研究っぽいことをしていた古い記憶との対比(2)

※ 文字制限で入りきらなかったっぽいので、分割してます。
  (これより前はこちら



健康でいること。

 人である以上健康であることは研究に携わる者である以前に重要だと思います。
 ただ、研究者として工程管理の面から捉えた場合、健康を害することは自らの担当工程が進まない以外にもリソースが割かれることになります。
 大学入りたてとかだと、教授たちが工程管理を握っているので自分以外の者たちが割いているリソースについて意識することは少ないかもしれませんが、研究者として上位に進むなり、社会に出るなりしていけば、それらのリソースについて意識する度合いは上がっていかざるを得ないと思われます。
 健康体で働けるだけ働け的な発言をするとブラックなどと言われる世の中ではありますが、社会や企業の組織体全体としての柔軟性から論じられている話であって、ミクロ的な見方をすれば、自らが行動していないことによってその行動そのものが組織体内で消滅するわけではなく、自分以外の誰かが行動しているに過ぎません。
 研究者として自分ではなく自分以外の誰かが行動していることをどう考えるかという意識に関わってくることだとは思いますが、自らが今後どういう立ち位置に立つつもりか心にとめておく必要はあるかもしれません。
 さて上では心身のうちの「身」側でしたが、「心」側はどうでしょうか。
 この分野は倫理観(技術者倫理など)やものごとに取り組んだりコミュニケーションを行う姿勢や果ては心身症に至るまで広範にわたります。
 捏造や物理的もしくは成果などの窃盗、破壊、収賄などの違法行為をはじめとする一般的な倫理観の欠如による悪しき結果については基本的に考察の範疇ではないですが、心身症に関してはどちらかといえば、研究を始める者がいきなり意識するものではなく、本来管理者側(メンターとか学生相談室とか企業なら上司とか産業医など)がそれぞれの職責との連携でもって問題が発生しないように維持する必要があると思われます。
 ただ、こういった点に関して、先の「コミュニケーション」の項目で示された姿勢と同じで『指示をもらう』姿勢では管理者側の気づきや対応も後手に回る可能性が高いため、自身が他者に自分の考えを正しく説明する訓練を行うことでそれなりの歯止めをかけることが可能になると思われます。
 また、ものごとに取り組んだりコミュニケーションを行う姿勢の健康度を考えると、自らを顧みた際に、先の「考えること」と「コミュニケーション」の項で示された内容に相反する行為をとる傾向があるとか、または、相反する結果がもたらされた時に先の「考えること」と「コミュニケーション」の項で示された内容に立ち返って検証、検討、再計画を図る謙虚さと少しの実行する勇気があれば、健康な状態が維持できるように思われます。
 ただし、あくまで無理は禁物です。
 加えて注意しなければならないのは、結果健康であるためにどうあるべきかを考察したものであって、健康を損ねた状態で考える思考プロセスではないことがあります。
 この領域については、各種書籍や適切な機関の資格者の指示を仰ぐことが重要で、そういった意味で、正しく場合分けできることも重要かと思います。




