みんなおおかみ

 増田ネタ。
 「オオカミ少年は何と叫べばよかったのか」という話で、すでにコメで『絶対的正解が無さそうに見える面白い命題』だということで答えが出ている気はする。
 私の場合、いつものリスクマネジメントの領域から考えると、羊飼いの少年が何度かニセ情報を流すことによって村内における各個のリスク認知はかなり乖離した状態にあると見ていいのではないかと思われる。
 本質的にリスク認知というのは各個でばらばらなのは当然と考えていいのだが、社会性を持った集団としてリスクに立ち向かうためには何らかの形でリスク認知のすり合わせが必要となる。
 これはリスクコミュニケーションを必要とする初歩的な概念の1つなのだが、この寓話における本来あるべき危機対応がなされなかった結果から考えると、集団的危機対応が機能しない状況にあるシステム上で一介の個による一言二言レベルでリスクコミュニケーションが適切に行われてしまい、正常に機能する状態に回復すると考えるのは現実的ではない。
 とはいえ、「現実的ではない」といわざるを得ないのは、リスクコミュニケーションが一言二言レベルの積み重ねなどによって構成される関係上、否定されるものではなく『無さそうに見える』ということになるとしかいいようがなかったりするわけだが。

 さて。
 おおかみと少年の話というのは、私のガキの頃は「うそつきはおおかみに殺される。めでたしめでたし。」という話だったと思う。
 とはいえ、動物(ここでいえば図鑑的知識としてのオオカミ)の生態や畜産事業の仕事(よくあるオーストラリアやアメリカの放牧をしている農場の仕事の紹介番組みたいなやつ)を知ると、登場人物(動物も含む)の行動の必然性、優位性といった点から破綻している箇所が見えてきてしまう。
 当時(小学生のころ)は話に逐一難癖をつけていくという、いわゆる中二病の一種な感じだったクソガキだったので、かなりあったようにも思うが、
 ・少年が食い殺される結果が当然であるとすれば、羊ではなく人を襲うためにオオカミはやってくるし、また村もそれに対応していたということか?
 ・見張りの者がうそつきかどうかとか適性がどうのというよりも助けがこなければオオカミに食われるという人命に関わるリスクをはらんでいるプロセスを含むことは、危機管理システムとして非人道的すぎないか?
という点だったように思う。(小学生だったので小難しい用語は用いてなかったろうとは思うが、翻訳するとこんな感じかと)
 で、後者は歴史という観点が当時は抜け落ちていたのでおいおい特に不整合でもなかったと理解する(もっとひどい手段が用いられていたことも含め)わけだが、前者は絵本ではなく原典に近い領域に近づくだけで納得できる答えを見つけることができた。
 それは、当時絵本などで最後におおかみに食われるのは少年なのだが、古めの活字本では羊になっていて少年がどうこうなったということに触れられていないことである。
 Wikiを見ると同じようなことが触れられているので詳しくはそちらを参照してもらうとして、とにかく前者については、おおかみは村の羊を狙ってやってくるし、見張りは「村の羊を狙ってやってくる」おおかみを見張っているし、おおかみが出たと合図をすることで村人がやってくるのは原則「村の羊」を守るためであるという整合性がとれるように思われる。
 ただし、これでいくと、Wikiって便利だと思うのは余談だが『人は嘘をつき続けると、たまに本当のことを言っても信じてもらえなくなる。常日頃から正直に生活することで、必要な時に他人から信頼と助けを得ることが出来るという教訓』が一般的な解釈(Wiki参照)とすると、少年はどうでもいいとして、村人の羊が食われてしまったことから得られる村人にとっての教訓はあるのか?もしくはあるべきなのか?という新たな疑問がわくのである。
 当時の私としては、こういった表面的に費用便益として破綻している事象を放置することの気持ち悪さ(イソップには往々にしてそういう毒気があるのは事実だし)と真理だとして嘘つきは罰せられなければならないという点をより強調するためにストーリーをねじ曲げた結果なんじゃなかろうか(こういう邪推はWikiには載ってない)とか考えたものである。
 では、先の村人にとっての教訓というのは何が考えられるのか?ということを考えてみるのだが、いろいろ紆余曲折を経て行き着いたのは、あらかじめ設定され、確立されていると信じられていたアラートとその後の危機対応というシステムが嘘つきの少年の気まぐれで軽率で何気ない行動によってたやすく瓦解した、という風刺、もしくはそのシステムの脆弱性をシステムの盲信などによって軽視するがためにシステムが機能せずに結果自らが損失を被る、といったところだった。
 今風に単純化すると、少年という存在は、当該システムに対するソーシャルハッカーで少年の嘘をつくといった一連の行動はソーシャルエンジニアリングの一種だと考えていいように思う。(当時はそんな便利なことばはなかったし)
