プーチン様、かっこいい!って話を書こうと思ってたのだが、

 同じことを繰り返して書いてしまいそうではあるが、増田(電通「鬼十則」掲載取りやめの「違う、そうじゃない」感と自戒)で触れられていたので少し。(結局少しではなく大急ぎで書いてしまったが。あと、タイトル、全く関係ない。)
 『
ただ、本音を言おう。
もし、そのような抜本的な対策、彼らのアイデンティティに手を加えるような対策が講じられるとするなら。
私は、そこからの電通の行く末を思って、少しだけ寂しさを覚える。
「やりたいからですよ。寝食忘れて熱中することって誰にでもあるでしょ? 僕にとってはそれが仕事なんです」
そう笑顔で答えてくれた彼のような社員が、二度と現れなくなる気がするからだ。

という部分。
 非常に共感する、ところだ。
 というのは、おかしいか。
 正確には、過去(数十年昔)の自分が共感していた部分、といえる。
 今は、以前の記事にも書いたが、少し考え方が変わって、その時代、時期における社会的要請等が存在するならば、『アイデンティティに手を加える』ことも本人、それを管理する者、周囲の関係者含め覚悟する必要はあるという方向になってきた。
 というのも、企業、その構成員である個々の社員すべてが社会の構成要素であることからして、共生という観点からすれば、ある程度のあそびがあったとしても選択肢として設定するわけにはいかないと考える、もしくはそういった決断を躊躇することは、逆に企業や社員を毀損し社会を疲弊させるスイッチとなってしまうことをそれなりの立場の者は認識しなければならないと思うからである。
 多大な影響力の持つ技術革新などにより変化という事象が人為的に影響を与える側(過去においては主に企業)が先行して、後から社会がそれを取り込んでいくような場合は、共生などではなく、上下関係として「社会」という概念を自らの下位(影響を及ぼす側)と捉える考え方でもさほど問題にならなかったのかもしれないわけだが。
 というわけで、私自身は、増田のいう労働者の有益な意志、意識等を維持したまま『なにか別の解決策がないものだろうかと、切に思う。』という領域からさらに選択肢の範囲を広げてしまっているわけだが、昨今のブラック企業へのアレルギー反応や国際的な労働時間の短縮というトレンドに置いていかれていること(あくまで表面的数値という意味で)、労働時間を短縮して売上を伸ばすという事項が企業価値、経営能力として高評価されるきらいがあることなどからすれば、アイデンティティの維持について議論する前段階で全否定されかねないわけで、いわゆる「そもそも論」で混ぜっ返される話ということになってしまっている気はする。

 で、とりあえず、それなりに考えているのなら何らかの解決策ぐらいあるだろうと言われかねないので、少しだけ書いてみる。
 ただし、先述のとおり「そもそも論」をもってすれば意味自体存在せず、ただの思考実験ではあるし、たとえそれに甘んじたとしても万能な処方箋でもなければ、これ以外にも方法はいくらでもある。(らしい。私が不勉強で知らないだけともいう。)
 まず、前提として『アイデンティティに手を加える』ことが完全な自由意志で何者にも指図されないことを想定するならば、『解決策』を設定し、何らかの形で行動に変化が現れることは『手を加え』たことになる。
 そういった厳密なものではないとして考えるものとする。

