ディレクション、こわいっす

 増田ネタ。
 ディレクションができるかどうか、という話なのだが、タイトルにこわいと書いたけれども、ディレクションって非常に範囲が広い。
 同じ社内で同じ仕事をしていてもディレクションの認知が違っているレベル(まぁ、それは会社の格というものなのかもしれないが)なことも多かったし、さらにいえば、私が、それらを包含して、おしなべてそれなりにできるという人間ではなかったこともあってこわいというように思っているところもなくはない。
 それはともかく、個人的なイメージとしては、考察・分析を行い、計画し、実施し、評価することに加えて、それに対するリソース(例えばそれが何かのプロジェクトであればヒト、モノ、カネなど)の指示、指導、教育、評価、円滑に進めるための付加的な活動、危機対応、渉外などといったマネジメントの領域や責任などの関係からすれば法務、労務からコミットなどに至るまでが多分対象なのだと思われる。
 で、増田の追記した事例や『というか段取り』という置き換えをしているあたりから推測するに、すでに与えられたミッションに対する計画と遂行の部分が焦点であって、さらにいえば、ディレクションの領域がチームなどの複数の個を含むリソース群に対するものではなく、かなり個単体に近いものではなかろうかと思う。

 ディレクションという領域に関していえば、書店に行けばそれに対するノウハウ系や啓蒙系などの書籍がメートル単位で咲き乱れているわけで、逆に考えれば、その存在数からディレクションという領域での問題に対する解答というのは非常に多くあり、さらに営利目的から他を押しのけて棚を占め続けていることから具体的一個人における処方箋は既存の解答のほとんどに効果がないか、もしくはまだ提示されていない解答でなければ効果がないかもしれないという未だ万能な特効薬がない状態だともいえると思う。
 ちなみに、私の場合は、強制、フィードバック全拒否・全否定の環境下により、無思考、ダラダラ型で学生時代を送ってしまったので、先述のティレクションのほぼすべての要素において能力がマイナス側に振れていて、それに対応するためにほんの一部分だけどうにかすることに特化して用いた手法は、増田の提示するような『言語化していれば誰でも計画を立てられるし、やってみてダメだったらすぐに修正できる』といった方法と全ての能力を獲得するのははなから諦めていたので、細分化して各個を分析することで、何と何ができてそれ以外の何と何ができない、あとできないもののうち何と何が認知から抜けやすい(要はできるできないリストからさえ抜けているというもの)という方向性でできそうなところだけどうにかすることで相対的にはマシになったようには思う。
 ただ、それでも無能には変わりはないわけで、自らに適合する解答がその手法だったとは言いがたくはある。
 いずれにせよ、増田が話題とした高学歴の者であろうと私のような属性を持つ底辺系の者であろうと、さらには自らが自身の計画と遂行に関する問題を是としない状態であっても、必ずしも同一の手法で相対的に改善するわけでもその度合いが一致するわけではないだろうし、また、それぞれの属性に対して適合するかどうかの確率の差は思うほどないのではなかろうか、と思っていたりする。
 コメにもあるが、当該問題を既に問題となっていない状態、克服した、解決している者がその解決のためのエッセンスはこれだ!と思っていたとしても、残念ながら必ずしも他者にとってそれが同一の効果をもたらさないかもしれないし、また当該問題の深刻度によっても、例えば一般的な病気のステージ分類において効果的な薬の処方が変わるのと同じように、条件によっては適切な解決のための手法になりえないこともあるのかもしれない。

 個人における計画と遂行という部分に限定して、増田の「言語化」とか要素に分解するという方法で意味をなさなかった事例&コメになかった事例として経験があるのは、計画は立てるが当人の認知内外にかかわらず実行がリンクしないという点に関して、計画と遂行とを正しくリンクさせた状態で評価されてこなかったことだとか、外部環境などにより計画の作成は強制されるが実行は逐一強制されないために計画とリンクしない実行が容認され、またそれ自体が長年繰り返し訓練されることで自己の行動様式に固着しているというケースだろうか。
 幼少期のような思考プロセスや行動様式が劇的に置き換わってしまうような時期が何度も訪れるにもかかわらず破綻せずにそこそこどうにかなってしまう時期を抜けてしまうと、思った以上にそれを完全に塗り替えて二度と塗り替え前の下地が出ないようにしてしまうのは難しいらしい。(一応、自分のも時期的にいえばそうだが)