何ができて何ができないか、もしくはその二択だけか。

 就活などで「私はできなかったことをこんながんばりでできるようになった」的なエピソードを披露する、もしくは披露することを求められる(いわゆる「ガクチカ」対応の1手法)機会があります。
 しかしながら、研究においては、自身が「がんばった」からできるようになったことはさして重要ではないと思われます。
 研究成果においては「私が」ではなく「だれでも」が、悪い意味で抽象的な手法ではなく客観的に評価できる具体的な手法で可能であることが求められるわけですし、それゆえ「私が」「がんばった」ことが研究成果で、そのよく分かんないけどできたということを発表論文で開陳できる、というわけではないです。
 例外があるとすれば、せいぜい、それなりに成功者として社会的に認められるようになって、そこそこの数のインタビューや講演をこなすようになるなり、自伝でも出版できるなりにならないかぎり求められるものではありません。
 ただ、それさえも、研究者が行う研究という行為自体ではなく、立場上、当人に別途付加的な属性として求められているだけであって、本質的に必要なくなるわけではなかったりしますが。
 とはいえ、先の項目で研究者が取り扱う新規性として「手法」があることから「がんばった」ことはその「手法」に含まれるのではないか、と考えるかもしれません。
 しかしながら、私は、その逆で「がんばった」ことに手法が含まれるだけのように思っています。
 先の就活の話においていえば、ちまたの就活本には「がんばった」ことから手法や計画性、方針策定能力などを見ていると書かれていたりしますが、ひねくれた見方ではあるのですが、「がんばりでできるようになること」は普通できないと思えることを「気合」でどうにかする根性論的な何かが試される領域での能力を見ているのではないかと思われる職種、業種、経営方針を持つ企業などでは本人が客観的に具備すると認められる能力よりも「気合」側を重視している場合も多く見られるため、場面によって必ずしもそれだけしか正しくないというわけではないです。
 結局のところ、研究の結果となり得る成果からさかのぼれば、自身が明確なプロセスを経て、何かを行う能力を有していれば何かができ、有していなければ何も存在しない、という文面だけを見ると至極当然な内容なのですが、現実には厳しすぎて目を背けたくなるような内容ではあります。
 なぜなら、そこには試行錯誤などの失敗や成果に寄与しなかった結果の存在がごっそり抜け落ちている、というか存在していないことになっている、ということに他ならないからだといえます。
 できる、できないしか必要がない場面もなくはないですが、それ以外のものも決してムダではない、と考えて分類して認知してよいかと思えます。
 先の項目にある「分かってないことを分かる」につながることですが、「できない」ことにも様々な理由や要件があって、分からないからできないのか、やってみたことがないからできないと思っているもしくはできるかどうか分からないのか、単純に訓練や練習や学習が足りないためにできないのか、何らかの努力を行っても根本的に他者より劣るために常に何らかの代案を持ち合わせているからとか、そのバリエーションは千差万別です。
 そのできないことを裏付けたりバックデータになる、という考え方もあっていいようにも思います。
 また「できる」必要があるのかどうかという部分はまた別問題ですが、「できない」から「できる」に移行する際、「気合」で何でも「できる」わけではない(「できる」ひともいますがそれもまた別の話)わけで、「がんばりでできるようになること」の理知的な解釈に寄与し、適切なプロセスとして設定することにもつながるかと思います。
 さらにいえば、「できる」「できた」と思っていることについても「本当にできるのか?」「本当にできたのか?」「要求事項を適切に満たすのか?」を問い直すことも大切です。




