後増田って勝手な造語で書いてみた

 増田ネタ。
 元増田は「なんで勉強するのか」なのだが、元々「こんなやつがなんで東大卒のブランド纏ってんだ。経歴抹消してくれよ」からたどり着いたので時間的流れは逆になる。

 とりあえず、こういうことを書く際には立場を明確化するために学歴のレベルを開示するのが礼儀らしいので、いつものパターン(というか、過去にも散々書いているという意味で)で、私は高校が進学校で底辺に張り付きFラン卒である。
 で、とりあえず、後増田(っていうのか?)に対していうと、Fラン卒が何を言っても意味はなかろうが『夜間大学に今も通ってる。』『俺のほうが評価されるべきじゃねえかな!?』と書きつつ、『俺なんか「学歴ロンダリング」扱いだぞ。』と憤慨するのはどうなんだろう、という気はする。
 『俺は学ぶ意味を、喜びを知り、就職してから学びまくった。』という事象と憤慨する事象が他者からの評価であるということとの不整合を冒頭で読者に意識付けようとしているのは、初歩的な釣りなのか、それとも『学ぶ意味と喜び』が他者の評価だったと自嘲している/いたことを告白したい/自戒しているのか、いくらなんでもそれはないとは思うが真性なのか判断が難しいと思った。
 実際のところ、文中にちりばめられている怒りの感嘆句の多さから想定される怒りに任せて書きなぐったであろう文章の内容自体に感情的表現が少なく、また感嘆句でもなくそれでいて内容にも直接的に関係がなさそうな中間に位置するような表現箇所も少なく、文章全体の内容におけるゆれや起伏が思った以上に平坦であることからすると、いろいろと覆い隠していそうだと想像できるし、それでいて元増田を『フワフワしてるような奴』と喝破しておきながら、語義や解説が書きぶりとしては強い口調であり、字数という意味では簡潔であるものの思った以上に内容そのものはふわっとしていると感じるが、これも全体に統一されすぎていてアラがなく、釣りかどうかを想像できるような術、というか穴がが見つけられなかった。
 学生や若手社員などの文章を読んでいたりするとこういったケースでの発言やレポートには、もともと穴がある事象や論理の解説に自らが気付かずにその穴を解説してしまっていたり、小学校の国語の設問のようになぜ間違っているのか文中に説明されていてそれを抜き出せばよいという状態を自ら作り出していることが多かったりするが、下手に権威を得て老獪に立ち回る立場になってくると、表面的にはどうなのか分かりにくくなってくる。
 『地元の図書館から市民講座の講師をやらないかと誘いが来た。』というところからすると、後者の立場に近いと思われる関係上、私程度の人間には分析不能ということにはなろうとは思う。
 万が一釣りでないとして、東大ブランドに錯綜感情を有しているのなら、東大院を修了して初めて「学歴ロンダリング」扱いされることを自嘲してもいいように思うし、それができないことを何か別の、例えば生活上の理由などで言い訳するならあまりに陳腐だと認識されても不思議ではない気はする。
 まぁ、自らが自らをすばらしいと思えることから論述するのであれば、それはそれで自ら腐っていっている者よりは相対的に健全なわけで、いいことだとは思うが。

 んで、元増田側。
 とりあえず、命題の『なんで勉強するのか』だが。
 知らん。
 終わりである。
 もう少し解説すると、それはもっと偉い人が知ってるだろうし、たとえ知らなくても定義しているだろう、想像に過ぎないが。
 という話である。
 まぁ、元増田と立場的に逆であり、そもそもFラン卒にそれを聞くのが間違っているということにはなろう。
 個人的な考え方ではあるが、基本的に発言者の属性以上のサゼッションなりプロポーザルなり(感覚的には、こういうのはどうかな?というのとこういうのを考えてみて酌んでほしいぐらいな違い、かな?)半強制なり強要なりというのは、正当性の確度が低くなると思っていて、そこからすれば、『勉強する』ことがもたらす結果とそれに伴い変化する属性を想定すればFラン卒という結果以上を想定したそれは確度が低いと感じるからだ。
 と、前置きをした上での、以下話であるとする。
 あと、フェイクが含有していると明記されているので、逆に破綻点を探る必要もなく整合性が図られていると考えて表記どおりの内容が存在するとして考えてみることにする。

