流行語ではない流行語

 とりあえず、メモというかチラ裏程度というモノとして雑に書く。

 先日新語・流行語大賞なるものが決定したようだ。
 で、大賞は「神ってる」というのになったらしい。
 私自身が流行などという世界から断絶しているような部類でさらにはそうでないんじゃないかなと思っていた若い頃でさえ流行なるものに乗っかれてた気が思い返せばほとんどしていなかったところからすれば、最近かまびすしいその内容や是非について語れる立場ではない。
 ただ、かなり最初から記事内容の結果を想定した上での予定調和(本来の意味ではない方)で作成されている向きもなくはなさそうなR25新語・流行語大賞への異論の記事を読んでさえ、新語・流行語大賞自体へのちょうちん記事といった意味合いとして機能するのではなく、違和感や間違っていると実感している者の方が純粋な「流行」という意味において正常な認知だということを示しかねない記事に変質しつつある気がしてきた。

 で、R25が取材に行った先がやく氏という、言えば何が返ってくるか分かっているだろうにと思えなくもない人に向かっていっているわけだが、そこで「ニュースぐらい見ろ」という発言が出たため、「新語・流行語」という文字そのものから受ける各個人がある期間を設定し純粋な経時変化を振り返って分析することで導かれる事実と「ニュースを見る」ことを強要されることで生成され規定される必ずしも自らの自然な行動原理とは乖離した状態を設定した上での仮想的事物との差異によって不満を呈している者もいるように感じた。
 現状、当該大賞のHPに選定する大枠らしきものとして「1年の間に発生したさまざまな「ことば」のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶ」とあるが、過去に清水編集長が「ネット上に現れる時系列的な単語の出現頻度から大賞を決めるのなら選考する意味がない」的なことを発言しているとおり、「広く大衆の目・口・耳をにぎわせた」ことをその選定プロセスから計数的に判断する気ははなから想定はしていないということだろう。
 それは、逆に数値の世界で活動(社会人ならば仕事であろうし学生ならば学業だろうしその行為の上でかなり大きいウエイトを占める指標)が評価される者からすれば、答えの正確性云々以前に目的を満たす選定プロセスとして定義するにはあまりに信頼性に欠けると評したとしても不思議ではない。
 一方、過去において「軽妙に世相を衝いた表現」であることを主体にするあまり、世相から導かれた、もしくはそのプロセスから発生したことばがその具体的事象を取り去られて一般化した際に本来の意味と一致しない、もしくは好ましくない意味、使用方法に容易に変質することが想定されることにより某団体の内部用語が選考対象外となったこともある。
 これは、端的に事象を表現する「世相を衝いた」ことばではあるが、さすがに「軽妙」ではない、という判断だと考えても差し支えはないのかもしれない。
 ただ、それは公共性を考慮したがゆえの事実の隠蔽であるともいえなくもなく、それを表現者として是とするのかどうかはまた別の問題とするべき事項なのだろう。