 さらにいえば、先述のとおり塗り替える手法が多数あって当該個人において要求を満たさない手法の方が多いとなると、その線の専門家とかでない限り、陳列されているノウハウ本の右から順番に総当たりで試すとかより他ないんじゃないのだろうかとか思ったりもする。
 さらにさらに、たとえ見つかったとしてもそれを確実にするための繰り返しの訓練などの時間を設定し消費する必要があろうかと思われる。
 私も歳が歳なので、どちらかといえば会社側の感覚になるわけだが、時間的に総当たりができてさらに効果が高いのは少なくとも社会に出るまでだろうし、そうではないことをしようとすれば社会への負担が大きいと思われ、有り体にいえば、その試行錯誤に割くリソースを会社が負担することに対してネガティブに振れざるを得ない。(自分を棚には上げているが)
 ただし、あくまで「試行錯誤すること」がそうなのであって「試行錯誤した結果と実情の適切な認知」に対しては適切にリソースを割くべきだとは思うので本件とはあまり関係がないが、ただし書きとする。
 ちなみに、個人的には、この事例の多くに対して、立場的にどうでもよかったこともあり、計画とリンクしない実行を逐一とがめることも直接的、即時的な意味で当人のマイナスになるだろうし、遂行に対する結果を計画とリンクして評価することも直接的、即時的な意味で当人にマイナスになるだろうから、全体結果がマイナスにならないような全体としての統治に対して大きくはみ出さなければそれでいいやとか考えていた。
 とかいいつつ、大学生のころはそういう者にぶち切れて、あげくこっちが悪者にされたりしたのは恥ずかしい思い出ではある。(まぁ、Fランにはよくあることだろうし、考え方によってはその程度の大学での課題にPDCAのようなプロセスや工程管理を導入しなければ結果が出せないのはださいと考えるのもありかとも思う)
 そういう意味では、うまくいった実例を示すことはできないが、適材適所でどうにかなるならば、自己改革を行うよりかは業務上からすればリスクが少ないといえるかもしれない。
 ただ、これでは当人の計画と遂行に関する問題がマクロ的に受容されただけであって、ミクロ的に一切解決はしていないわけだが。
 あと、試行錯誤のネガティブ感と適材適所について言及したが、これをセットにすると、どちらかといえば「適材適所」ということばを拡大解釈するような向きがあるように思える。
 端的にいえば、オンリーワンであることは誰しもそうなのは確かでそれに価値は存在するのだが、とある求められた課題、目的に対して寄与しない価値であるならば、それは狭義の無価値であるということである。
 要は、「所」に無制限の寛容さが存在するわけではないということであって、それは制約条件という厳然たる事実として存在するということである。(余談だが、「材」側も同じく制約条件があるのだが、会社側の話になるので今回はほぼ無関係)
 また、この制約条件は世情とともにうつろうものだが、個人的には昨今の傾向が時間軸方向に鋭敏に反応するようになった(もしくはした)関係で、リスクの低減といった観点から「所」(これは役割とか部署といったものだけではなくプロジェクトやチームなどといった組織体という概念やミッションや行動原理など多岐に渡る諸属性群にも適用される)がより細分化され、その領域における適性値の範囲を狭めてしまっているように思える。
 老害の昔話としては手垢がつきすぎてほとんどが手垢になっている話だとは思うが、昔は営業部門にいつもは営業成績が地を這っているのに年1かそこらでたまにとんでもない大型案件をつかまえてくるような者がいた、なんていう極端な伝説的事例もその時代における評価の時間レンジが広く内外ともに弾力的対応が可能だったことから説明することも可能である。
 こういった属性に関して本質的に自身の計画と遂行に関する問題が他と同様になる必然性の有無を考察するべきかどうかはともかく、論理的な帰結として、評価における時間のスライス幅を狭くすればどこかの時点で当該人物において個人の内的問題が外的問題として顕在化するというだけのことであると思われる。
 これも、当人の自己改革が伴わない手法ではあるが、社会人において業務上試行錯誤という時間を必要とする行為が容認されないという制約条件が存在することを考慮して、時間スライス幅が広い「所」もしくは権限があれば「所」の時間スライスを広げることで業務として整流化する可能性もなくはない。
