婚約と熱意

 「「熱意ある社員」6%のみ 日本132位、米ギャラップ調査 (5/26 日本経済新聞)」とのことで、Twitter掲示板などでもそこそこ話題になっているらしい。
 で、記事の中にもあるように、『従業員のエンゲージメント(仕事への熱意度)調査』というエンゲージメントを日本語化した際の謎表現はいつもながらどうにもならない気がするのだが、結局それで通ってしまうこと自体が順位が低迷している要因という意味で遠縁ではないのかもしれないなぁ、とか感じる。
 で、当のギャラップのレポートはアメリカ本体のHPにある(んじゃないかな、英語ダメだし)はずだが、そもそも英語のレポートを共通一次で半分取れないレベルな英語力のそれもしろうとが取得するのもおこがましいし、多分、ちゃんとした人が分析してくれるんだろうと思うので、そういったところはそちらに譲る。
 ちなみにもっと古い同様のレポートを見ると、2013年時点でengagedの属性を持つのは日本では7%で、日本以下なのは、アゼルバイジャン(5%)、中国(6%)、クロアチア(3%)、イラン(7%)、イラク(6%)、イスラエル(5%)、シリア(0%)、チュニジア(5%)、トルコ(7%)(順不同、()内はengagedの属性の比率)ぐらいで、それぞれの国の国内情勢、経済状態、ニュースレベルで知る表面的な労働環境などを鑑みれば、日本がいかに取り残されているとか先行するとかいうレベルではない異次元をさまよっているのが分かる気がする。
 一応、行為そのものを表面的に捉えた行動特性という意味で、『熱意ある』という考え方と仮にしたとして、多くの場合、同様な行動特性を生み出す(多くの場合は、生み出させる)「気合い」とか「根性」があるとか文字どおりの意味としての「滅私奉公」を含むものとして、世界的な行動様式のそれと比較した時に、なおも突出したGDPを維持し続けているとすれば、別に世界標準に準拠する必要もないんじゃないの?という気もしなくはない。
 というか、それぐらい「乖離」と表現できるレベルの差異にはないことを考えると単純な話ではないように思うからだ。

 で、どうするか、というのは、個人がどうこうできる話でもなんでもないので放置するとして、過去にも触れたことのある「エンゲージメント」って何ですのん、という話を考えてみる。
 ちなみに、さっきグーグルさんに機械翻訳をさせていたら、「engaged」を「婚約」と翻訳してくれたわけだが、「engage」という単語に多くの意味が持たせられている関係上、なかなか適切な訳を割り振るのは難しいということだと思う。(当然、婚約と訳して問題ない文も多いわけだが)
 で、「engage」に意味が多いのは表現力が乏しいがゆえにそうなっている、というわけでは当然なく、「en」と「gage」が示す形態から限定的な意味を示すように派生したからに過ぎない、と思う。
 基本的に「en」はAとBの間、といった2つの対象が存在することを示し、「gage」は古語から一方、もしくは双方が近づくこと、転じて近づいて何らかの行為や物質だけにとどまらない交換等が行われること、そしてそれが正しく実現される条件も含めた活動を総じて指すようである。
 結局、婚約するとか、ギアがかみ合うとか、雇用するとか、交戦するとかも要は対象が2つあって双方が何かをやってるんだが、そこにはそれなりの法則とか約束とかがあって成り立っている、という意味で包含するという話、といえるが、まぁ、英語を日本語に訳して理解するのとは程遠いので意味はない。
 ただ、労働者にとって「雇用」という概念を「会社」と「私」という並列の対象として双方を認知するのは、自身の身の回りだけの感覚ではあるが、少ないと思うし、どちらかといえば、「私」が○○されている、もしくは○○しているという視点の違いがあるため、いわゆるAとBとの間における様々な活動を適切に維持するために必要な何かとはどんなものか?という点に目を向けることもあまりないのではなかろうかと思う。
 そういった状況に関して、昨今の欧米で用いられるような雇用関係に伴う様々な活動や事象をひっくるめた意味を持たせた「エンゲージメント」ということばは、日本人には先述のとおり表面的な経営者や労働者の行動特性や性向でその違いを認知できたとしても、「労働とはなにか?」とか「何がどうなっているのが労働なのか?」といった部分に関する感度が低くならざるを得ないところから立脚するのかどうかによって違いをどうこうする方法と結果は違ってくるように感じる。
 私は、「エンゲージメント」のことを、労働契約に基づく双方のきめごととそれに伴う各種活動と、その影響として目に見えない領域(例えばESとか教育とか意欲とか)も含めた関係性のこと、というような説明をつけることが多いが、基本的に双方向の話でかつ単体でのみ機能しているのではないということが言いたかったりする。
 今回のアンケートのようにその中の労働者側の話で記事にある用語を流用するならば、「熱意」という性向に限って指標化したものを調査したと認識するのか、これだけで単独で独立して機能していると考える(気合いがあればなんとかなるという考え方にも通じる形式)のか、という部分で大きく結論が変わってくるのではないかと思う。
 各所での書き込みを拾い読みしていると、その多くは、なぜ、自身、そして自身を含めた労働者が記事でいう「熱意」がないのか、というところの原因探しから入っているのだが、インタビューされたギャラップCEOが『無気力な社員の半数は自分に合っていない仕事に就いている。合った仕事に変えるだけで無気力な社員を半分に減らせる』という、それはそれで今更やりようもないレベルの困難な手法ではあるのだが、それが仮にできたとして、労働者にとってその手法が本当に「熱意」を持てるようになるの?持てないのならなぜそう思うの?「熱意」がある国のプロの分析集団がその手法を示すのはなぜなんだろう?という部分を自身で考えて答えを出していかない限り、単純な海外で用いられている手法の当てはめでは現状をさらにこじらせるような気がしてならない。
 個人的には、『日本ではなぜこれほど「熱意あふれる社員」の割合が低いのですか。』という問いに対して『日本は1960〜80年代に非常によい経営をしていた。コマンド&コントロール(指令と管理)という手法で他の国もこれを模倣していた。問題は(1980〜2000年ごろに生まれた)ミレニアル世代が求めていることが全く違うことだ。ミレニアル世代は自分の成長に非常に重きを置いている』と先のCEOは答えているのだが、そういった労働者の性向の変化に対して企業側が高度な悪適応を行ってきただけな状況が今なんじゃないんだろうか、という気がする。
 それがいいか悪いかは考えたくもないけど。

 なんだろね。
 明らかに1位を狙うより最下位を狙うのが楽そうな順位であるところからすると、他国に先駆けて「熱意」がからっきしなくてもそれっぽい経済状況になる国家運営がなされていると外部に示し続ければ、それはそれで将来的に日本は数十年先を行っていた、真似しなければ、という形になっていくのかもしれない。
 多くの見立てはその逆なわけだけれども。