 で、とりあえず、あくまで感覚的な話ではあるが、子を『反抗期』と表現しているが、父親に対して自らの考えをぶつけていくところからすれば、第二次反抗期と称される時期は終わっているか、末期かと推察する。
 また、『文科系』という表現が単に体育会系グループではない、もしくは個人の能力等の属性から体育会系の適合性を持ちそれを意識的に実践するよりも卓越した能力を他に有しているというだけならば別ではあるが、ある程度自己の分離が確立した上で真理を探究する段階に達しているとするならば、『なんで勉強するのか』についての元増田と子の対話の流れを考えた場合、実は、『なんで勉強するのか』が命題なのではなく「『何が嘘なの』か?」という命題に移行してしまっていることが重要なのではないか、という気がする。
 こういった考察のパターンが発生した場合に私自身が主に使う手法の1つとしてとりあえずどこかを仮に固定するというのがある。
 たとえば、新商品を規定数売るためにどうすんの?という命題を解く際、あくまで将来のことであるため、いかなる答えを出そうともどれも正しくない可能性は内在しているわけではあるが、結果規定数を売ってしまった場合、実施した手法は正しい解の1つとして存在することになるということにもなる。
 まぁ、その前段階で命題に解が存在するかしないかも分からないわけだが、それはここでは置いておくとして、そもそも常にそれなりの不確実性がつきまとうのであれば、解法を簡略化するために変数を減らすことで、とりあえずそれっぽい解、というか仮説を立ち上げて実行し、継続的にその解を求めなおし繰り返す形式となる。
 ここで複数の変数というのは、何かをしようとしたり、不確実、未確定な事象の説明や理由付けを行う上でそれ自体に付帯、内在、関連する問題点や不確実性が新たに追加されることで、変数がどんどん増えていってしまう(もしくは一向に減らない)ことから生まれる。
 先の事例に当てはめると、結果からすれば、感覚的には「大人はきたない」というものになるかも知れないが、『嘘』とはどういったものであるか、もしくは定義するかということを設定してしまえば、子供の教育上よいか悪いかは別(成長という観点からすれば『娘に適切な助言をできないのは本当にかなしい。』こと自体が何らかの形でプラスに働く場合も多いわけだし)にして、議論の落としどころを探れたかもしれない。
 そもそも中学校で『成績も中の上』レベルであるとすれば、科学的手続きとしての「真偽」をもたらす上での「嘘」が何かを求めているわけではないことに元増田は気付いてしかるべきだったと思えなくもない。(たあいもない一般会話上でそういった思考をめぐらせるのはFラン卒レベルでは難しいと私は感じてしまうが、勝手な願望としては元増田にそれぐらいは自然にできて欲しかったりはする)
 ただ、およそ先の解答がもたらす結果の確実性を担保しえないことを前提に無理やり実行するしかない場合のそれっぽい合意形成をもたらす論理(というよりは解説)を導くことが目的ではない(例えば、純粋な真理の希求であるとか、感情的な面での折り合いの探り方の手札を増やす、レベルを上げる、結論に関する合意形成ではなくコミュニケーションなどを通じた感覚、感情、立ち位置、パーソナリティの関係性の確認などといった意識醸成、共感など)可能性も高く、遅かれ早かれ答えに窮する可能性も高くはあるのだが。
 まぁ、相手が最終的に何を求めているのかは会話の表面的な部分から分からないことも多く、当人さえも本質的に何を求めていてどのような結果(質問の解とは限らない)をもって満足だとするのか分からないことも多いことを考えれば、なにが適切かは分からないし、知らないとしか言いようがない気はする。
 結局、個別案件ごとに深く考察しなければならないわけだが、まぁ、レベルの低いまま年寄りになった者から言わせれば、あれこれ考えているうちに気がつけば嫁に行ってしまってたりすることもあるわけで、真剣に考えすぎるのもよくないのかも知れないが。

 『「勉強しないと社会で普通に生きていくことができないから勉強するのだとしても、ではなぜ社会は私たちに勉強を要求するのか」あたりが質問の真意』、『「勉強」と「学問」という言葉をほとんど区別せずに使ってた』という点について。