 まず1つめ。
 行為者としての契約的認知。
 これは、「現状の」『アイデンティティに手を加える』ということにも結構つながりかねない方法ではある。
 ただし、問題が起こらない/を起こさないこと「も」満たすことを考えるならば、考慮してもいい部分ではなかろうかと考える。
 増田がいうように『私が彼に負荷をかけたことで、そのしわ寄せが、ほかの社員や業者にいったのではないか。』という事例は、何も当該企業に限ったことではなく、私のようなFラン卒が勤めるような三流企業でも存在する。
 それはとりもなおさず仕事、業務、作業、労働などといわれるような社会人としての行為が当人の意識・無意識にかかわらず契約に基づいて行使、実行されている共通な商慣行が巨大優良企業であろうと零細三流企業であろうと適用されるからに過ぎない。
 そして、その契約というのは先の仕事のようなものすべてを完全に規定するものではなく、それなりの自由度が存在するがゆえに、いわゆる『しわ寄せ』という形であらわれることになる。(一応仮定として関与する別のシステムや規定(社内規定など)がないという単純な図式として考えてもらう方がいいかもしれない。)
 もちろん、『しわ寄せ』の原因はそれだけではないが、その仕事のようなものを包括する業務ユニットにおけるシステムの構造的な問題として『しわ寄せ』が集中しやすい箇所というのは存在し、また、そういった構造的な問題は契約という行為が大きく関わっていることが多いと思う。
 関わり方をものすごく簡単な図式として考えると、一般的な業務が「やって」→「やりましょう、やりました」という契約内容だとすれば、当然やる側に『しわ寄せ』がいきやすいわけだし、「やって」→「やれたらやっとくわ、責任持たんけど」ということがありえるならやる側に『しわ寄せ』は起こりづらいだろうが、そういった状況、契約形態自体業務としてあまり用いられるとは思えない。(存在したとして民法上どう扱うかという話は置いておく。)
 ただ、先の仕事のようなものを実施する者は、そういった業務執行のためのシステムとは別に、企業との労働契約という契約にも縛られていることを認知しなければならない。
 で、この労働契約は単にその契約書に書かれている字面だけではない参照先、明文化されていない部分、はてはなんとなくあってしかるべきなどというような「社会人としての心構え」的な意味合いなども含めて付帯するわけだが、行動においてそれはこのシステムと競合する場合も出てくる。
 こういった部分について適切に解決するのが社会人としての持つべきアイデンティティの1つの要素であり、『「やりたいからやる」で働ける』ことから派生可能なすべての行為がすべての競合する要素に優先して容認され執行可能であるわけではないことを認知しなければならないだろう、ということである。
 とはいえ、当然ながら今回のような事案において原因がすべて個人に帰結するわけではないのはこれまでの多大な同様の事例の蓄積から鑑みれば、具体的内情を紐解かずとも自らが選択する行動における競合を適切に解決することを阻害する要因が別に存在すると考えてもそれが否定されるのはかなり特殊な事例(それ系を多く扱う弁護士等はもはやそれを感覚的に察知できるらしいと聞くが。)だったとすることができると思われる。
 自己に起因しない阻害要因を極小化してなお自己に起因する要因で問題を引き起こしている場合もまれといえばまれなのだが、その時の各立場での対応という意味のものというよりは、自己に起因する要因か自己に起因しない阻害要因かを自らが明示的にかなり大きな領域(自らの作業領域ではなく部署、企業、顧客などを含めた関係者全体としてなど、これは自らの立場によって適切な範囲は変わるとされるが。)でのあるべき姿として位置付けた上で分類することが可能になるというツールとして用いることは可能かと思われる。
 使い古されて逆に意味が分かりづらくなったよく聞くことばで置き換えるならば、「形式知」化して表現する状態に引き上げることという準備段階への一手法といえなくはない。

 2つめ。
 企業としての倫理的部分。
 先の当人の認知が行われているとして、企業側は、それを企業として都合がいいように扱う手段を講じることは多い。
 また、これには各人の認識の差や扱い(運用など)の差によってその手段に対する評価レベルは相対的に入れ替わるものともいえる。
 例えば、人によっては、愛社精神もその中に含むとすることもあるわけだし、愛社精神がなければ採用しないという場面に遭遇することもよくある話と言える。
 要は「取り組み姿勢」といったような考え方のうち、それを「取り組み姿勢」を持つ者を管理する者の「取り組み姿勢」のようなものを規定するものとして倫理観ということばに置き換えられるのではないかと思う。
 また、今回の事案のように、倫理観以前の法認知の欠如が存在する時点で論外であると捉えるべきところであるかもしれないが、ここでは、延長線上に成文法の規定が存在するとして考えても差し支えないと思われる。
 さて、実施者とその管理者の各行動、成果などに対する考え方の違いは、当然ながら立場やその個人における動機の違いによって大きく左右されると考えられる。
 この差異に伴う競合を実施者の有益なアイデンティティをできる限り損なわない形で解消することで『アイデンティティに手を加える』ことにある程度なっていない状況を作出することが可能になる。
 その手法としてもっとも単純な方法の1つとして動機が一致するという方向性を意図的に設定するものが挙げられる。
 しかしながら、動機に限っていえば、もともと一致するはずがないような状態(事実通常大抵の場合一致しない)から意図的(もしくは強制的に)に動機を作りだすのにも限界があるわけで、それはそれで何らかの規定などとしてシステムが整流化するような手立てによって底上げすることが企業側として必要となる。
 ただ、今度は、その手立てを行う企業自体の動機を考えれば、どちらに偏るかは、自明の理である。
 こういった点を払拭するためにあえて企業は企業倫理といった観点から社員に対してコミットメント(いつもどおり、宣言、実行、検証などの一連の行為を指す)を行うといった手法を取り入れているような企業もある。
 一方、気合いなどで動機が一致するという方向性を画策すれば、程度によっては感情を持つ人間であるがゆえに双方に有益な結果をもたらすこともあれば、行き過ぎてねじ切れたりぽっきり折れたりすることもありうる。
 個人的には、後者の手法はあくまでスパイス的効能として捉えるべきで、それをメインの食材にあててしまい、さらにはそれが正しい、すばらしいと信じて疑わない(もしくは思考停止して別の手法が思いあたらない、問題意識すら存在しない)のであれば、スパイスとして用いることも選択肢として外すべきだとは思う。