 余談だが、高校の頃、少年はなぜあれだけ嘘をついていながら最後(最期?)まで見張りを続けているのか?という課題に対してネタ出しをやったことある。
 コメにも指摘されているとおり、先述のこの寓話における整合性が取れていない部分に該当するはずではあるのだが、説明が面倒なので外してしまったところの領域である。
 これは、先のソーシャルハッカーとして少年がシステム内で機能し続けるしかけとしての必要性があるためのお膳立てという考え方ができるために割愛できると思われる。
 とはいえ、その理由付けが一切なされていないのはおかしい、という考えもなくはないのだが、それが最終的な本旨とはかかわりがない、もしくは無駄に複雑化して本旨をかすませることのないようにする配慮ともいえるため、そういう意味でも一応省いてもいいかと。(先述の箇所の歯切れの悪さがよりひどいのもそのため)
 で、その末に出てきたのが、少年は村長の最愛の妾の子でその立場が保障されていて、最後におおかみが出たと少年が叫んだ時も、実際はおおかみなどいはしなかったが、誰も助けがこないと踏んで常々恨みが鬱積していた本妻がくびり殺した(いやいやオオカミが首を締められないだろってのはいわゆるボケらしい)ことのカムフラージュからの虚言が定着したものである、などとしてしまったのだが、まぁ、さすがに当時はバカであった。
 ただ、冗談はさておくとして、嘘つき少年がソーシャルハッカーとしての行為を続けることが可能な状態を作り出す原因というのもシステム論的にいえば、当該危機対応システムの過信によるモラルハザードだと捉えることもできるし、先の作り話をあえて分析するなら行き過ぎた縁故主義の弊害と捉えることも可能かもしれないが、そこは膨らませる部分ではない、ということなのだろうと思われる。

 コメにも防災情報に関して「なんやて!!→なんやて!→またか。」という具体的な危機管理システム上におけるリスク認知の変化(この場合は低下傾向)について指摘しているが、これも図式としてリスク認知を変化させる要因が少年の行動か回数を重ねて慣れが出てしまった状況かという違いというだけである。
 こういった通常ではない状態にのみ稼動するようなシステムが必要なときに有効に機能するかどうかは様々な要因や条件によって変化することは体験的に理解している者は多いように思う。
 とはいえ、そういったシステムの多くは単独の個を対象にするものより複数の個、集団、組織といったものを対象とするため、全体を把握するという意味では、先述のとおりリスクコミュニケーションという概念を持ち込む必要がある。
 で、これまた多くはリスクコミュニケーションを積極的な行為(システムを維持する者による広報であるとか啓蒙、教育など)をメインとして解説していたりするのだが、実態としては、そのシステムに該当する各個の普段の生活、懐事情、精神状態などが関与する社会活動によって相互に影響し合った結果、消極的、間接的にリスクコミュニケーションが行われていると考えていいように思える。
 とっさにあまりいい例を思いつかないが、例えば、先の「なんやて!」と「またか。」の間に、自身は経験しないものの大きな災害が近隣で発生した凄惨な映像を見ることで「なんやて!→なんやて!」といった形に状態を維持した場合、リスクコミュニケーションが行われた結果だと考えていい、みたいなものかと思われる。
 結局のところ、リスク認知というのはON/OFFで表現するものでもなく、さらにいえば、そのパラメータさえ複数設定する必要があると考えていいわけで、それが相互に影響し合っているとすれば、システムを対象とする集団、およびその個のそれは時間軸方向に常に流動的であると考えていいはずである。
 これまた先述の不整合で書かなかった事項として、なぜ村人は少年の嘘に対して完全に一致した判断を行うのか?というのがあるのだが、リスク認知の流動性やその過渡期に起こりうる現象を細かく描写したところで、先と同様に本旨をかすませるに過ぎないという判断があるのではないかということで含めていなかったりする。
 およそ時間方向に連続して遷移する事象に対して話を単純化するには、表現したい現象が顕著な時間断面を定性的に捉えて比較した方が理解しやすい、というのもあるのではないかと思われる。
 では、遷移自体を考える必要がないかというと私はそうではないと思っている。
 それは、現象を正しく表現するためという話ではなく、遷移自体がリスクコミュニケーションにのみ影響されるわけではないが、ことリスクコミュニケーションを考えた場合、他に与えてしまった影響がリスク認知を適切なものから外れる(低下だけが悪という訳でもないので)ものであったならば、それはその大小は違えども少年の一連の行動という要因と同様の役目を果たしているということが抜け落ちてしまうことにある。
