身分証

 増田ネタ。
 「免許取得おすすめ派の言い分の疑問点」ということで、普通自動車免許取得に関して

 (1) 身分証になる
 (2) 車が必要ないというのは嘘
 (3) 国家資格である

について増田は疑問、かな、的なものを記述している。
 個人的には、何らかの形で皆資格保有が規定されてない以上、自由意志に従うものであって、おすすめ派とそうでない派のお互いの内容はどうでもいいというか何ら強制力を持つものでもない気はするので、どう考えてもいいんじゃないかと思う立場ではある。
 で、あるにも関わらず書き始めたのは後述。

 まず、(1)だが、個人的に原付でいいと思う。
 狭間はできてしまうのだが、基本的に身分証としての扱いとして学生証から別の身分証への切り替わりといった点で年齢的に符合するような構造になっているわけだし。
 一応、身分証として所持・携帯することが目的であるとするなら、原付よりもそれ自体でネタにできる小特でもいいわけだが。
 中にはマジ顔で普通免じゃないと身分証にならないなどというモータリゼーションの波をかぶって溺死し、ゾンビとなってそれ以降のライフスタイルの多様化を認められなくなった者などからすれば難しいかもしれないのだが、まぁ、それはそれかと。
 残念ながら論理性のみで自らにおける社会性を構成し尽くすことはほとんどの場合無理なので、ある程度の矛盾は致し方ないかなぁ、とか。

 (2)。
 意図的なのかどうかは分からないが、今のところ公的な機関によるペーパードライバーの定義とその構成比率といった実態調査が行われたという話を聞かない。
 これに疑念を持ったうえで、自身に都合のよい考え方をしてしまえば、暗示的に学生証以降の身分証として機能させる、もしくは機能してしまうことを黙認、もしくは推奨しているかのように感じなくもない。
 また、資格証のなかでも定期的更新と常時携行の動機付けが強いことに関して法的に規定され、またそれを維持するシステム、インフラが整備されていることから、身分証としての扱いはあくまで資格のユーザ側の意志によるものであって、そういった別の意図を示唆する可能性のある調査をしない、もしくはする必要性も存在しないという考え方でないと体面が保てないのでは、という気もする。
 逆に言えば、車が必要ないというのが嘘というわけでも何でもなくて(本気ですべからく全ての人類が車を自らが運転する必要があると信じて疑わない者は別だとは思うが)、「車」という意味が自動車を自らが運転することを指すのか、「車」に関連する社会インフラに対する知識、最低限身に付けておくべき事項、技能を得るためのプロセスの1つだとする考え方をとる者も少なからずいるところからして、より大きな意味として扱われているようには感じる。
 ただ、普通免を持っていても運転内容がDQNそのものであったり、交通法規を忘れたか、分かってやっているか、悪用しているか分からないような者も多いこと、およびそういった観点から適切なフィードバックに伴う(フィードバックがないとは言ってない)免許の更新が行われていないところからすると、また、先述の疑念はわくのだが、そういうのはいっても仕方がないのでやめる。
 とりあえず、全否定のみをよしとする意見に対して全否定で返すとそれ以降無限ループに陥るだけというのが多いので多元化させてみた。

 (3)。
 『だからどうした!』という返答が、増田が認知するところの疑問点を的確に指摘しているものかどうか私には理解できなかった。
 「ぼくドラえもん」だといいたいわけでもないように思えるし。(ただ、増田がドラえもんだとすれば、身分証は必要ないかもなので、そもそもの前提が覆るわけだが。)
 返答がただの反論であるとして、「だからどうした!」という感情が生成される原因を勝手に推測するとすると、その1つとして自らの立場や環境などから勘案して国家からお墨付きを得た何か(資格、許可、認可など)を明示的に証明することが可能なものを携行し、現に証明を行う必要性を感じていないというものが仮説として存在し得ると思われる。
 その立場や環境を例示すると差し障りがある(何に差し障りがあるかは書かない、以下同じ)し、逆にその正反対に位置する立場や環境も同様ではある。
 おおくくりの話として、自らが生まれ持った生得権ではない部分、ここでいえば、資格というものによって自らに拡張される権利が他の要因によって同等の実現性を持つ、もしくは必要な機能を満たすならば、その効率から要不要の認知は変わってくると思われる。
 「権利」と書くと思想的なもののように感じる可能性もあるので、置き換えるとすれば、「できること」「実行可能なこと」ぐらいでいいかと思う。
 で、とりあえず、「できること」とその背景を認知せず行使している者の多くは、「できなくされていること」によって「できないこと」という逆の性状を示す事象に対し無邪気に無頓着であることがある、というところから導いてみた。



 個人的に、普通自動車免許を取得したのは、片田舎のFラン大学に入学したのち、遊ぶのに自動車でないと某漫画の鉄人レベルでないとたどり着けないところが多かったのでってのが理由だったりした。
 そういう意味で、取得時に身分証を欲していたわけではなかったように思う。
 社会人になってもその扱いは同様で、自動車以外の代替交通手段が整備されている地域にいたころは、更新を忘れてめでたく免許を失効してしまったことがある。
 おかげで、自動車学校に2回行くことになってしまった。
 で、2回目の入校というのは結構教官にビビリを入れてしまうようで、複数人から「何やったん?」と聞かれたものである。
 初めはどういう意味か分からなかったのだが、要は免取を食らって再取得というのが一般的だから、というわけで、意味としては「どんな違反、もしくは犯罪を犯して免許取消になったのか?」ということのようだった。
 で、更新忘れだということを告げると、教官の顔の強張りがすっと消えるのを感じたものである。
 ちなみに、そのときほぼ同時に入校した初老のおっちゃんは後ろに乗っていてもむちゃくちゃ運転が上手で丁寧なのですごいなぁ、と思っていたら、飲酒運転で免取2回(要は入校3回目)だとこっそり教えてもらった。
 何というか、教官もそういった意味で命がけなんだろうと思った。
 そんなことがありながらも、個人的に、これまでもう飽きるぐらい車を運転してきた(よくある1日の1/3を車内で過ごしているようなパターンである)が、特に運転の趣味があるわけでもないので、実質1年ちょいぐらいしか自家用車を運転していた時期がない。
 ライフスタイルという観点から自らが自動車を運転することを捉えたとすれば、多分増田と同様にほとんど必要としない、もしくは必要としないようなライフスタイルを設計できそうなポジショニングを行えるように最適化していたようには思う。
 その傾向がゆえに失効してしまったわけではあるが。
 いずれにせよ、影響因子が多すぎてひとそれぞれという形にならざるを得ないんじゃないのかなぁ、という気がする。

 あと、マイナンバーカード。
 2000円札みたいな扱いになってほしくないなぁとは思うんだけど。
 継続性といった意味で確たる理由はないんだけども何となく不安ではあるさね。。。
 単に感覚的なものなんだけども。