うし

 某所で「啓蒙」なんてことをいうヤツは上から目線のクソだ、「啓発」なら許せる、知らずにつかっているのならそれを教えてやりたい、という文章自体が啓蒙目的だったというオチな構造ができあがっていて、何というか文才がある人はやっぱりすごいなぁ、とか舌をまく。

 で、それはそれとして、個人的には「啓発」の方が嫌いだったりする。
 それは意味がどうのというよりは、「自己啓発」といった案件に関して極端に不信感を持っている(誤解がないようにいうが、ちゃんとしたのもあるはずである)という連想に過ぎない。
 一応「自己啓蒙」なんてことばを用いる者は比較すると数は極端に少ないと思われるので。
 ちなみにこれまた様々な解釈はあるのだと思うのだが「蒙」というのは鳥を覆って目かくしすることで暴れたりひどく鳴いたりするのを防ぐことを意味すると教えられた。
 とはいえ、漢字の上の方は覆いがあるように見えるのだが、下側は「豕」なので鳥とちゃうやん、とか心の中でつっこんだものである。
 まぁ、勝手に想像するにしてもイノシシだろうがネコだろうがヘビだろうが光を遮る袋の中に入れたりするとおとなしくなるわけで、対象は何でもいいといえば何でもいいのかもしれない。
 また、家畜や野生生物の目をつぶして商売道具が逃げないようにしたというのも読んだことがあって、結局は「蒙」ってロジの技術なんじゃないのか、とか思ったものである。
 が、易経あたりでも「蒙」は、見えないこと→道理が見えないこと→無知、悪人などという変化をしてしまった後の意味として扱われていて、実際はどうなんだろうという気もする。

 とはいうものの、結局こじつければ、うし側は目かくしされた状態を開くことだと考えてもいいわけで、一方のホルモン側は開いてぶちまける、飛び出すみたいなイメージが自身の中には無意識にあるのだろう。
 本質的にそういう意味ではないとかそういう用法が容認されるとかされないとかは無関係に、うし側は、目かくしされた状態という問題を解決する行動、すなわち問題解決型であって、ホルモン側は特に問題を特定し解決するわけではなく飛び出すという意味からすれば課題達成型なのかもしれない。
 ただし、個人的で内的な問題や表現、伝達、共有、評価等が客観的に難しい領域において多面的な認知などによって悪影響を未然に防ぐなどの予防策が効きにくい場合は、安易にホルモン側を選択するのは拙速であるかもしれないし、よりリスクが特定できないという「リスク」が高い気がする。

 で。
 書いてて思うのは、いずれにせよ「蒙」の認知であって「蒙」を開く気などさらさらないのはあるかなぁ。
 そもそも自分のことなんだし。
 それとも、歳を食って金銭目的として相手にされなくなっただけかも知れないが、そんなに世の中にはまさに今自分自身をこじ開けたがっている特定の他者がウヨウヨうごめいているんだろうか・・・・