 実のところ、これは結構こじつけだったりするのであらゆる場面で適用できるわけではないが、自身のリスク認知以外の各リスク認知(他者、システムの対象となる集団、システム管理者など)の当事者意識を考慮する上では重要な要素であると思っているので、あえて提示してたりしたものである。
 私が中学生のときに通っていた学校は底辺校だったので避難訓練というような短時間での定型な集団行動を極端に苦手としていたわけだが、この現状と決められた行動をしない者たちをさして避難訓練後に教師が生徒の私にぼやいてきたので、「おおかみと少年」ですよね、と返すと、お前も避難訓練の大事さが何もわかってない!!と烈火の如く叱られたのを思い出す。
 まぁ、明らかなこちらのことば足らずなのだが、教師は「避難訓練はうその行動」「寓話のうそつき少年はクソクズ野郎」→「避難訓練を生徒にさせている教師はクソクズ」と理解したようである。
 当時の私が言いたかったのは、避難訓練で適切な避難ができないということは実際の危機対応に際して同様に避難できずに命を落とす可能性があるという点に関し、リスク認知の低下が見られる者に対して危機管理システムを管理する立場にある教員がいかなる手段をとるべきなのか、というのが本質的な問題なのではないか?という話であった。
 まぁ、ひどい言い方をすれば、決められた避難訓練をつつがなくっぽい形でこなしていれば、あとは死のうが生きようが現場管理(監理ではない)としては問題なかったと胸を張れるという考え方もなくはないし、避難訓練という具体的な行動をしなくても自らの行動に自信があることがかっこいいという風潮も生徒になくはない(それは底辺ゆえかもしれないが)という前提条件からして、先の遷移状態の一断面に過ぎないわけで、何がたまごで云々ということにもなりかねないというところはあると思う。
 とはいえ、少なくとも避難訓練における行動によって管理者側が認知可能な各個のリスク認知のレベルに寄り添うことから始めなければ、有事の避難どころか避難訓練さえ全うすることができないんじゃないのだろうか(現にできていないから愚痴に出ている)という気はする。
 で、このときに苦笑せざるを得なかったのは、先の誤解に起因するところもあろうかと思うが、その教師の怒っていた説教内容は避難訓練至上主義とも呼べるもので、ある意味避難訓練か死ぬかという論調であった。
 本質的な目的は有事における適切な避難であって、それを確実にする手法の1つとして避難訓練が存在しているという認知が完全に管理者側から抜け落ちているところにあるといえる。
 これも手段の目的化の1つに含めてよいかとは思うが、悲しむべきはその手段が本来の目的を達成するために常に十分であるとはいえないところもある。
 また、マニュアルの弊害といった事例に見られるように、システムを適切に機能せしめるために逸脱する行為を規制する機能をマニュアルは持つが、逸脱する者が後を絶たないプロセスや作業、工程を指して「マニュアルを守れ!」と声をからすことの効率の悪さというのと同様なところもある。
 じゃあ、どうすりゃいいのさ、というのは現職の方々が各々考えることなので特に書こうとは思わないが、昨今の教育現場での事故における管理者としての危機意識が適切な認知の元に形作られていなかったのではないかと思える事案を見るにつけ、さらに悪い方に遷移しているように思ったりはする。
 避難訓練の当時の「うそつき少年」と同じシステムを機能不全におとしめる要因は「適切に避難訓練をしない生徒」だった。
 そして、私を叱った教師の内部には、誤解もあったとはいえ、「○○さえやっていればOK」というモラルハザードという別の「うそつき少年」因子の萌芽が見て取れた。
 そして危機を回避するべき責を担う教員の危機認知の極端な低下が事故を招いている事案からすれば、その教員が「うそつき少年」因子となってしまっていたりする。
 思い上がりも甚だしいが、当時の私が「うそつき少年」因子の萌芽を認知していながらそれを真っ向から正さなかったことによってリスク認知の低下の歯止めに寄与しなかったと責められるとすれば、私自身さらに別の「うそつき少年」因子であるといえる。



 それはそれとして。
 嘘つきが殺されることもなく、場合によっては際限なく嘘をつき続ける者が不器用な正直者よりもはるかに重用される実態を鑑みれば、嘘つきの少年に不利益がもたらされるというよりかは、嘘つき少年以外の村民(ここではその1人という個)のリソースが別の手立て(嘘つき少年に対して、ではない対象への何か)を打たなければ毀損するのを指をくわえて待つしかないという事実にどう向き合うかということが、昨今求められる教訓なのではないかという気もしてはいるが、ここなあたりをつつくと蛇みたいなものが発生するのでやめにする。