 これも質問の真意がそのように設定されたとして、単純にそれが聞きたいだけなのか、その質問が生成された当人の内的システムに触れる/考察するものであるのか、現実との適応困難な点を解消することが目的なのか、矯正もしくは強制されるべきものとしていかに叩き潰すか等、様々な観点から考えることでその手法や質問自体の意味合いは変わってくると思われる。
 当然ながら、強制などの世界でいえば、そもそも用語定義など全く無駄であろうし、質問自体が表面的なものであったとするなら年齢や経験的な意味(本質的に義務教育期間という観点からすれば必要な時期に相当するが、学校教育の現状からすればまだあとでもいいという判断をしてもよかろうかと思うので)で特に厳密である必要はないかもしれない。
 とはいえ、命題として取り上げられたことを重視するとすれば、ことばの区別という観点からそもそも双方が今話題にしている『勉強』とは何なのかを見つめなおす必要がある、という共通認識を持つことも重要であるかもしれない。
 例えば、自らの具体的行為のなに/どれが「勉強」であり、どのような状態である/になることが「勉強」の結果/経過であり、さらには元増田と子の双方の認識の乖離がどのようなものか、なぜ発生しているのかを考察することでも理解は深まるのではないかと思う。
 また、実際のところ『「将来の選択肢が増える」とか言っても実感が湧かない』と感じていると書いていつつも、元増田自身の失敗経験からはたして選択肢が増える結果を招いたのか?という疑問が内心あるのではないかと想像する。
 およそ、それもしくは未経験であるがゆえのそういった妄想に一点の曇りもなく確信しているのであれば、言いよどんだりはしないように感じるという経験則もあったりはするのでそう想像したりするのだが。
 個人的には、キャリアパスの結果という観点から、別に自らの選択肢が増えるわけではなく、現存する結果からさかのぼった選択と現状、およびその行為との関連性が理解できるかどうかに過ぎず、逆に結果をある程度想定し、求める結果に向けての仮説をある程度絞り込むことに用いることが可能であるということに過ぎないと考えている。
 もし、文言どおり自らが『普通に生きていくこと』を必要条件であるとして、その複数の選択肢をより多く満たすためにより多くの『勉強』っぽいなにかが必要とされるのであれば、自らが決して求めていない選択肢を満たすための『勉強』っぽいなにかが必要であるとは思えないのは数値的な判断とその効率を常に強いられるような現状では合理的であるし、自らが全ての選択肢を実行するわけではない以上、結果的に『普通に生きていくこと』を満たす十分条件だとしても問題ないと考えても不思議ではない。
 こういった考え方からすれば、『先生や学校を酷く軽蔑している』という考え方を批判的に捉える(否定的ではない、あくまで)こともできないのだが、まぁ、こういった使い古された手法が必ずしも通用するものではないので、ある意味話半分であるともいえる。(まぁ、なんだろう、この程度のことも知らない(教わってないことはさすがにないはずだが)教諭、講師であれば、娘さんのいうとおり『馬鹿』でいいとは思うが)
 また、このことは、「社会からの要請」のように感じてしまう自らが求めること必要だと思うこととの乖離に関して、その存在を説明することはできてもなぜ乖離するのかを説明するのは困難であるし、その理由を解く直接的動機付けにはなりにくい。
 具体的にどうするか、何をしていくのか、どう考えていくのか等は、個人によって変わってくることではあるが、結局、先の『勉強』とは何なのかを見つめなおすところから始めるのがオーソドックスな基点になるのではと私は思う。
 多分、こういった自身が自らの考え方として獲得できるものとして受け取るためには、基本的には外部からの決め付けはあまりよくないということになっている(今後の研究でそういった定説は覆されるのかもしれないし、例外も存在する)ので、元増田は導く立場として振舞うことになるのではないかなぁ、とか思った。

 『中学のシステムはぜんぶクソ』について。
 全てかどうかは別にして、義務教育のシステムに関して少なからずそれに従って教育されてきた国民にとって何かしらクソに感じる事項は存在すると思うし、多分、全幅の無条件な肯定を維持する者は限られているように思う。