 とはいえ、この場合、自身の計画と遂行に関する問題(この場合特異性と認識してもよい)によって最終結果が常に評価に値しないなどという場合には適用できないわけだが。
 まぁ、ぶっちゃけ、私程度が雇われていたいくつかの会社の中だと、当該ケースに落とし込んだ場合、個の認知が行動の言語化とその逆変換、行動の時間的概念の付加が適切に行えない、よって関連性を図化、図から関連性を理解できないというのがデフォルトだったりするなかで業務がそれっぽく回っていたりするので、それ以前の問題だったりしたのだが、これも今回とは無関係かと。(これを解決する際の知見に今回の件に関する示唆を認めることができる可能さえ否定できるものではないかも知れないが)

 一方で、高学歴と一般に呼ばれるような、例えば進学校を出て有名大学を出たとかいうある意味半生部分の権威を示すようなキャリアパス上にいた者(「半生」以降どうなったかは問わない)においての自身の計画と遂行に関する問題に関して、増田のいう「言語化」で単純に解決しなさそうだったのは、経験上3つほど。
 まず、そもそも計画もしなければ実行も大雑把にやってどうにかなってきたとうそぶくが、実は学歴というキャリアパスに特化した能力がそれっぽくあっただけであって、潤沢ではなかったためにキャリアパスはそこそこに過ぎず、また半生以降の社会生活を送る上で、自らが持ち合わせる能力以外(もしくは以上のもの)が多く求められる領域にしかいられないがゆえに問題がより顕在化し、その多くは複雑化したというもの。
 これは、、、、、(逡巡)、パス。
 まぁ、ある意味トラウマなので。
 私は対処できないし、手立てもない。(というかしたくない)
 次。
 計画と行動の関係を理解し遂行できるが、その理解機構が謎構造をしているというもの。
 増田の『たぶん脈絡もない思いつきですぐ行動したり思考したりする癖』と追記に対して『その失敗したゴールや戦略が君からみたら、思いつきに見えてる』というコメに符合するような場合での1パターンともいえるかもしれない。
 一応、ここでの計画と実行の問題というのは言語化されて遂行され評価されるという昨今では標準的な、いわば欧米式の明文化することによって形成する業務プロセスであるところからすれば、言語化によって可視化し、実行と結果に対して適切な評価を行うために遂行することが求められているわけで、ある意味失敗しようが成功していようが思いつきだと認める者がそう認めるのであれば適切性を欠くといわざるを得ないのだが、さらなる条件を加えたより高度な最適解を求めるような場合には深入りしてもいい領域だろうとは思う。(まぁ、ぶっちゃけ多くの業務上では検証などが大変な真実とそれを最大限に引き出すことなどくそくらえなんだともいえるかもしれない)
 残念ながら小説やアニメなどで指揮命令系統を無視したり命令違反をしながらもよりよい結果が常にもたらされてめでたしめでたしというのは、現実にはほぼ存在しない(とある人物曰く、より存在しなくなったからこそ、よりそうしている、らしい)わけなのだが、高学歴の者のなかにはそれが一般的な者の一般的な手法による確度よりも成功率が高いといった半生を送ってしまうような者もいないわけではない。
 私は高校時代進学校の最底辺をはいずっていた関係上、上層部にいる者の考え方をバカにでも分かるように本人に説明してもらうなんてことを結構企画(企画などというほどでもない。雑談に毛が生えたレベルである)していたのだが、1人はどうも有限時間における線分で示される作業工程だとかPDCAという概念が中心にあるのではなくて、今でいう多次元ネットワーク構造からとある断面に注目して計画、実行等を抽出するような考え方をしているため、たとえ言語化されても一般的なそれよりもかなり可変的で流動的であるというように思えたものである。
 また、ある者は、もはや私などには理解できないような回路が内部に存在しているとしか思えないこともあった。
 とりあえず、私としての理解は、その者の中にはブラックボックス的な別モジュールが存在して、そこに何かを投げればその考察プロセスなどは分からないが何か回答が返ってくるような構造として理解するしかなかった。
 はたして適切かどうかは分からないが、与えられた選択肢を選ぶために寄与する「勘のようなもの」の選択肢のない場での解法を編み出すために寄与するもの版みたいな感じなんじゃないのかと今でも思っていたりする。