 3つめ。
 企業としての固定費の考え方。(例)
 旧態依然の重厚長大型企業や公共事業関連の企業は、何十年も昔は、現業部隊であるはずにもかかわらず、実質的に一般管理費扱いでいいんじゃね?と思われる者が多く在籍していた。
 それ自体に特に無意味なものというわけではない(別のむにゃむにゃした理由があるにはあるので)のだが、会計上でない実体的な部分で、一般管理費現業部隊に重くのしかかっている場合、企業の構造として対外的な構成員数で分配するよりも極端に業務が集中する者を容認する形でしか企業を存続させることができないことになる。(いわゆる構成員数と実働員数の極端な乖離)
 最近では、そのような企業はかなり限られてきたため、それが露見した場合は社会的におかしな企業として認知されるようになってきてはいるが、企業としての財務諸表などに現れにくいいびつな構造的問題は、先の例に限らず、当該企業に関して言えば、コメでも指摘されるような縁故採用が起因した何かかもしれないし、顧客企業からの人員の受け入れといった部分に起因しているかもしれないし、何か外部の者が知り得ない問題があるかもしれないし、場合によっては、当該企業の経営陣でさえそれに気付かない問題があるのかもしれない。
 ただ、これも法の範囲内という考えがあれば意図して修正されることがなかったり、外部の意見としての社外取締役制度などがあっても、およそ会計系、財務系、ファンド系といった領域の問題点の抽出が主であることからすれば、ESなどの観点から結果的に企業に資する領域まで持っていくような者を招聘するわけでもなく、かといって成り行きで解決されるものでもない。

 4つめ。
 回遊式いけす。
 まず、先に断っておくが、この手法は最近では一般的にブラックと呼ばれることが多いため、現実的に適用できる手法ではないとして考えてもらいたい。
 で、これは、業務遂行者の一様な管理を行うという前提のもとに、ぶっちゃければ、首輪をしてつないでおくという考え方ではなく、もう少し自由度のあるいけすで泳がせておくという管理手法である。
 今回の問題提起としてアイデンティティの維持が求められている点から考えていくとすると、アイデンティティの維持といけすの広さに伴うコストの最適値を求める行為の積み重ねで達成するということになる。
 実をいうと、大昔の「滅私」という領域においては、アイデンティティを認知しようとされまいとそれに手が加えられているのかどうかさえ無関係であることからすれば、たとえるなら狭い水槽だろうと水に浸されていればよいということにはなるかとは思うが、当人が普段から手が加えられていないと思えるまでの設備であるには、それなりの回遊性が確保された規模が求められる。
 ただし、あくまでいけすであることに変わりはない有限領域である。
 コメにもあるように『それこそ個人事業主化した方が稼げる』ということがその網を越えて外に飛び出すことに他ならない。
 ここで、分かって飛び出す者に目が行きがちだが、企業の運営や今回のような事案を生まないためには、張り巡らせた網や壁が十分に認知できず、全力でぶつからない方策が求められる。
 これも実行者側への網、壁の認知、および管理者側の手助けが必要であり、管理者側の衝突に対する防護策(当たっても怪我をしない設備であるとか)と実行者側の対応への理解が必要であるといえる。
 また、必ずしもいけすにいなければならない、いることが重要、よいとされることというわけでもなく、いけすを維持するリソースとの兼ね合いで双方が協調した形でのスピンアウトやスピンオフ(商品、サービス、組織、人材に限るものではない)を随時考えて行動することも求められる。
 ただ、先述のとおり、こういった手法は一律に個人を管理する洗脳的手法として認知されることが多く、また極度に均質化された労働集約型事業ではないサービス業や少量多品種型の製造業などでは、チーム制やプロジェクト制、師弟制的なチーム制よりも少人数な構造、セル生産などといった構造的な変化によってそのまま適用してはデメリットの方が大きい場合もある。
 そういう意味では、この項は解決策の提示にはなっていはいない。