 現在の先行プロセスはもうめんどうなので書かないが、先述のとおり統計的な手法が否定されている節がある。
 ただ、考え方によっては、「広くにぎわせる」べくして生成され/し流通した/させたはずのことばを専門家が抽出し、当然ながらそのことば単体から「世相を衝いた表現」として認知でき、言語成立的に含蓄があるとか成立経緯を知っておくことでより世相を読み解く力、深い理解となるというパラメータに対して計数化して選定するとすることを旨とするのであれば、現状の選定委員の人選がいかようであるべきかは別として、そのプロセスから選定されたことばの個人における認知度のレベルは特に問われなければならないわけでもなく、逆に認知度が低いと自ら感じたならば「ニュースぐらい見よう」というアプローチもなくはないことにはなる。
 しかしながら、もしそのような方向性をもって選定しているとするならば、「新語」のうち新たに意味、時事性を付加された単語、もしくは合成語、フレーズではあるかもしれないが、少なくとも辞書的意味としての「流行語」とはかけ離れた存在であると言えるかもしれない。
 言い換えれば、「世相をよくあらわしたことば大賞」ということになるわけだが、これだと「今年の漢字」などと被ってしまうというポジショニングの問題を抱えている気がする。
 実のところ、世相を表現した「ことば」と「漢字1字」というのは、それから世相自体を想起する言語的プロセスとして前者は社会的諸活動から言語学的に生成される空間的、時間的に固定された位置から当該現象の全体を想起させるのに対し、後者は漢字単体で多種多様な意味を持つことおよび他の漢字等をつなぎ合わせた熟語に連関し、その漢字、熟語が示す抽象物、場合によっては具体的事物を想起させることで当該現象を表現もしくは複数の現象を別々の想起プロセスでまかなうわけだが、およそそういった差別化も当該大賞のHPには見られない。
 たとえば、R25の取材でやく氏が、「以前から『神対応、塩対応』などというふうに、よい状態のことを『神』と表現することがあった。それを、あまり使わなそうなプロ野球の監督までもが使っている。それだけ広まったところに面白さがあるということです。さらに、宗教観のうすい日本ならではの『神』という言葉のライトな使い方にも注目しました」と発言しているように、「ことば」側とすれば、「ことば」そのものがなぜ生まれるのか成長するのか、生き長らえるのかを読み解くことでその年の世相の1つを想起せしめるツールとなり得るという考え方も成立する。(個人的には、宗教観が薄いと捉えるのかアニミズム的な汎神論が薄く残っていると考えるかによって越えるべき心理的ハードルは違ってくる(多分後者の方が高いと思うし、大仰にいえば宗教観が西洋化しつつある証拠のような気もする)と思うのだが、もう文化人類学なんかの世界になるので余談が過ぎる。)
 しかしながら、当該大賞のHPの大賞を解説した箇所にはそのような記述は見当たらず、他の受賞したことばの解説にも「汎用」「話題をさらった」といったあたかも流行ったよ、というアピールはされているが、先の差別化を図ることが可能な部分について言及されていない。
 言及したところで誰も読みゃあしねーよ、むしろ炎上した方が商売としてメシウマだと思っているのかどうかは正直分からないのだが、少なからず、建設的な異論を唱える者に対してだけでも、選考会議を公開するとか議事録を公開するとかした方が納得する者も増える気はする。
 とはいえ、その数値基準化されていない選考プロセスに懐疑的な目を向けている者は納得するかもしれないのとは別に、統合的バランス感覚をもって世相を読み解く能力が欠如している委員に対しては、明確な証拠をもって糾弾される結果にはなるかもしれないが、それはそれで公的ではなくとも少なからず社会的権威と影響力を持つことからすれば正しい社会的新陳代謝の形であろうとは思う。
 まぁ、これまでの仕事上などの経験から言って、こういった公開していない(関係者に取材して聞き出さないと断片的でさえ分からないとか)部分というのは、大抵当事者(主に管理者)の意識・無意識に関わらず後ろ暗く有象無象をぶっこんで閉じ込めて、論理的な線もつながっているかどうかよく分からないがインとアウトだけは線が出ているといったプロセスであることが多い。
 およそ、こういった部分は、ビジネスの領域では問題視される向きがあるが、こと当該大賞ははたしてビジネスプロセスそのものなのかただの広告上での仮想的行為に過ぎないのかいかようにも定義できる(当事者の法的行為の分類という意味ではなく受け手側の認知という意味が大きい)ため、同一に考えるべきではないかもしれないし、考えないのであれば結果もそういうものだと認識する必要性はあろう。

