終活

 増田ネタ。
 「就職活動の考え方の一例」なんだが、超個人的な理由で大雑把に触れてみたい。

 えと。
 まず、文全体が読者と想定する就活生本人に対しての提言のはずだと思うのだが、『大学の就活生は毎年毎年、同じ問題で精神を疲弊させている。』という文章が前半で出た時点で想定した読者を置いてけぼりにして自分がたりを始めてしまう普段からの思考構造を邪推してしまう。
 多分、こういう部分が文自体は結構柔らかい表現であるにも関わらずコメが結構柔らかい文体でいて荒れている要因の一つではないかと思われる。
 ただ、その手法自体が常に悪いわけではなく、上司として時と場合によって使う必要もあるツールの一つではあるのだが、増田という場の一般化された不特定多数への提言に対しては、本旨が伝わらなくなる感情のアプローチが増幅されると考えた方がいいかもしれない。(意図しているなら別だが。)
 およそ、増田のように就活の時点で人生設計やキャリアパスを想定したうえで行動計画を確信をもって組み上げ遂行できる者は、増田の記事をワラにもすがる思いで読もうとする動機もないわけで、その動機がある者からすれば、困っていてどうにかしたい、情報が得たいといった強い欲求は「自分こそがそう感じている」のであって、それに対し「みんなそう感じてるんだ」という表現は、その欲求を否定されたように感じるからだ。
 まぁ、いわゆる古い体育会系の気合い注入方式の一手法でもあるので、「ああ、はいはい」でそういった部分を受け流せる者も多いかもしれないのだが。

 で、全体的な話から、ということだが。
 一例というのは、経験談からという意味の一例だということだと思うのだが、妙なつっこみ方になるのだが、人生設計、キャリア形成などを考慮して目下の行動を選択したとしても単に具体的な対象(ここでいえば就職しようとする企業)群が変化するだけで、就活の具体的プロセスが大きく変わることはない。(非上場ならば前倒しになるとかそれなりの違いはあるだろうが。)
 無計画に知名度がやたら高い企業(というか、企業名を当人が聞いたことがある)を選んで大穴一発大逆転を狙っている者においては、諌めることばにもなろうかとは思う(立場的表現としておかしいがそういう気持ちを持つという意味で)が、そうでないならば、およそ就活の難度が大きく変わるようには思えない。
 ということを、Fラン卒の多分死ぬまでダメ人間な私が言っても意味ないですが。
 お互いに冷たい書き方ではあるが、乗り越えた後の者が乗り越えるために今現在苦しい者に対して提言するとしても残念ながら極端に楽になるような思いつきもしなかったブレイクスルーが提示されない限り、自分がたりだ、今苦しいのは私だなどと反発を食うのも現実ではないかとは思う。
 こういった部分は、自分でも失敗したなぁ、などと思うこともしばしばではあるが、内容の正しさ云々ではない領域の世界なので、それも気になったところではある。
 あと、雑誌などの情報から仕入れた一般論ではあるという前置き(身近な環境がヘンなのかあまり気にする人が周囲にほとんどいなかったりする)をしてということだが、就活生における認識として「新卒がすべてではない」と声高に叫ばれたところでリスクが大きすぎると感じている以上、有効な提言であるように感じないのではないか、という部分もある。
 心が折れそうな今以上に悪い状態というリスクを想定したくないために努力している者に対して、心を病むよりひどいと感じるリスクに挑み、かつ成功するために心が折れずに済む手法なり安心感を確保するためのガイドラインなりを悩みを持つ就活生に提示すればよいのかもしれないが、なかなか難しいところではあるのかもしれない。
 現役を退いた成功者と話をする機会があったときにそれとなく聞くことがあるのだが、およそ成功者の悩みとは成功体験を伝えられないことだそうだ。
 月並みな表現で代替するとすれば、敗者に勝者の気持ちは実感させることができないということである。
 第三者の目から見れば勝者になるために様々な分岐点で選択してきた限りない数の選択肢で失敗しないものを選んだからこそ成功しているわけで敗者はその逆であるといえる。
 選択式のゲームであれば、最悪セーブポイントから総当りでやっていけばトゥルーエンドにたどり着けるだろうが、世の中はそんなものではないだけに、相手に「ああ、ルートが違うわ、これ」と思われてしまえば意味もないだろうと思う。

