
 とはいえ、ここで「自信」とはどのような「自信」を持たなければならないのかについては書かれておらず、文章を逆にたどるとすれば、迫力、粘り、厚味が見られなければ、それは「自信」ではないということにもなる。
 今回の過労死やここ何年かの問題やその後の対応を見るに、迫力は内容とは無関係な恫喝紛いに近いもので、粘りも何も今回のように十則はうっちゃるし、厚いのは厚いが厚顔無恥に映るのは、果たして当人に存するのは「自信」なのか、当人が存しているかのような幻覚を見ているだけなのか問い直した方がいいのかもしれない。
 取り下げるのだから、もはやどうでもいいと考えているのかもしれないが。

9.頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
 これについては、最近では効率性や利益相反、さらには品質特性などといった観点から一概にそれが常に真ばかりではないことはよく言われる話ではある。
 しかし、それ自体は、当時として体系化されていなかっただけで当然当時でも同様な反論はあったのではなかろうかと思われる。
 およそ、こういった内容に関しては、精神的な方向性としての意識付けであり、立ち止まって安住するなという裏返しでもある。
 また、ここでのみ「サービス」と限定しているのは、自らの業界がサービス業だからという意味だけではなく、第一次産業のような固定されたリソースも持たず、第二次産業のような社会体系的な保護制度があるわけでもなく、容易に真似をされ、さらに流行りすたりのある水物的なシロモノを扱う関係上、その心構えを説いているようにも感じる。
 要は、自社が「サービス」を提供していることに対してのみ言及しているわけではなく、例えば社内の管理部門が提供する行為も「サービス」であるし、顧客以外に影響を及ぼす行為もCSRの観点から考えれば広義の「サービス」にあたる。
 ここにだけ「サービス」と明確に限定しているのは、そういう意味があるように感じる。
 もし、これを、「がんばりました!」→「もっとがんばれ」、「うまくいきました」→「もっとよくしろ」的なくだらない精神論だけを説いたと定義するなら、氏は草(ry。

10.摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
 「摩擦」と言っているからといって、競合他社なり社内の出世レース上での同期社員であったりに対して物理的攻撃を持つといった先鋭的かつ好戦的な属性を推奨しているわけではないと思われる。
 「進歩の母、積極の肥料」という部分から推測するに、高度成長期とともに広がりを見せた進歩主義的な発想だと考えれば、「摩擦」は「矛盾」や「不合理」などに置き換えることが可能なのではないかと思う。
 「矛盾」や「不合理」といった観念的なものは、具体的な現象とそこに配置される個人に置き換えて考えれば、「摩擦」が生じていることになりはしないか?という発想による。
 こう考えれば、カンダタのように結果として他を蹴落としても、快楽的に他を傷つけてもそれが「摩擦」であると定義するなら、そこから生まれた「進歩」や「積極」は幻想であろうし、「卑屈未練」を感じないならば、それはすでに常人の感覚が麻痺しているということにもなろうかと思う。




 ということで、まぁ、何というか。
 いつも書いてしまう内容だが、社訓などといった形あるもの(言語化されただけのものも含む)は大事だと思う。(クソミソに書いておいてそれはないわ、と思うかも知れないが。)
 昔から仏作って魂入れずとは言うが、最近では御霊入れ(あれ?これは神式の用語だっけ・・・)を行うことができるマネジメント手法などが開発されていたりする。
 説明は面倒なので省くが、要は社訓といったものは、雇用された労働者を律するためだけに存在するわけではなく、設定した経営者も自ら統治され行動を求められることを全体として認識することが重要である。
 こういったシステムにおける経営層の一連の行為が嫌われものの外来語であるコミットメントであり、単に宣言するだけではなく、啓蒙、浸透、計画、実施、教育、マネジメント、評価等およびその継続、繰り返しであることが十分に理解できておらず、実施もされないならば、有効に機能はしないと思われる。
 そして、いつもよく似たオチだが、「そこじゃない。」ぐらいなものかと思う。