 また、めでたくすべからく経験と持論を持ち合わせている関係上、議論や新たな知見によってクソがクソでなくなることは比較的少ないように思う。
 結果的に、諦めるという方向かクソがなぜクソか、を理解することで次善の策を自ら策定するかぐらいの手法(他のグレーな手段云々はここでは除外する)ぐらいしかなさそうに思える。
 私自身はというと、諦めた後、悔やみ、そして大学時代にクソがなぜクソかを講義等で学習したように思う。
 そういった関係上、クソがなぜクソかを理解する手法は、歴史的経緯や教育史、法令などによる規制、組織論、組織運用やシステムなどの構造論、組織論に含まれる話かも知れないが要員の適切性や配置などの人事システム論などから考察していったように思う。
 とはいえ、それなりに有能で、個、他、集団、仮想の集団(社会、地域、○○層などといった概念)を分離して認知し、考察できるならば、別に年齢制限のある高度な学術的検討を要するものでもないことからすれば、別に中学生でも理解できない内容では決してない。
 ただ、問題があるとすれば、現状元増田の子は中学校に所属し中学校の教育システムにネガティブ(ただ、具体的にどういった認知の上でどういったものに対してそうなのかは分からないが)であることを考えれば、選択バイアスなり認知バイアスが効きやすいと思われ、それはよりネガティブ側に強化されやすい危険性もあるかもしれないと思われる。
 これは、現象としてクソがなぜクソかを理解することに変わりはないわけだが、現に所属している組織への適応をより困難にさせる方向としての理解であり、また、個の立場として、組織運営に介入しよりよいものに変革するようなシステムが一般企業などと比しても極端に少ない(というか、よっぽどのことがない限りない)ことを考えれば、自ら行動制限をかける方向にしかならないように感じるからである。
 こういった場合に、親にとって何ができるのかということについては、ちまたの教育書などに様々な方法が示されていると思われるが、私は、当該学校の教育者がすべからくクソだと思うのであれば、ある程度はクソだがある面でいえば認められるという人物が教育者(直接的である必要はない)として学校外等で存在できるようバックアップすることで、間接的にその対極となるクソがなぜ存在しえて、なぜクソかを理解する手助け、前駆段階の意識醸成に寄与するのではなかろうかと思ったりする。
 まぁ、クソがクソたるゆえんがいわゆる中二病に起因する現象であるなら、ある意味ほっとくというか無駄な手出しをすること自体がマイナスに働く可能性もなくはないし、それとは別にクソが堪えられないクソであって、当人において底抜けしてしまった場合、精神面からくる体調不良や不登校などといった問題として表面化することもあり、その見極めは簡単ではなかったりするのだが。

 ちなみに、今回の事例とは関係がないが、小学校の段階で『なんで勉強するのか』という問いにはある程度のパターンがある。
 正確には「するのか」ではなく「しなければならないのか」ではあるが。
 じゃあ、教えるからノートと鉛筆と消しゴムだそうな、で済まされる話かどうかというレベルから、先の事例のような自己と他の分離が進んだ状態で教育者と被教育者の関係を考慮して考察したと思われるものなど様々である。
 この類型化は様々な手法があるが、とりあえず、ここでは2つの評価軸で考えることとし、一方の軸を勉強が具体的な行為の何が該当するのか、そしてその用途など意義や応用性、必要性といった点に関する認知する深度、範囲の大小とする。
 そして、他方の軸を当人の実情において当人が考える「勉強」に対する正負感情(これも細かく分ければ複雑になるので、ここではざっと一緒くたにしておくことにする)を取るものとする。
 ここで当該人物の属性をある程度推定し2次元面にプロットしたとして、その後、時間の経過や何らかの自ら行う行動や外部からの影響によってどこかに向かう(まれに移動しない場合もあるかも知れないが、義務教育中は少なからず移動せざるを得ないと思われる)わけだが、逆に外部から当該人物に影響を与える立場(例えば親とか)として向かう方向性をあらかじめ想定してそれに合致した行動計画を立てることも可能だといえる。