捏造などの不正行為に対する技術者倫理以外での歯止め、訓練。

 昨今の某氏の行動により科学者という人種がいかに愚かで社会不適合な言質を行う者であるかを嘆く、もしくはそれを科学者全体に広げて嘲笑するような事態が一部で発生しているように思います。
 くだんの一連の発言、行為から推測するにもはや技術者倫理での論理的な解説や継続教育などでは対応できないレベルに来ている印象を受けます。
 当人を直接取材したわけではありませんし、脳内ダイブしたわけでもないので断定はできないですが、およそ高年齢になってから教化された技術者倫理は外部から観察しただけでは、対象者の根本的な性格、特質の表面にあたかもコーティングされているかのような構造をとることも多く、表面的には正常な状態に映るため、問題がなさそうに感じられてしまいます。
 しかしながら、自らの思考形態と技術者倫理によって導かれる思考形態との乖離が大きければ大きいほどスポンジ状のコーティング部分の隙間を縫って内部のそれが溢れ出してきます。
 このような相反する思考形態が自らの中に同居することを忌避するためにどちらか一方を優先する者もいれば、同居すること自体に精神自体が耐えられず自滅する者も存在しますが、一番手に負えず、また問題行動の発見が遅れるパターンは同居させることに順応してしまう者だと思われます。
 具体的行動や言質の一断面もしくは1つのよさげな結果だけで判断すると問題なさそうに見えても、行動や言質を列記したり結果を失敗作も含めてより細かい要素に分解してその整合性を俯瞰しなければその異常性が判別できないことが大きな要因かと個人的には考えていますが、論理的根拠はないです。
 いずれにせよ、技術者倫理の教化自体が悪いわけではなくて、技術者倫理の教化の持つ意味や機能を阻害する能力を有し、その手法だけで対応できなくなった耐性菌のような存在がクローズアップされてきたということでしょうか。
 こういった問題に対して、各界で様々な提案がなされているようですが、個人的に、物事を考える上で「反証可能性」を導入してみたらどうか、と考えていたりします。
 「反証可能性」はカール・ポパーが提唱した科学理論と非科学とを分ける定義とも呼べる考え方で、ぶっちゃけて書くと「科学理論は客観的データによって反証することができ、その反証を受け入れることができるものを言う」というものです。
 この考え方は、研究者に限らずそれなりに論理的な思考を求められる世界(多分求めるべきでないのは純粋な芸術の世界ぐらいじゃないかと)で一般的な検証可能性(例えば誰がやっても同じ結果になるなど)とはあたかも対極を行くようなものですが、研究全体に適応するのではなく、思考ツール、もしくは行動の歯止めとして意識的に物事を考える上で導入した方がいいのではないかと考えます。
 たとえば、5W2Hの考察に際して特にWhyは重要なのですが、この際に科学的根拠をもとに嘘つき扱いされたケースを何本か想定し、もう一度5W2Hを設定し直してみて同様な思考を行ってみる方法などが挙げられます。
 また、この際には、「考える」の項のコア領域と置換可能性のある領域とを明確に認知する必要もありますが、知らず知らずに陥ってしまう確証バイアスによる論理展開を再度落ち着いて検証し直す助けになったり、思った実験結果が出ずデータをでっち上げようとしたときに、反証可能性を5W2Hの考察とともに行うと、科学的とはとても思えない明らかに異常な結果になる(例えば、Whyにそうだからそうなんだよ的な流れでしか答えられなくなる)ことが自身で認知できるようになれば、それなりの抑止になるのではないかと考えられます。
 ただ、追い詰められたようなときに利用できることが求められるため、事前に反復、訓練を行って習慣化するなり、現場で定期的な進捗管理にあわせて時宜を得たロールプレイングを行う方法も有効かもしれません。
 ただし、悪意をもって行動する場合や一般的に悪意と認知される行為を当人が悪意もしくは非倫理的行為であると認知できない場合はいずれにせよ歯止めにはなりませんが。
 あと、論理的な正しさという世界で身を立てる研究者としては上記の内容は重要なことですが、社会に出た際、さほど重要視されない、もしくは逆に重要視してはいけない、逆手に取らなければならない世界も存在します。(ただし、一般的には論理的思考を基準にしてそれからどう外すかを考えるとされているので、やらなくていいわけではない。)
 先述の捏造者もその性向や同様な手法を法的に真っ当な扱いを受ける職業として行動できる世界においてなら、好業績の魔術士(カリスマ)として崇められる可能性も存在したように思います。
 こういった様々な領域に対しても物事を考える上での「反証可能性」をどう扱うかによって目的への確度が変わってくのかもしれないと思います。