 で、ざっと思いついたことを並べてみたが、こういった考え方というのは、経営コンサルっぽいある程度専業に近い領域から再建請負人のような弁護士や金融関係者、会計士、税理士などの領域の付加的サービスのような形で提供されることが多く、あまり情報としてまとまっていないような気もしなくはない。
 およそ、経営論においても、こういった状況に陥らないための方策について提起される部分はあっても、陥った後に限定した方策を深く検討することはあまりないのと同様なことだと思われる。
 また、事案としてセンセーショナルなものであるがゆえに、どうしてそうなったか?的なルポタージュが上梓されることはあっても、その状態からどうするのか?という書籍等は出版されることは少ないだろうし、それを体系だって紐解くことはさらに少ないだろうし、加えて、そこに興味を持つ読者もあまりないように思う。
 また、どうしてそうなったか?について検討することは過去のことであるために意図して隠蔽されなければ例え困難であっても答えを導くことも可能であろうし、ありがたいことに思った以上に類型化しやすい(例えば、その事故がヒヤリハットではなかった重大な要因の種類が少ない)ことから、断定的な内容にしやすいこともあるだろうと思う。
 一方で、その状態からどうするのか?というのは、未来のことであること、およそ著述する者が行動主体でないことから書きようがないこともあるだろうが、例えば医師にとって患者の容態によって治療、施術は限りなく様々な選択がなされ、パターンが分岐していくのと同様に、企業のリソースにおける損壊度合いによって適用可能な手法は変わってくるし、毒にも薬にもなる手法も数多く存在する。
 三菱自動車の不正問題においても第三者委員会による提言事項がありきたりで評価できないという専門家もいたのだが、結局より具体的な提言へ進むほど、より具体的なリソース、固有名詞に対する具体的な内容にまで行き着いてしまうわけで、そういった部分のバランスをどこのあたりに設定するのかというのは、かなり難しいことだとは思う。(個人的には、発生した不祥事の要因分析をかなり技術的な部分まで掘り下げていることとのバランスから考えれば、もう少し具体的で技術的な部分まで踏み込むような一般論ではない三菱自動車のためにのみ適用が可能なレベルの提言があってよかったのではないかとは思っているが。)
 要は、解決には数多くの方法が存在するはずだし、かといってその認知の有無に関わらず実施されるとも限らないという不確実性のなかにあるといえなくはない。
 加えて、高度成長期のころにおいては、不祥事があれば、潰して作り直したらいいじゃん、ぐらいな考え方でも企業として成り立つ部分はそれなりにあったし、また、その方が病巣を絶つという意味では確実であったとは思う。
 いまでこそ、それではまた同じ病巣が生まれてくるのでは?と思ってしまうのだが、当時としては、全く現状と変わらなければ生まれることはあっても、生まれるまでに時代が変わっているので同じものは生まれない、という考え方が支配的であったようにも思う。
 で、逆に今の話に戻すと、潰しようもないので毀損したとしても維持したままどうにかしなければならない時代となったわけである。
 これに対応するために編み出された悪手として「ぐるぐる」というのがある。
 私の仲間内では「バター化」などと悪意を込めて表現していたが、何のことはない、ただの強制的な配転である。
 これは、人事交流で組織の風通しをよくしてよりよい意見で組織全体を変えていこう、などというものではなく、人心の間で不祥事をよりはやく風化させ、具体的体験に基づかない別の何かに変質させる意図をもって行われるものである。
 一般的にこの手法は、一時的に社内が静穏化するまで不祥事が起こりにくくなる(ただし、それなりの規模の製造業、チェーンストア系の組織構造が多層化している場合は除く。)こと、短期的に不祥事が起きないという表面的な事実を内外に示すことが可能であるならば、様々な事項に配慮して問題の根本的な解決を行うよりも配転による短期的なパフォーマンス低下の方が安上がりなことが多いことが挙げられる。
 もっと昔の連結といった概念が緩かった時代においては、部署ごと複数の企業間で「ぐるぐる」回して結果的にどうなったのかよく分からないようにする企業経営者もいたのだが、最近は減った気がする、って、話がそれ過ぎている気がするのでやめる。



 で。
 話は変わって荷担していたかどうかという話だが。
 前の記事でも書いたとおり、私は当該企業の人としゃべったことも会ったことすらないので、増田と同様に考えれば荷担しているとしても「風が吹けば云々」レベルの荷担度合いだろう。
 ただ、別の意味で、私自身が『ただ、やりたいからやっている』というのを全力で実行していた(あくまで過去の話。洗脳がどうとかではなく体を壊すのは戦傷章と同じ名誉なことと考えていたし、それが企業のシステムとして内包され機能していた時代、業界だったというだけ。)ことは、荷担していたとされても弁解の余地もない。