ありがとうございました。

 先日の言及に関してdlit氏から返信をいただきました。
 お忙しい中、ありがとうございます。
 井上史雄氏の著書、読んでみたいと思います。
 井上史雄氏って方言辞典みたいな本でよく見かける方と漢字が似てて勘違いとかそういうのかな、とか思ってググってみたら同一人物っぽいんですが、方言の研究というのは社会言語学に属するってことなのかな、とかしろうとながら考えたりしました。

 で、気付いたことがあります。
 それも、かなり根本的過ぎてずっこけてしまいそうな内容なのですが。
 dlit氏の記事を読んでいて『「あー「ら抜き」市民権を得たけどどうなの」』というあたりで、「あれ?私自身の立ち位置の相対的認識がおかしいじゃん?」とか考え始めてしまったという。
 先の新聞記事での梶原氏の発言から引用すれば、『ら抜き言葉問題は、その主たる話し手が若い未熟な世代だった時代に、大人が「ら抜きを話す人は子供っぽくて教養が低い」と優越感を抱くための指標として使われてきたように思う。』とあるのですが、それが拡張され、年齢の問題というよりも各個人の教養の有無という識別子として機能せしめるような何らかの誘導が私自身昔から感じていたのも事実で、逆に言えば、ない側で生を営むのであればなくていいやね、などと数十年前に考えていたのを思い出します。
 作文で「食べれる」と書いたのを担任から朱書きで「ら」を追加され、直接口頭で糾弾された際に、私が「ら」を朱書きできるのなら意味が伝わったということではないですか?と答えると担任は私の作文をぐしゃぐしゃに丸めて思いっきり投げつけてきたのはいい思い出(ひどいガキだなぁ、今思えば。)なのですが、要は、規範と実際の使用という点でダブルスタンダードを保持し続けたためにその構造自体への認識がかなり緩くなってしまっていたのではないかとか考えてしまいました。
 私自身も新聞側という立場およびその立場から導かれる情報伝達に際する言語の利用形態を考えた場合、規範側だと思って新聞記事を読み始めたはずで、先のダブルスタンダードのうち、規範側の処理プロセスに放り込まれていたはずが、まともに処理できずに放り出した結果(例えば記者によるフィルタを想定してしまうのは、規範寄りに持っていくことで自身の処理プロセスに沿わせ逸脱を防ぐための自らが設定するフィルタでもあるわけですし)なのかなぁ、などと思ったりします。

 はたして、「ら抜き」に関してダブルスタンダードをもって自身の言語活動を運用しようと考えている人間がいるのかどうか謎かもしれないですが、自身の状況がどうなのか考えてみたので少し書いてみます。
 まず、規範側は過去から学校教育が一律に提供してきた規範と同じくいかなる現場でも「ら抜き」は存在しません。
 ただ、それは何かの情報に関して受容するために必要な分類に用いるためのもので、明らかに場の空気を読まざるを得ない場合でなければアウトプットとしては用いていないように思います。
 実際の使用側では、口語に関してはほとんど「ら抜き」だと自分では思っていたのですが、今回の件もあったため、周囲の人に聞いてみると「まわりくどい言い方をしてる」と言われてしまいました。
 全体的にまわりくどいのはいつものことなのですが、「ら抜き」に気をつけて自己観察してみると、およそ「ら抜き」を他の表現に置き換えて回避する向きがあるように思えました。
 たとえば、「連体形+ことができる」とか。
 知らず知らずのうちに「ら抜き」を揶揄されることに疲れて逃げの手を打っていたのかも知れません。
 記述の場合は、創作などでセリフを書く場合、意図的に「ら抜き」にしてみたりする以外は、「ら抜き」か「ら入れ」を回避して「可○○性」とか「連体形+ことが可能」という表現を多用しているような気がします。
 これも、何というか、「ら入れ」を使うことの照れというかむずがゆさが過去からの連続体であるがゆえの行動原理の残滓が何か影響しているのだろうか、などと考えたりしました。
 実のところ、こういう方向性でいくと、文化庁が実施している「国語に関する世論調査」の「ら抜き」表現に関する設問で「ら抜き」を使う、「ら入れ」を使う、どちらも使う、わからないという選択肢のどれもが、設問者側の意図と合致した状況として当てはめられないという(あえていうなら両方なのかな)ことからして以前の記事でもほとんど触れられなかったという話でもあるのですが。