なぜ研究しているのか、なぜ研究者なのかを問うこと。

 やりたいから、とか受験科目の得意不得意で選択したからというのは、とりあえず研究者になるまでの手段だったということで置いておいて、もう少しかっこよくて地に足のついた内容を考えてみましょう。
 下世話な話ですが、研究人生は大学の間だけで終わって、社会に颯爽と旅立つ場合においても、少なくとも就活の役に立つと思われます。
 常日頃心がけている人間と直前に就活本を読み漁った者とではその重みが違うと思います。
 また、研究者としてのキャリアパスを望むのであれば、目先の研究内容だけではなく、なぜ研究をしているのか、研究ができるのか、誰のためなのか、誰に影響力をもつのかを考えることも重要だと思われます。(これも後述の項目も含め最終的には5W2H的考え方で整理すべきですが)
 結局のところ、研究者が研究者でありそれが持続するものであるためには、突き詰めると何かを作り出したり行動することで社会にアウトプットしその対価を得ることと同様に、社会に何らかのアウトプットを行っているからこそ研究者としての肉体が維持できると考えた方がいいように思います。
 さらに研究者は実際に形あるものを取引する行為や規定された行動を行うような形式化しやすい事象ではないものを主に扱う関係上、相対する社会もしくはその人々に対して多様なエンゲージメント(契約とか取り決めとか果ては親密度的な意味も含む双方の関係性)を取り交わす可能性があることを認知する必要があると思います。
 それは、例えば説明責任であったり、双方の信頼関係であったり、対話手法(実際に話をするという意味ではなく広義のもの)であったりします。
 また、生産者と消費者がどちらの地位が高いというわけでなく、同じ人間で同じ社会の一員であることに立脚した思考が求められるのと同じで、研究者は社会や例えば権力者、為政者の下僕として隷属するわけでもなく、かといって社会に属する研究者以外の人々は無能者であり自らこそが選民であるというわけでもないことを心に留めておく必要はあろうかと思います。
 また、こういった内容は、研究内容やプロジェクトにおける立場などによって単純な指示命令系統のみで規定されるわけではない様々な形をとると思われるため、具体的に自らが導き出していくしかないようにも思います。




