正しい(?)認知

 増田ネタ。
 「声優についての疑問」なのだが、長いこと声オタ(といっても昨今のアイドル的な感覚ではないが)をやっていると、増田やコメにあるような認知ができなくなっていることに気付く。
 すでに、アニメや吹き替え版の映画を見ていても、この声は誰々でこういう役を過去にやっていて総じてこういう感じの役をやってたり、こういう演じ方を云々とつなぎ合わせながら見ている関係上、もはや良し悪しもなにもない。
 そういう認知を超えて演者自体が空気感のようなものとして感じることができるのは浪曲や落語のCDを聞いていたりするときぐらいな気がするのだが、結局それも良し悪しがどうの違和感がどうのという話ではない。
 増田が『個人的に思ってること』と書いているとおり、多分人によって感じ方はバラバラなのだろうと思うし、それなりの期間、業として維持できるということは、関連する業界においてビジネスとして価値が存在することを考えると、全ての者から「こいつぁダメだ、箸にも棒にもかからねえ」と思われていないということであって、それが本来の能力ではないバーターであろうとはては枕であろうと必要とされているわけで、何らかの意味が存在すると考えれば、ありといえばありなんじゃない?というのでいいかと思うようにしていた。
 ある意味、文句を言っても替えてくれるわけでもないことへの強引な回避策ともいえる。
 で、それが長く続くとどのようなマイナス因子であろうとそれも含めて個性であってさらにはそのキャラの個性という脳内変換が自動的になされるようになって今に至るといった具合である。

 で、個人の遍歴はさておき、結局吹き替えやアニメの場合は、映像と音声が別物として認知しているかどうかという部分があるかとは思うが、その考え方によっても感情移入の違い、さらには『キャラが感情を出してるようには素直に聞けない』といった違和感を感じるといった弊害(何をもって弊害というかは色々あるかとは思うが)を生むことにもなるのだと思う。
 まぁ、実際、映画でもオリジナルと吹き替えを両方見るとオリジナル側ではそんな口調でしゃべってないじゃん、とか思うこともなくはないので、演技をする声優本人の味付けなのか、吹き替えスタッフ側の意向なのか、それとも増田のいう言い得ない違和感によるものに起因するのか分からない。
 増田の『ああいつもの平均点の感じの声なんだろうなあとか思ってしまう』というところは、コメの『色んな声欲しかったらいろんな人使えばいい』というように私も感じるのだが、あくまで外部の人間なのでどういった選考プロセスが実際に行われているのはよく分からない。
 分からないことだらけだが、いずれにせよ、それが、先の分離しているという認知を前提に情報を入力していることに起因しているとするならば、例えば国内のテレビドラマを見た場合、同様の違和感を覚えない可能性が高いと思われる。
 もし、国内のテレビドラマを見ても同様の違和感を感じるようであれば、それは声優に限ったことではないだろうし、多分、演技というよりは演出(例えば、このシーンでこういう見せ方をすることがもっともリアリティが損なわれずかつ訴求的だと考えた結果が受け取る側で一致しないとか)といった部分の認知に起因しているのかもしれない。
 こういった方法で違和感の障害切り分け的なことをやっていけば、自身が何に機微に反応しているのかがわかってくることも多いのだが、それよりも先に経験的な話で言えば、『声優のうまさの感じ方って個人差ある』かどうかは、学生のころに散々話し合った結果、個人差しかなかったとしかいえない。
 例えば同じ声優が好きでもさらにそこからどこがどう好きなのかをどんどん掘り進めて行くとどこかここか違いはあるし、それが嫌いな場合でも同じなので。

 また、その違和感によって作品自体が楽しめないならば、それはそれで悲しいことだと思う。
 もし楽しめないほどの違和感があるならば、何らかの別の考え方を導入するなどの転換は必要かも知れないが、そうでなければ、それはそれとしてある程度受容するってことで作品を楽しんだ方がいいかもしれないかなぁ、とか思う。
 まぁ、私はすでに引き返せないほどよこしまな見方しかできないところに来てしまっているわけだが、昔のことを思い起こしながら書いてみたりした。