 以下、各項。
 『運を抜きにすれば』
 うーん、「運」でないと思っている人がどれだけいるのかは疑問だが・・・。
 高学歴の大学を卒業するような者を多く知るわけではないので、傾向としてそう感じないのだろうか。
 あと、『そうなるなーって人』って自覚があって事前に理解できるのであれば、あえて自らの精神を壊すような行動はとらないのではないかと。
 これも捉え方だとは思うが、読者によって『そうなるなーって人』を「そうなったって人」と直結的、短絡的に脳内変換してしまう可能性もなくはないわけで、あまり解決にはなっていないとは思う。
 まぁ、上場企業の部長さんよりも上ならこの程度の厳しい表現もあってしかるべきかもしれないけども。(でないとディビジョン自体回せないと思うし。)
 「運だけに頼るな」ということが言いたいのかと思うのだが、こういうのは、その背後に就活本などで必ずといっていいほど出てくる自身の棚卸しなとどいった自己分析によって当該企業が自身の属性とその値とを照らし合わせて「運」かどうかを自ら判断する指標にするわけで、それだとよく言われている一般的な内容であるからして、増田の真意はよく分からない。

 『一流大の人のごろごろいるところにいると、やっぱり、なんだかんだ言って、相対的には一流大の人たちって優秀だと思います。』
 多分、優良企業なり上場企業なりといったいい意味で世間の表舞台に立つ企業はそうなのかもしれないし、話を聞く限り実際そういうところも多いように感じる。
 ただ、一流大の卒業生でもピンキリなわけで、当然ながらキリ側も社会にところてん様に押し出されている関係上、どこかに組み込まれている(書く必要はないとは思うが、組み込まれない例外もある)わけだが、自身の経験から言うと、一部上場の大会社、、、の子会社では学歴の順列と逆転している(はたして優秀さを何の尺度からみるかによっても変わるとは思うが、ここでは現場での社内システムに則らない口頭ベースでの評価、序列)といったこともあった。
 これを『そこを見極めるのが面接なんだと思います。』という文章で受けると全く別の意味になってしまうのだが、およそ世の中そんなものである。
 また、コメにもあるように当然面接官が就活生のすべての属性を見極められるかといえばそうではないし、就活生が面接官にすべての属性(将来的な数値の変化までも含む)をさらけ出すことも不可能なわけで、それが面接官側からの発言であったならば、それは驕りに過ぎない、と非難されてもしかたがないかも知れない。
 ただ、現状の企業環境を鑑みるに、馴らし運転など入社時に完了していて当たり前で即戦力を求める(それは広義でいう新人教育等を行うかどうかの話ではなく、例えば明文化され体系化された自社の設定する新人教育を習得完了できる属性を持ち、その後会社の部品として即座に機能することが想定できるかどうかを指す)ことからして、自社の人員計画や要員管理体制に合致するリスクの低減を各プロセスで実施すれば、当然その入り口である面接においても確度は高まることになる。
 およそ、企業の労務的な話として「採用リスク」などという用語が生まれている時点でお察しなわけで、そういった採用システムを用いずとも非常に優秀な面接官が在籍する一部の企業を除き、「システムによって設定された目的を満たす確度を確保した面接」であると考えた方がよいかもしれない。
 この場合、すべてが伝わる必要もなく選別されるし、その選別をたとえ何らかの形ですり抜けたとしてもその後に会社が設定するあるべき姿、あるべき行動(明示的に設定していなくても業務遂行のシステムなどにおける要求事項から導かれる場合もある)を体現することが困難であることが多いのも事実ではある。
 ただ、こう書くと先の「運」が否定されるわけだが。
 もう、何がなんだか。