キャリアデザインの難しさとか流動性とか。

 一つ前は「研究すること」や「研究者であること」といった抽象的な観点からその全体像をつかむわけですが、それと同時に、じゃあ「自分はどう研究するのか」「自分はどういう研究者である(あり続ける、次第にジョブチェンジするなど)」のかといったキャリアデザインを描く必要も出てきます。
 このキャリアデザインを描く行為は、特に研究者に限ったことではなく、一瞬だけ研究者扱いになるとか、特段研究することもなくところてん式に社会に出ていく者であろうと技術者、技能保有者であろうと同じで、こういった事象に対応するためのちまたに溢れるキャリアデザインを描くための参考書に書かれている手法と大きく異なるわけでもないです。
 ただ、問題があるとすれば、純粋な研究者としてのキャリアデザインの実例を詳細に示したり具体的各種方向性を示すキャリアデザイン形成の指南書はその人口比に応じた需要に即した数しか出回らず、一部の研究職専門の転職支援コンサルティングを手がける事業者内にはそれなりの知見が蓄積されているとはいえ、あまりそれが公にどんどん出回る状況にもありません。
 また、研究者はどこかの機関に所属していても企業の社会的活動の観点から当てはめてしまうと個人事業主的な傾向が強く、最近は様々な制度改革もあってかかなり均質化されてきたとはいえ、「研究すること」や「研究者であること」といった抽象的な観点から落とし込んだキャリアデザインが人によって思う以上に千差万別であることには、なかなか気づきにくいかもしれません。
 研究を始めた当初は、メンターの庇護下にあるのであまり意識することがないのは当たり前といえば当たり前なのですが、その後も研究者のサガとして研究に没頭してしまい、あまり考えても楽しくないキャリアデザインを放置しがちです。
 大手企業などでは職能や階層別のキャリア教育や各種研修が体系的に完備されていることが多いですが、中小企業やさらには個人事業主に受動的に与えられる体系的な教育などまずといってありません。
 これと同様に個人事業主の形態に近い研究者は、自らキャリアデザインに関する情報を取りに行く必要があると心がけるべきではないかと考えます。
 ただ、それが今日なのか、明日なのか、明後日だとダメなのかとか言うわけでもなく、特別に奮発して何かのセミナーに参加する必要があるわけでもないと思います。
 そのヒントは研究者同士の何気ないコミュニケーションの中から抽出できたり、研究者以外の職種の者からでも参考になる事柄を見つけることはできるわけで、それを聞き流すか自らの血肉に変換できるか、さらにそれを集中力をもって継続し蓄積し生かし続けることができるかが鍵となるように思います。
 加えて、昨今の研究者における労働環境の変化にも気を配る必要があるでしょう。
 ブラックバイトやブラック企業の問題などで当事者の労働法などに関する法知識や問題を解決するための社会的手段に対する認識、知識不足による事態の先鋭化が取り上げられることがありますが、労働者側に限らず、個人事業主の場合などは、自らに経営者側と労働者側が同時に内在している環境なわけで、個人事業主みたいなもんだからと一方向側の目線だけでいると大変なことになる場合も出てきます。
 個人事業主なのだから、経営者側のデメリットと労働者側のデメリットを受けるのだ、ぐらいの気持ちでいると困難に直面した時に若干気が楽かもしれません。
 政治や政策に傾倒する必要は全くもってないですが、フラットな気持ちで世情を知り、自らの置かれている、または置こうとしている環境に関連する実情と変化を知り、自らの研究者であることに対して直接的に影響する事項の変化を知ることで、それに怒ったり反駁する行動を起こすことも自ら(もしくは家族)の生活や精神衛生上重要であるとは思いますが、同時にそれらの変化を受け入れた場合の対処方法やキャリアデザインの修正、方針転換などを真摯に考察し続ける必要があります。
 ここで注目しなければならないのは、会社員などの場合は、それらの変化に対して周囲を見渡せば同様な条件下にいる者(同期、同僚、同業他社の同じ立場の者など)を見つけることが比較的容易でマスボリュームが大きいだけに情報も思った以上に流れやすいのですが、研究者がその状況を自分に当てはめて周囲があまり騒いでないからそんなに気にすることでもないか、と本来の適用範囲を意識せずに安易に考えてしまっていると、土壇場になってパニックに陥る(それも惨めなことに自分だけだったりする)こともあります。
 こういったところも、メンターの庇護下にある内に意識的に行動する訓練をしておけば、その後は自然に行動に移せるのではないかと思われます。




