よかったんだけど

 「10歳男児、川に流される 76歳男性が飛び込み救助 (5/5 大分合同新聞)」とのことで、こどもの日に子供が流されてしまうという冗談にならないことが起こりながらも皆無事でよかったとほっこりした。
 で、ほっこりするとか、とりあえず結果としてよかったわけだけれども、果たして結果だけをあげてそれでよかったと締めくくっていいのかどうか、ということはあるんじゃないのだろうか、という気がしてならない。
 で、映像も見たのだが、まず水面を見るだけでも流れが半端なく速いように思える。
 過去、私自身水泳をやっていた(正確にはかじっていたレベル)し、川で流される遊び(川で泳いでいる際に自主的にそうした大昔の話)もやっていた経験上、多分、あの状態では溺れる溺れないとは無関係に私は確実に流されてしまうと思う。
 大昔、濁流に流されたらどうなるかを実験する!とかいって米わらの束にレンガをくくりつけて川に流してみる(やっちゃダメですよ。不法投棄ですから。)とかやってたが、みごとに岩などに当たって粉砕されていて、あぁ、多分、自分がここに飛び込んだらあんな感じになるんだろうなぁ、とか考えていたりした。
 いずれにせよ、何らかの事故で流されるにしても、どの地点ならばいろいろ覚悟すべきでどの地点まで流されれば澱んでいるので岸にたどり着ける可能性が高いとか直感的か明示的にシミュレーションするかどうかは別として経験的に認識していたように思う。
 ただし、それはどちらかといえば消極的な解決手法で、さらにはよりよい釣果を得ることから見ればリスクの積極的な受容に対しての手法ということにもなる。
 記事を見る限り、子供も地元民のようで、あの状態で100mほども流されて意識がはっきりしているというところからすると、それなりの経験と慣れがあったのだろうとは思う。
 とはいえ、そういった構造が悪いわけではない。
 もし、それが悪いのであれば、危険との接触の頻度から地元民ばかりが常に水難に合っていなければならない(滞在時間だけを比較したとしてもそれだけで数百倍でそれにリスク受容の差がかけあわされるともっと大きくなる)ことになるのだが、現実には感覚的にそれほどでもないと思える。
 それは、リスク受容が流される状況に対するリスクに関しての手法であって、それより前に、当然、転落・転倒しない状態を維持することに対するリスクに関してのリスクの特定がより適切であり、それより先の危険、危害が発生しづらい状況にあるのは、地元民に一日の長があると思われる。(台風の用水路の話はまた他の要素があるので別。)
 で、結果として、極端に地元民ばかりが常に水難に合っていないということになっているように感じる。
 そこから考えれば、地元民かそうでないかは、危機管理の構造が大きく違っているわけで、地元民においていえば、転落・転倒しない状態を維持することのリスクを極小化することで悪しき結果を食い止めていることになる。
 ところが、残念ながらリスクは0にはならないわけで、その残されたリスクから悪しき結果が生まれた際には事態が深刻化しやすい、ともいえる。
 そういった意味で、転落・転倒しない状態を維持することのリスクを極小化したうえで、さらにそれより先のリスクにも歯止めをかけるためにライフジャケットを付けていて欲しかったところかなぁ、というのが残念なところだったりする。
 どういった釣りをしていたのかはわからないが、ベルトタイプのものでも付けていれば、変な話だが、救助者のリスクの低減ができたのではないだろうか、そんな気がした。



 で、要は釣りするならライフジャケットは付けようよ、という話のためにここまで書いた。
 と、書いといて何だが、なかなか面倒臭いんだけどなぁ。