 また、設定した行動計画に基づいて実施したとして想定しない方向に向かっていることが確認、もしくは予見されたならば、行動計画を再度検討しなおして修正することも可能であるといえる。(まぁ、ある意味教育は水物なので変更しても元に戻らなかったりすることもままあったりする(逆に可塑性を唱える分野もあったりはするが)ので必ずしも可能であるとは言い切れないのだが)
 で、本題の「なぜしなければならないのか」という問いに対してパターン化するとして、単純に2次元面を田の字に4分割してある程度類型化し、各領域から別の領域に移行するためにどのような手段が可能でどのようなメリット、デメリットがあるのか、また移行しようとしている前兆はどのようなものかを考察するという方法がある。
 この場合、およそ当人の認知する「勉強」がポジティブであれば、現状は問題ないであろうし、ネガティブ側に振れることによるデメリットが大きければ(義務教育中であれば大抵の場合義務を行使される側という立場上デメリットの方が大きい、はず)それを抑止するリスクを想定し、何らかの対処を準備することになる。(個人の全ての面で安全だというわけではなく、あくまでもこの事象に限ったものであり、また他の事象から影響を受ける可能性もあるので完全に安心できるものでもない)
 一方ネガティブ側の場合、ポジティブ側に移動させるとしてもう一方の軸側の値を固定したまま移動できるのか?という問題が発生する。
 認知度等がそもそもそれなりに高い場合、残念ながらそれを逆に振ることは不可能なので、当人にそれを高める積極性があればさらに高度なものに挑戦させる(こういったことは中高一貫校の方が多様性という意味で有利なことも多い)ことも1つの方法であるし、ネガティブである状態を作り出している根源がその命題で説明がつかない場合や「勉強」に対する認知が知識の偏在や想定できる応用度の認知などとのアンバランスさ、場合によっては間違った(科学的に、というよりは表面化しない反社会的な、といったケースが多いとは思う)知識の格納による場合などを修正することでポジティブ側に移行を促すという方法が取られたりする。
 問題は、自らが認知する「勉強」の概念が狭く、またそれ自体をネガティブだと感じている場合である。
 これには、大きく分けて2種類あって、ネガティブでもいいのでもう1軸側を強制的に高める方法とまずポジティブ側にふっておいて自助的にもう1軸側を高める方法である。
 先のまぁそれはいいから勉強しろという考え方は、この前者側であって、「何で」を「何を用いて」と錯誤するくだらない冗談を混ぜた揶揄される手法という考え方なのだろうと思う。
 また、一部の不要な知識も必要などという考え方を説明する図として機能させることも可能である。
 一方後者は、「自ら学習する力をつける」などといったどこかで聞いたような謳い文句に近いわけだが、極論すれば「自ら学習」できてしまうのであれば、謳う側の機関の存在意義を否定してしまっているため実態としては同義ではない。(ただし、寄与しないわけではない)
 また、様々な社会問題となっている事象(具体的には書かない)を見てもそれを実現することが簡単ではないことはいえると思う。
 で、この模式図のオチはなんなのかというと、ここに元増田と後増田(釣りではなく真性バージョン、以下同じ)をプロットしたとして、その位置関係から後増田の「勉強」に関する心理状態と立ち位置の認識、自ら向かおうとしたい方向性を説明できるかというと全くできないということである。
 こういうのが要は適用限界というヤツで、広義での「嘘」といってもいいものだとは思う。
 なんというか、「嘘」だけとってみても奥が深いと表現せずにそれが自ら体系的に構築できることが重要なんじゃないかな、という同じような流れで終わることにする。



 あと、中島義道氏の話だが。
 私自身、氏の著書を読んだことはないのだが、教育関係でのインタビューなどを読んでいると、およそ氏の著書を実践するなら考察に際して他を試す(例えば、『父親」を試した』のような)行為は行わないような気がするのだが、当該著書はそういった方法論が書かれているのだろうか。
 読んだ理由が氏がイケメンだからってだけなのなら、それはそれでハイセンスなのかも知れないが。