湿原

 増田ネタ。
 「なんか問題発言のたびに「失言」と表現するが」ということで、結論としては、『あれ「本音」って言い換えた方が良いと思う』という話である。
 で、コメもあわせて読んでいると、よくよく考えてみれば、『「本音」って言い換え』られるかどうか断定的であるとまで一般化できるかどうかは分からないが、「失言」ということば自体が頻用されればされるほど、「失言」がはらむ語源的というか、他で利用されている同じ文字のイメージとして構成されるものにおける矛盾が先鋭化するものなんかなぁ、という気がした。
 過去に書いたかも知れないが、「失」の成り立ちは、「手」からすリ抜けたもの(すり抜けているのを示すのは「失」の最終画である右払いの部分とされる)から「失う」という意味を持ったとされる。(諸説あります。以下同じ)
 基本的な概念としては、「手」は自分自身で、失うのも結果として「自分自身」という主語の一致としてイメージが形成されるように思う。
 一方、「手」からすリ抜けたものというところから転じて「手」=主体から物理的、論理的、概念的などの点において離れてしまった状態を指して、本質、本体、大多数、設定したあるべき姿とは異なる劣る事象、もしくはそれをもたらす事象、適切に主体がマネジメントできない状態として「失」=間違い、と用いられるようになったのだが、こういう用いられ方になってくると、すでに表現する対象、もしくは表現したい対象は主体側ではなく、いわばそれに反する側を中心に表現することになる。
 たとえば、今回の失言や失政、失策、失態などは、主体が何で、何と比較して、何を基準、よりどころとして間違っていて、あるべき姿は何なのかには基本的に焦点が向いておらず、ましてや、間違えている対象が主体との乖離を埋めるために分析的に間違えている対象を評価するところにまで踏み込むことさえないといえる。
 翻って、「失」のイメージが自身の「手」からすリ抜けたものという元の意味に近いイメージを維持している状態で適用した場合、何をなくして、それが自身にとってどのようなものだったのかという思考への内在的エネルギーは大きいと思われ、その乖離から考えれば、「失言」という「失」であって「失」でないもどかしさを伴う、ある意味矛盾的な認知に至るのではないのだろうか、と思ったりした。
 増田の示す事例でいうと、個人的には「本音」かどうかは頭を割って手ごねして確認できないため分からないが、社会的規範であるとか、当事者の立場、当人に課せられた使命を勘案して「間違えている」とされるべき、とすることができる案件であろうし、当事者の立場上、その使命とその遂行を自ら積極的に阻害する影響度からすれば、ぐだぐだ言い訳するぐらいならぶんぶんうるさいだけからだまってろクソムシが、とは思うが、直接声をお掛けできる立場にないのでどうもこうもない。
 とはいえ、コメにもあるように、あらゆる「間違った発言」を指して「本音」と置換できるか、もしくは置換した方が有益であるかという点については、例外はあるだろうし、メリットデメリットを勘案することがまだ可能なレベルの事項などにおいて、一意的に適用することが最大利益を得るものであるとも経験則的ではあるが思えないので、なかなか難しいところではあろうと思う。
 ただ、そのレベルいかんを問わず、「間違っている」とされたなら、「間違ってた、ゴメン」というのか「何と言おうが俺は考え方を曲げん!そしてこの世の方を変える」というかぐらいである方が潔い気はするし、実質的にビジネスの上などでは、「間違っている」という定義が網羅的かつ決定的でもないので、じゃあ、どこで折り合いをつけようかとかいう話にもなるのだが、作成された謝罪文は読まされてやってもいいとか、反省文として規定字数ぐらいなら埋めてやってもいいとかいうのは、表面的な代償として満たしはするが、もとの問題行為そのものを原因からどうにかするところには一切踏み込まないのも、信頼という点で「言」の機能を「失」っているのではないかと思う。



 で、書きたかった本論なのだが。
 『おまえらも学会で研究成果発表してるときに/いきなり「おちんちん! うんこ!」て言わないだろ?』で噴いた。
 というか、Fラン卒だからなのかもしれないが、マジでそれをやるか、って話が出てたことがあったので。
 で、それを言い出したのが、研究室内でもっとも真面目なヤツだったので、いやいや、ヤツなら本気でやるかもしれん、発表の時、教授おらんし、とか思って私は内心かなりびびっていた(誰も真剣に止めないあたりもアレだとは思う)のだが、実際は普通に発表を終わらせやがった、ってことがあった。
 とりあえず、『意図しなければ出てこない発言』もあれば「意図してても出さない発言」というのもあるってことだろうと思う。
 ヤツは、私の同期の中では、唯一県本庁にコネも何もなしで入った優秀さ(かなり嫉妬)なので、そういったコントロールが適切にできるのが当然なのかも知れないとか思っていたが、最近はなんとなくそうでもなくなってきたのかなぁ、とか思ったりもする。
 コメにもあるように、何も考えずに「おちんちん! うんこ!」と叫ぶ特質であるならそれはそれで構わないのだが、それならそれで適切な時に言え、と、そしてそうでない時は自分のこぶしを口の中にいれておけ、といいたかったりするが、これもこれで(ry。

 余談だが、その翌年に同じようなこと(このときは論文にある用語の読み方でイントネーションを替えると猥語になる)を実際にやっちゃったヤツがいたのだが、発表後すぐ発表会場の教室から教授に連れ出されててたけど。
 他人ごとながら懐かしい思い出。