コミュニケーションなのか何なのか分かりづらい領域を正しく扱う。

 多分、年配の研究者(主にネットワーク系を除く)には理解の範疇を超えているかもしれませんが、ここ10年程度で情報の扱われ方が大きく変わりました。
 その説明を始めると日が暮れるため放置しますが、重視しなければならない具体的ツールは、昨今のSNS利用の隆盛ではないでしょうか。
 最近では、大学でソーシャルメディアの利用に関するガイドラインを制定し指導を行ったりしていますが、その方針がいわゆる「法令遵守」「守秘義務」などといった単語で総括してしまってはいるものの、実態としては不法行為や触法、犯罪行為などのいわゆる法の定めに反する行為を得意げに開陳したり(例えばバカッターと呼ばれるものなど)、相手をおとしめるために権利を不当に侵害する(ネット私刑とか個人情報のばらまきなど)など、ニュースメディアを騒がすような当該ツールを用いることで可能になった、もしくは極端に容易になった事例に対応することが主なものであるように思われます。
 研究者になる者においては、少なからずその程度の問題に対応できる能力は義務教育レベルで具備していると思われるため、あまり気にする領域ではないと思われますが、研究者についてまわるその領域特有のいわゆる「守秘義務」や「適切性」「正確性」などという領域が存在します。
 何十年か前などは、例えば、守秘義務の認知過誤とそれによってコミュニケーションで扱われてしまいよくない結果を生む事象との間にそれを結びつける機会という意味でのハードルが高かったり、もしくは被害範囲があまり大きくないことも多かったのですが、ツール側の技術革新と普及に伴い、その双方が容易になり、因果関係が確たるわけではないですが、その過誤に関する倫理的レベルも低下する傾向にあるように感じます。
 個人的には、こういった問題を考える際に「個」と「不特定多数」という対象同士のコミュニケーションをもって説明していることが多い気がするのですが、最近こういったツールが幼い頃から当たり前のように存在する者と話をしていると、相手は「不特定」という特定されていない存在という認知ではなく特定だという認知はあるものの、相手のパーソナリティを記号表現する「名前」が紐付いてはいないアノニマスであるという認知が欠如した状態で当人が認識しており、またそれが単数か複数かは情報量に過ぎないと考えているためか機能として瑣末なことであるという認知のもと相手というものが認知されている気がします。
 それゆえ、自らの行為が多数に伝わり云々といわれても関連視できないし、見えている相手よりさらに奥の個を考えて云々といわれてもコミュニケーションを行っているのはその伝言ゲーム的な先の「個」ではなく当人が認知した「相手」との行為であるという意識が強いのか関連視できないように感じることも多いです。
 人工知能が自律的に何かを収集し生み出すことが一般的になってくれば考え方はまた違ってくるとは思いますが、現状、こういった「個」と「個」が設定した相手との関係が通常のコミュニケーションと同一であると捉えることはあらぬ錯誤を生む原因になりそうな気がしています。
 老婆心ながら、こういった観点でいうコミュニケーション、いうなればコミュニケーションっぽい何かになってしまっているものを適切に扱うことができるように随時見つめなおすことも大切だと思われます。
 また、こういった認知は、たとえ社会に出て研究者ではない職に就いたとしても同様でだと思います。





 ということで終わりです。

 あと、少し言い訳。

 メンター、先生、教授などを結構統一せずに書いてしまっています。
 個人的に、メンター、チューター、先生、教授、指導教官、コーチ、師匠なんてのはどれも別物ではあっても具体的人物に対して体系的に判断できるものではない場合も多い気がするので。
 個人的な話ですが、「わしがメンターじゃけえ、よろしゅう頼むわ」とある意味威圧されて、「いやいや、それって少なくともコーチとかちゃいますのん」と思っても、メンターと言って宣言するならメンターなので。
 まぁ、ういった領域はトラウマなのであまり考えたくないというか云々。

 事例などの立場やスコープがぐちゃぐちゃだったりしますが、統一的に処理する元気がなくてさじ投げという。
 使用上の注意としては、適用できそうだったらするし、ダメそうだったらやらないぐらいでいいかと。

 私の他の記事に比べて意図的にかなり断定表現を意図的に多めにしてみました。
 これは、とある箇所において「それは違うやろ」といった否定的感情を自身の中で明確なものにするために行った演出なので、反応が強めに出れば、正しい反応だと思います。
 否定的であるはずと考える要因としては、まず、その多くのネタが古いということかと。
 あと、ただの一個人レベルの経験など全数からすれば微々たるもので、それを代表値にすることから来るエラーもあろうかと。
 とはいえ、一個人レベルの経験を代表値として扱うことの危険性はごく特殊な立場の者を除き同程度であろうと思うので、多くの者から有象無象の経験、知見を収集し引き出しの1つとしていくこと(それがネガティブかポジティブかは問わない)もリスク低減に寄与するのかもしれない、かもです。
 ちなみに、追加項目は手書きのメモなどを含めると1/3ぐらいにまで減っている気がします。
 およそ、悩んでひねり出したり、自らの記憶の断片を必死でつなぎあわせて導いた考えなどというものは、常日頃識域を越えていないわけで、さっさと忘れるようです。
 かといって、がんばって書き残していたつもりでも、後から読んでまるっきり訳が分からなかったりするのは、単にアホなのか老化なのか。
 アホなのはしょうがないとして、歳は取りたくないものです。