昨日のWBS

 スバルの件。
 三菱の燃費不正問題の際にも他のメーカーに同様な事故、問題がないか調査を指示しただけあって、今回の日産の件でも同様に問題把握の水平展開が行われていたわけだが、それが先月末の話で、およそ1ヶ月目途で調査結果を報告するとのことだったために、もう月末だし、さすがに今まで同様の事案がもれ聞こえてこないのならばどのメーカーも問題なかったんだろうなぁ、と思っていたらダメだったという。
 で、自ら何のかかわりも持たないが、ちとがっかりした、という感想になるのは置いておいて、個人的に日産の件とは不正の構造が異なっているのではないか?という気はした。

 実のところ、日産の件はなぜそうなったのか?という問いに示唆を与えてくれるつもりはなさそうな気がする(過去にもいろいろ空想したが、現在の公開されている情報量と無期限監視という結果の重さからすれば、多分どれもかすってさえいないんじゃないのだろうか)ので、比較するというていをなさないとは思うのだが、スバルの件については、法令で実務には資格が必要とされるのに対し、社内規程では資格には実務が必要としていたという相違によってその端境期に存在する不整合が不正扱いになっているという構造が提示されたこと、およびこれについて吉永社長が『よりきちんとやろうという意味でずっとやってきたと思う。ですから、ここについては、これが社内でまずいという認識が全くないままに過ぎてきてしまっていた。』と発言したことが問題の鍵となっているのではないか、というように思えた。(確かに作られたシナリオでなければ、という前提もつける必要はあるのだが)

 で、企業倫理の事例だとか聞きかじったりしていると出くわす、いわゆる社内のしきたりや不文律、大きいところでは行動指針や社是、事業計画、はてはマニュアルや社内規程に至るまで、その企業、組織における内部的なルール(いわゆる決め事、実質的な決まり事のようなもの)に従うことと、それを大きく包んでいる業界、社会、国家、国際上などといったルールとの不整合、違反、攻撃をもって内部的なルールに反する行動をとることをどう考えるかという問題のバリエーションの1つだと思える。
 一般的に、こういった課題というのは、組織を構成する者にとってルールを遵守することおよびそこから導かれる行動計画とその実行がどうであるべきかを考察するものだと思う。
 ただ、今回の件は、先述の双方のルールは厳然として存在し、整合するか整合しないかも存在はしているのだが、認知できていない、もしくは部分的にマスクされている状態において、先の「どうあるべきか」という考察によって導かれた結論が適切ではない可能性がありうるという事例になるのだと思える。
 外部的な問題が法令である場合でいえば、刑法のそれは除くとして、民法上で法の不知を考えた場合にはどのあたりにあるのか?ということを事例ごとに考察するのとある意味似ているかも知れない。
 ちなみに法の不知は、原則刑法にて扱われるのであくまで思考実験であって、法令という側面から見い出すことが可能な倫理的要件を導出するための1つの手法でもあるが、重要視はされないように思う。
 なぜなら、昨今の情勢においては非常に効率が悪いから。

 で、戻って。
 先日、たこつぼに関して「見せない、見えない、顧みられない」という構造とその結果を書きはしたが、逆に見せても、見えても、顧みてもその各段階の認知と行動と結果が常に正しいとは限らない。
 そして、一般的に成果主義が跋扈する世において、結果のみ判断することで顧みられないとか重み付けが小さいプロセスや事象、事物が増えれば、見つかりにくい問題というものも存在しないわけではない、と考えてもいいようには思う。
 考え方はいろいろあろうかとは思うが、認知論の1つの考え方からすれば、見えればたこつぼに何か入っていることを認知することは可能かも知れないが、それがタコだと知らなければタコではないし、マダコかミズダコかなどを知らなければ、それはあくまでタコのままであって、そういった認知が存在しなくとも買手がついて経済活動を行えるのであれば、何かしら問題があるとは認知されないといった極端な事例を想定することも可能ではある。
 そして、その極端な事例を結果で評価するという統治を組織の上側で行った場合、その認知の問題について俎上に挙がることはないと考えられる。
 いわゆるピラミッド型のヒエラルキー構造を組織が持っていた場合に、下層のユニット(いわゆるたこつぼ単位)の認知する情報量とその処理を適切にマネジメントする手法を上層のユニットがほぼ同様、同等の手法をとるとすれば、そのためには、多くの場合、現実的ではない逆三角形になってしまう可能性が高く、別の手法で管理なりマネジメントなり統治なりを行う必要がある。
 そして、経験上ではあるが、その別の手法のバリエーションが少なければ、組織の純化とか整合性、管理の容易さには優れるものの、見えているのに見えないし、そのことを認知できないリスクがふるいにひっかからずに見過ごされる可能性が高いように思える。(誰よりも速く走ることができるが、ぶつかれば他の誰よりも確実に死ぬとか言っていたりした)
 で、そういったことを数十年前に知人の製造業の現場管理系をやっている者にぶつけたら、全て掌握済みだと鼻で笑われたりしたが、残念ながらその会社では様々な半ば競合してしまうような複数のシステムによってそれぞれ別のセクションで問題の抽出が可能になっていることを当人は理解できていないようだった。(外部の者にさえ分かるというのに)
 これはこれで結構イタイ話なのだが、先の話では認知の範囲が狭いことに気づけば、何か認知できていないことがあるかもしれないという問題意識によって解決する可能性もあるが、この場合は、認知できていないものはないと思い込んでいる者が当人の専門外の者にそうではないよ?と助言されても大抵は聞き入れないために根は深い。
 これら以外のパターンとしては聞き馴染みのあろうかと思われる無関心と責任回避という、いわゆるたこつぼと称されるシステムの弊害の1つがあろうかと思う。