 『面接やればやるほどそれが見えてくる』→『就職後にギャップに苦しんでいく』。
 採用側からすれば、すでに露見しているのにも関わらず採用するから新入社員が苦しんでいるのか?ということなのだが、それならば、ちゃんとお祈りしてあげないといけないのではなかろうか。
 最近は、社員のキャリアアップへの後押しなどといった包括的なバックアップ(教育だけではなく金銭面なり時間面なり業務経験なり人間関係なり精神的な面など間接的に影響する項目も含む)にカネをかけない(従来型の手法を当人が望んでいない、もしくは意欲が感じられないというミスマッチも多発しているが)関係上、多く望むべくもないが、個人的には、企業として採用した以上、ギャップに苦しむことが想定されるのであればそれに苦しまないように適切に対応することで企業の利となすのが責務であると思うし、当人を揶揄し自己責任と喝破することが企業の役目であるとは思えない。
 こういった領域も先の「採用リスク」に含める向きもなくはない(過去に、口さがない者からすれば、廃棄物処理にもカネがかかる、と表現されたのには閉口したが)が、これを、就活生が知って何の役に立つかというと、、、立たないな。

 『全然社会のこと知らないのに、なぜ自分の力だけで就活しようとするのさ。』。
 これはある意味事実ではあろうと思う。
 そして、残念ながら、一生かかってもそのレベルの差こそあれ、社会を知ることを完遂することは不可能であろう。
 『もし何かするなら、社会人のスキルの高い人にいろいろ聞いてまわるべきだと思います。』というのも手だとは思うが、社会経験のない者が聞いても具体性や実感に乏しくさらには何が重要なのか、その背景が何でどういった別の事例に対処できるのかが十分に理解できないことが多いように感じる。(失敗者にとって過去を振り返ってあのときあの人が言っていたことはこういうことだったのかと思うことが多いのと同様に成功者にとっては聞いた未経験の内容と行動が合致しているために各変節点の認識が異なる、と私は思っている。成功者ではないのでそちら側は推測に過ぎないのだが。)
 また、周囲の者が内定が出始めて焦り始めるころにそれを勧めても、火事で家が燃え盛っているのにその家の防火対策を練ろうとしているのと変わりがないレベルの遅さとも言えなくはない。
 ただ、家は燃えてしまったら立て替えるのだが、残念ながら自身は肉体、精神、知識ともにリセットがきかない関係上、直近の案件には意味はないかも知れないが、その後の糧にはなると考えることも可能ではある。
 結局、はまっていって病んでいくのは当人の準備不足だと切り捨てても営利集団の側からすればしかたがないわけではあるが、その解決方法は示されていないような気はする。
 とはいえ、自身にその具体的解決方法を持ちえるわけでもないのだが。
 ちなみに、はまっていく手法としては、増田が指摘するように、数を打つのも先の「運」で引っかかる可能性にかけるしかないわけだし、就活生同士で意見交換するのも、ある意味根本的な自身の属性変更ではなくもっと微細でテクニカルな問題を解決することで対応するよりほかない話題に終始しなければならないのであれば、かなり手詰まり感は否めない。
 今更感が強くて何の役にも立たないのだが、例えば、大学卒業までを1つの時間領域として考えたとき、就活なんてのは、幼稚園レベルから始まっていて、「大きくなったら何の職業になりたい?」という質問に否応なく回答させられるのもその一例である。
 人によってそれぞれ蓄積される知見や経験は千差万別だとは思うが、公教育体制からいえば、ひどい言い方をすれば一昔前までは大学卒業付近まで幼稚園レベルと変わり映えしないといっても過言ではなかった。
 最近では、大学によっては1回生から就活の説明会(昔でいうところの就職説明会よりも前の段階)を積極的に実施したり、高校によっても独自のカリキュラムを設定しインターンレベルの職業体験を行う事例も出てきてはいる。
 ただ、大学に入学した当初の就活の説明会に参加してもまるっきり実感がわかないという話をちょくちょく聞くにつけ、多分、就活の説明会よりも前の説明会とか学習とか体験のようなものが必要になっているようには感じる。
 で、現状、過去のことを振り返ってもしかたがない場合は、、、、どうすればいいんかなぁ・・・・