 先述のとおり、現在の具体的な選定方針やプロセスは公開されていないため不明であるが、過去に清水編集長がインタビューか何かで「第1回目の大賞を開いたときに大賞をとったことばに対してそんなの流行ってねーだろと思った」的なことを発言していたのが未だに頭に残っている。
 結局、その問題意識が基点となり編集長となり現在の当該大賞が開催され、世相を表現しているはずが世情からそんなの流行ってねーだろと違和感を呈される状態になっているのは皮肉なものであろう。
 とはいえ、考えようによって恐ろしくあるのは、当時清水編集長が感じていた違和感と現在の世情から呈される違和感とは別物であり、すでに清水編集長が感じていた違和感は運営上解消されているのであれば問題があるのではないか?ということである。
 先述のとおり、当該大賞は単体のビジネスという扱いをするべきではない可能性も高いのだが、あえてビジネスの世界と同様に考えると、認知範囲(領域)が狭いことにより思考の罠に陥り、自己矛盾(個人だけではなく狭い組織やローカルなネットワークも含む)は起こしてはいないが、周囲の関係する者を含む全体として適切ではない解決手法が取られた結果の産物である気がしなくはない。
 まぁ、こういった発想こそが思考の罠である可能性も否定できないわけだが、それなりに問題が定常的に(当該大賞で言えば最近では毎年)噴出する事案においてはよく見られる事項であるがゆえに、的が大きく、結果的にちゃんと狙いすまさずとも当たってしまうことも多い。
 企業倫理や行動心理学などと絡めて考察されることも多いが、三菱自動車の件でもいわゆる組織のたこつぼ化といったリソースや情報入出力の多様性の欠如と自己完結性によって対外的な意識や問題点の認識が風化し、結果間違い等が放置されるといったことが問題行動の原因として挙げられているとおり、自己最適化、悪く言えば自己正当化によってシステムが外部から観測した場合に改悪されている可能性がなくはないかもしれない、というように思った。

 編集方針が変わったからかどうかは分からないが、現代用語の基礎知識には相当長い間創刊時の言葉が採録されていた。(先月発売されたモノからは少なからず削除されている。今回ネタにするのに買わないのも失礼だと思ったのだが、編集後記の数行が目に入っただけであまりの激しい寛容性のなさに私には正常に書籍自体から情報を取り出せるとは到底思えず、体全体が金を出すことを拒否したため申し訳ないが購入しなかった。いつからこんな本になったのだろう・・・。とはいえ、こういった方向性のモノを欲している者もいるはずなのでどうこう言う話ではないのだが。)
 そこには『激動する社会情勢の姿をそのままに反映して実に凄じい、斯く氾濫する現代用語をどう整理しどう定義づけるかは、今後の重要な課題になって来よう。』とあった。
 また、その内容に詳しく言及してはいないが『言語魔術』といった表現を用い、いわゆることばの純粋な意味だけではなく付加的で情動的な内容であるとかそういった部分を含めて社会情勢に対し何らかのエネルギーを持つ、もしくは持たせる、持ってしまうといった部分にも触れているように思う。
 これを字面どおり単純に理解すれば、刻々と変化していく現象とそれを表現するために様々な発信者、方法、媒体により言語化されていく時系列的な流れのなかで、客観的に主要部分を分離抽出し、整理し、書籍、辞書などとして編纂する行為をよりよいものにすることを希求したいというように捉えることができる。
 が、認識の仕方によっては、逆に『どう整理しどう定義づけるか』を先に定義してしまえば、『言語魔術』は「魔術」であることに変わりはないかもしれないが、あらかじめ設定された機能を持つものというかなり限定的なものとして扱うことが可能となる。
 ただ、それは、キャッチコピーなどと同様な言語的影響度としておもに考察される事項であって、およそ広告代理店が本職としている世界の話である。
 そう考えれば、ここでもポジショニングが競合していると言えなくはない。
 それを競合せずに談合していると捉える者が現れれば、メディア企業と癒着した結果だと揶揄することにもつながるということなのだろう。(あくまで、私がそういう思っているわけではない。特にコンスピ系の2つ以上の当事者が仮定した条件に符合する必要があること(2者のON/OFFだけでも合致する確率はもはや25%しかない)にさらに仮定を積み上げるのはどうかと思うので)
 いずれにせよ、あくまでことばというのは編集者の脳内でのみ流通しているのではなく、当該言語の話者(翻訳されればその言語の話者も含む)であることから考えれば、今一度『どう整理しどう定義づけるか』を謙虚に考察し、立場として何を成すべきか設定した上で見直さなければ、当該大賞の主催者側と世情との乖離は埋まらないのではないかとは思う。
 まぁ、余計なお世話だろうし、過去に葬った文章を掘り起こされても迷惑なだけだろうけど。