 個人的に、無関心と責任回避というユニット単位での分離によって離合集散を繰り返す形というのが流れとして続くのかなぁ、とか思っていた。
 というのも、爆発的に市場がわくこともなさそう(株価とかそういう話ではなくて)だし、新しい個体が発生するよりも古い個体がどうこうなっていくことが多いんじゃないだろうかと思っていたので。
 また、全てを知っている的なお山の大将的な者も時代とともに減ったように思う。
 分業が進み、システム化、形式化、マニュアル化が進み、機械化、複雑化などによって作業の経時的同一性が失われ、業務の減少がOJTなどとは別の教育するために作られ与えられるものだけでは抜け落ちが存在すると考えられるようになり、ゼネラリストに意義を見出さなくなってきたりと理由を挙げればきりがない。
 ただ、今回のスバルの件のようなパターンが社長の発言どおりであったとするなら、先述の認知できなかったことへのリスクの読み違えということになり、リスク管理の観点からすれば、認知できないリスクをどう見積もるのかというかなり嫌な領域だったりする。
 これは一般に想定外のリスクとして扱われるが、簡単な事例(あまりいい事例ではないが)でいえば、かもしれない運転という領域で、右折の際に対向車の陰から対向直進のバイクがいるかもしれないという「かもしれない」と道路上には何も危険がなかったにもかかわらず、隕石が落下して車ごと吹き飛ばされるかもしれないという「かもしれない」というのは、後者は極端にリスクが小さく想定外として扱う項目である。
 とはいえ、双方とも思いつく上では認知の内であって、そこからリスクが小さいとかいうことも理解可能だといえる。
 リスクが認知の外にあるとすれば、例えば何が原因になるか全く分からないけど事故を起こすかもしれないという「かもしれない」もしくは哲学的に「無」であることが原因みたいなものではあるが、多分、これだと心理的な意味で事故率が上がりそうなのであまりいい例ではない、という話ではある。
 いずれにせよ、問題となるのは、思いつかないことにはリスクを見積もれないし、リスク想定や分析において当該リスクに対して過去の事例や類似事例をより重点的に調査するとか、その影響が内部的に吸収し得るレベルのものをある程度ひとまとめにしてから掘り下げるなどといった想定外のリスクに対する攻略手法のほとんどが使えないことにあると思う。
 かといって、ないかもしれないリスクに脅えることが重要ではないわけだし、そんなことで企業、組織などが成り立つわけではないように思う。

 でもって、こういった問題にどう対処したらいいのかということに対して、ここまで書いておいて個人的に答えを持ち合わせていない。
 持ってたら、それで食っていけそうな気がするが、それはそれ。
 ただ、少なくとも台本を読んだんだろうと思われるが、大江アナの『30年以上規定に矛盾がありながらそれに気がつかないというのは、問題を発見する力やマニュアルに沿うという意識が足りなかった』で済ますことのできる問題ではないのではないか?という気はした。
 確かに大きな意味では足りていないことにはなるのだろうけども、では充足させるにはどうあらねばならないのか?をそれだけで具体的に指し示すことは難しいと思うので。