革命

 一部で閣僚の名称が話題になっているらしい。
 Tweetとかを見ていると英語にどう訳すんだ、などと心配する者(多くはどちらかといえばそれにかこつけて無能さに言及したい者っぽくはあるが)もいるようだが、単純な話、官邸から正式に英訳版が出るのを分かって言っているとすれば、結構ミスリードがひどいかなぁ、とか思ったりはする。
 で、官邸のページを見ると、現在は仮訳だそうだが「Minister for Human Resources Development」となっている。
 そこには革命のかの字も存在しない。
 そして一部の関係者なら知っているかもだが、HRDまんまである。
 これをHRDの日本語訳として再変換すると人的資源開発(簡単に人材開発と訳していることもあるようには思う)なので、実態は人材開発担当というようなことをすると考えていいのかもしれない。
 逆に訳者が「Human Resources Development」を独自の造語であると認識し、勝手に意味を振っているとすれば、それはそれで英語圏に対していらぬ誤解を与えかねないので先述のとおりの結果だけ捉えた上で私よりかは少なからず「無能」なのかもしれないのだが、さすがにFラン卒にそれを言われてしまうと当該官僚もかわいそう過ぎる気もするのでそれはないと思われる。
 で、もう少しくだらないことをいうと、「Human Resources Development」は今でこそ人のライフサイクル全体にわたる行為を指す人材育成に関係する活動の総体のようなイメージになっている気はするが、昔は国内においては職業能力開発(略して職能開発)とか職業訓練といった結構限定されたイメージとして扱われていたように思う。
 そういった意味では、ことばの意味の変遷より過去の前例から流れ的に「Human Resources Development」としてしまうと厚生労働省管轄なんじゃないの?とか想像してしまって、ググってみたら、インドの旧教育省がヒットしてしまった。
 教育と人材などという範疇は、お互い激しく錯綜していると考えるのが一般的になりつつあるので、詳しく追うのは面倒なのでやめにする。(個人的にはここが本質な気はするが)
 ぶっちゃけ、なんらかの法制化されるなど形式にのってくるとどこ寄りなのかは見えてくる気はするので、別に今知る必要もないというか。
 英文の内閣改造の記事を検索していると、国内のマスコミの英語記事は「れぼりゅーしょん!」を使いたがっている雰囲気は見て取れるが、れぼりゅーしょんじゃダメだろうと持論を展開しつつ、自ら意訳をあてずに誤訳で表現することで、相手が混乱することを危惧する割にはそれを自ら実践するあたりがなかなかおもしろいなぁ、とか思ったりはした。
 別のTweetで、政治用語として「革命」とか「維新」とか使うのは適切性を欠く、としている者もいた。
 個人的には「維新」は党名なので、結党精神としてそのイメージにあやかりたいという意味だと解釈できるのでいいとは思うのだが、無任所大臣であるため「革命」と称して所管の行政事務を管理するものではないとしても、ことばの意味に存在する「かなり短期間」「別の体質からの完全な変更」といったものが気持ちとか精神といった方向性やイメージを指すのではなく、結果に対して評価する指標の1つとなってしまうことを考慮する必要に迫られると考えられる。
 とはいえ、強権を発動させ一気呵成に実行することが非常に困難な法治、政治、行政体制のなかでは実現性が低いわけだが、それにもかかわらずそのことばを用いることが根本的にことばにある意味を当初から汲む気がないんじゃないのか?もしくはダメだっても別にいいじゃん?と軽い気持ちでいるのではないか?という印象を与えてしまっても不思議ではないように感じた。
 そういった意味では、不謹慎さがどうのという話というよりかは、行政という観点から名が体を表さない可能性の高い用い方は適切ではない、と考えてもいいのでは、というように思う。
 さらに進めて、ことばどおりに解して適切に評価され得ないことをなぜやるのか、ということを考えると、いわゆる広告系の目立たせるためにキャッチコピーをぶら下げるのと同様に意図的に目が行きやすいようにした、ということもなくはないかなぁ、と思う。
 で、なぜそういった行為をする必要があるのかというと、政治的理由で何らかのミスディレクションを行わざるを得ないとかあるのかなぁ、とか疑えばきりがないのだけれども。
 名称が派手だったという意味で思い出したのは、相当昔の話だが、松戸市の「すぐやる課」だった。
 「すぐやる課」という部署の創設は、大手薬店のマツモトキヨシの創業者が市長のときだということもあって、民間企業のオペレーションに関する精神がそこには込められているのだろうなと当時思ったものである。
 それ以降、名前の特殊さ、役所というガチガチな堅さではなく市民により一歩近づいたようなやわらかいイメージもあいまって他の自治体に広がったものである。
 とはいえ、その後ほとんどの自治体はそれらの部署を廃止するに至っている。
 これは、民間企業に属する多くの者が分かることではあるが、派手だからといって真似ても他者も真似てくれば均質化し特異性などのポジティブな効果、感情を相手に与えられなくなること、派手さから相手が設定する期待度を無駄に上げてしまい実際の評価において相対的に満足度が下がること、などのデメリットを踏まえた上で、自ら(ここでいえば課という部署)の存在意義を常に問いただして相手(ここでは市民)にアプローチしていく必要性について適切にマネジメントできているかどうかというところが大きな違いだったのではないかと思う。
 結局のところ、今回の件がミスディレクションのためだったのかどうかは分かりようもないが、単にネタを提供するためだけだったのであれば、「かなり短期間」「別の体質からの完全な変更」に沿うような評価が可能になる目途があれば別としても、後にデメリットしか残らないんじゃないかとか思えてしまった。
 まぁ、解散しちゃえば、評価もへったくれもないのかもしれないけども。