 あと。
 増田が『作戦転換』した後の手法が書かれているわけだが、さらっと書かれているように思うが、実際にそれをやりとおしてさらには生存バイアスがどうだのといわれるほどの実績と地位を確保するのは簡単ではないというレベルではない、というか洒落にならないというほどの努力や能力、精神力、場合によっては間接的な人間関係や機会、先行投資、運などによって構成されるものであり、誰もがホイホイできるものではない。
 当然それなりのリスクも存在(ただし、就活生が認知するリスクとは必ずしも一致しないだろうし、多分かなり別物と経験上いっても差し障りないようには思う。)するわけで、十分な覚悟を要すると思われる。
 ただ、読者(例えば就活生)にとって提案された増田の一例が果たして自身に適合する可能性がいかようかについて知ることは、多分、目先の新卒採用に通るか通らないかよりも確度をもって見極めることは困難ではなかろうかと思う。
 ある意味、新卒時にどこでもいいからぎりぎりのところにしがみついておけばいいのか、新卒など将来設計の1イベントに過ぎないと認識して進むのかはそれこそ死ぬ間際に回想するまでよかったかどうかなど分からない気はする。(華々しい実績や肩書きや名声を得ればその限りではないだろうが。)
 とはいえ、どちらが必ず間違っているとも事例的にいえない以上、それを遠い昔に通過してしまった私などには、人によるとしか言いようがない。
 先にも触れたとおり、増田は『社会人のスキルの高い人にいろいろ聞いてまわる』ということを提案しているが、時期的な意味合いとして、自身を家族以外でよく知る者でかつ社会人(特殊な組織に属する者を除く)経験の長い者がいれば、比較的短期間でどうにかなるような何らかの打開策やヒント、気付きを与えてもらえる気がする。
 個人的には、こういった面で人間関係が浅く苦労した経験があるので。
 多分、こういった立ち往生してしまう箇所や障壁に感じる部分というのは、言語化すれば十把ひとからげに類型化できてしまうのかも知れないが、悩みを抱える就活生個々人で考えれば、全く別の箇所だったということが後から分かる、ということもお互い年寄りが昔話をしていれば多いように感じることがある。
 そういった不確実さによるものだけかどうかは分からないが、就活の悩みを解決する内容をググってみても思った以上に具体的解決策やヒントが見当たらないと言う人がそこそこいるのはそういう一般化しづらいことにあるのだろうか、などと思ったりする。

 散文ついでに1つ。
 才能は成功者によって定義されるのですよ。
 要は成功者の属性を類型化することで才能となるべく抽出し言語化して提示されているだけで才能があるから成功するのではなく成功者であるから才能があるという考え方。
 異論はかなりあるとは思うのだが、面白い考え方だと思ったので誰がいったのか分からないがパクって使ってたりする。
 そういう意味では、成功者であるのなら『自慢話』と認知されればそれが認知されたと喜ぶべきところなのかもしれない。
 ただ、そうなればなったで失敗者や悩む者への提言も意味をなさなくなるとは個人的には思うのだが、本来どうあるべきところなのか(例えばかなり上の方の管理職などの立場的にいって)はよく分からない。

 ん、年寄りの愚痴は長くなるのでやめる。


 あ、あと笑った点。
 コメにあった『プロパー至上主義』って。
 お互い歳食いすぎたな、何てことば知ってんだ、とか。