 とはいえ、いずれにしてもそれが常に正確なプレコグニション(一応超能力分野じゃない意味ね)として機能するわけではないため、相対的に他者よりも成功の確度は高かったとしても、当然ながら当初の計画に比べてよりよい結果を常に生み出すわけでもない。
 結果的に彼/彼女らは、それらの原理、システムに従ったがゆえの挫折ほどではないにせよプチ挫折みたいなものを経験することで、さらに多様な原理や手法などを獲得していくようである。
 で、自虐的にいえば、彼/彼女らが自らの活動のなかでその属性が違うがゆえに経験できないであろう私らのような別属性の挫折や失敗の仕方やそれに伴い獲得した考え方、手法などをエサに差し出す代わりに私らにとっての別属性における神秘に触れる娯楽に興じていたという話である。
 こういった場合も、それが問題となる場合、当然ながら業務において思考構造の理解とそれに伴うインプットアウトプットなどを調整するとかどうのといった手法を実施することが適切かどうかはわからない。
 本質的には、こういったことも社会に出るまでに適正化されておくべきだと思うし、例えば、先述の確度が低いならば他の手段を持って引き上げるなどのフォールトトレラントの概念の理解とその訓練がなされておくべきだとは思う。
 簡単ではないし、今回の話からすれば今更な話なのだけれども。
 3つめは、逆側の属性で述べたのと似ているかもしれないが、半生においてほとんどといっていいほど計画をしなかったというもの。
 最近では、なんでもかんでも計画を明記させるようになっている(ちょくちょく聞く計画するための計画というのもその最たる例かと)ため、そういった者は少ないのではないかとは思うが、いわゆる学校教育という領域で与えられる課題に対して当人の能力と柔軟性、瞬発性などが卓越するがゆえに形式的な計画性の寄与する余地がなかったというものである。
 彼はいつも斜に構えたヤツだったので、当時はたしてどこまで本当のことをしゃべっていたのかは不明だが、曰く、計画を言ったり書いたりすると、その時点で頭の中では別のものに変わっていってしまう、とのこと。
 まさに風の向くままなんとやら的なヤツである。
 ただし、こういった場合にでも、課題が自らの能力と柔軟性、瞬発性などを上まわるようならば、何らかの別の手立てを打つ必要はあるし、またそれは業務上で初めて顕在化してどうこう行うものではないようにも思うが、これまた同様である。

 で、ここまでは当人がどうなのかという空想で、今度は増田自身が直接関与する立場としてどう捉えるのか、という点だが、これは当然ながら簡単ではないし、やるとしても具体的事例に踏み込んで子細に分析して切り分けなりを行って、あたかも非線形計画法の解を求めるようなことをしていかなければならないことからすれば、既に場という意味でプライバシーなどの点など無理があるように思う。
 ということで、それとは別に、増田の『本人はできるようになりたいらしく悩んでて』とコメの『考え方が変わるきっかけがないとこの辺なかなか修正できない』というのとの字面的な意味での不整合を見て気がついたことを書いてみる。
 この箇所は、一見不整合に見えはするのだが、計画と行動といった当人の動機や意思が内在するような領域では、当人でさえその構造を適切に認知できなかったり表現できないことがままあるなかで、ましてや他者がそれを体系的に認知し、外部からそのシステムに介入し、あまつさえ改定してしまおうということにおいて、そのプロセスにおけるとある認知が別の現象からや別の者が推測すると正反対になる可能性を秘めているといえる。
 そういった意味で、例えば、自己調整学習の概念に表層の具体的行動を落とし込んでみて、変わっていくための学習に際して動機付けや学習方略、メタ認知(いずれにも認知的なものと情動的なものとがあるはずなので最初は計6つに分けた方がいいかもしれない)に対して当人が能動的に関与できているか、どれかが欠けている、もしくは弱いにもかかわらず、そうではない部分にのみ増田が働きかけていないかなどからあらためて考察することで、現状の方策が当人のより効果的な学習プロセスに寄与できているかどうかを分析することが可能かもしれない、とは思う。
 当然これまた万能ではないので、様々な手法を組み合わせて多面的に考察していく必要はあるのだとは思うが、これまたそれを具体的に増田が書くとなると、同様に無理があるかもしれない。



 うーん、読み返していて役に立たなさそうで毒しかないなぁ・・・(自分がたりだし)
 いつもどおり、とりあえず散漫なまま終わる。