一昨日のWBS

 『日本のものづくり問題多発なぜ?』と題してコメンテータの山川氏が解説していた『製造現場の「新3K」』。
 古い人間には多分馴染みやすい「3何々」とか、それに対比するというか覆い被せるように「新3何々」という、何らかの問題や課題、現象を読み解く際により目立つとか重要そうだと共感が得やすいものを上から3つ選んでひとまとめにして名付けるという相手(多くは不特定多数)への効果的な認知をねらったものというのは、個人的に受け入れやすいのだが、時間がないから3つっぽっちの項目さえ解説していられない(確かに1つにすれば3倍だが)とか、中身も原形をとどめないレベルでもいいのでそれっぽくしゃべった上で、あとは各自で考察してレポート10枚ぐらいで概説してね、ということなのか、BSの他のニュース番組のような1つのネタに時間をかける番組構成ではないがゆえに、記事の共有でWBSに持ってきはしたが、尺にあわせてごっそり抜いたら何がなんだか分からなくなったのか、実のところ今回解説した内容に対してよく分からなかった。
 とはいえ、それが先述のとおり自らの馴染みやすさからくる勝手な期待感というバイアスでもって聞くから捻じ曲がった受け取り方をしている可能性もなくはないわけだが。

 と、いうわけで、前段として、個人的に思っている「3何々」の問題、というか見落してしまうこと適用範囲といったところについて書いてみる。
 先にも触れたが、当該組織に対してその原因が1つしかなかったとは限らないし、他の同様な問題を抱える組織においてでさえ、同一の原因であるとも限らない。
 このために、一般化するにあたり、1つではなく3つにして当たる確率を上げている、という数的なからくりもありはする。
 よって当該組織のとある問題を検討する際に先例や一般化された定石っぽい何かを参照し、仮定や検証の一助とするといったきっかけとして機能することが本来あるべき適用範囲であろうと思っているので、例えば、挙げられた3つすべてが適合しなければならないかというとそうでもない(それらが共生関係になるなどといった制約条件として提示されている場合などは除かなければならないが)し、逆にあてはめが過ぎるとそこから編み出した施策の効率性が悪くなったり芳しい結果が得られないこともあるし、組み合わせだとしても同様である。(それゆえ「3何々」を作る側も誰もが共感しやすい含意の広いことばを選ぶわけだが)
 また、当然ながらそういった問題などの原因というのは、3つに限られるものでもない。
 3つであるのは、先の相手に対する印象として多すぎず少なすぎずというある意味経験則から3つまでにしているようなもので、場合によってはその3項目だけ修正しても問題解決に至らない可能性もある。
 とはいえ、仮想の個である組織といったものの問題というのは、結構人の病気と似ていて、提示されていない別の原因が卓越している場合、その多くは症状に違いが見られるために「3何々」というある意味病名以外の病気であると判断できる信号を受け取れるならば、また方法が変わるし変えることも可能ではあるのだが、それも適用限界として認知されないならば問題をより大きくする場合もなくはない。
 ただ、その組織の置かれている立場を鑑みれば、一般的には杞憂ではあるのだが。(たとえば、第三者からでもある程度までなら罹患の有無が確認できるようになっているのが上場の意味でもあるわけだし)
 あと、「3何々」というのを考察すべき原因の1つだとして要因分析からまじめにやるよ、なんてことを言っていられる隙間がリソースとして捻出できないとかいう単純にもはやどうにもならない領域は別として、ある程度ちゃんと分析するにしても効率的で網羅的であること(結果的にはMECEに近いものになるとは思うが)を求める際に、分類を3つに、とか重点項目を3つに絞り込む、とかいう定石が提示されるかもしれない。
 ただ、こういった古くからある手法はこれまで成功してきたとはいえ、大量生産の時代と比べ、項目数が肥大化しその分析のために必要なリソースも増え、さらに製品に対してその分析の流用が難しくなるレベルでの修正や変更が大きくまた頻繁である場合には、費用対効果としてその前段階でどうするかを考察する必要があるケースも多く生まれるわけで、その対応は時間ないからそのままやっちゃえ、となるのか、検討と同時進行でかつリスクテイクを多めに見積もっておくとか、そもそも分析を必要としない生産方法に切り替えるとか様々ではある。
 個人的には、解決しないまま先に進んでしまうことに不安やら心理的負担を感じる性格なので、多分デメリット側に出てくるのだろうが、そうでなければ、組織の強みを構成する要素の1つであるとも思えるし、意図的に「3何々」の適用範囲から出ることもありかとは思える。
 ただ、当然ながら適切な規律、コントロール、マネジメントがなければ、永続性が求められる巨大なリソース群が徒手空拳で暴れているのと変わらないレベルであるので、いつかは何らかの問題(それが特に製品であるとは限らない)が表面化するに至る可能性が高いし、実際、そういった事例は枚挙に暇がない。
 とはいえ、それが今なのか明日なのか1年後なのか10年後なのか全くわからないし、それはほとんどの場合組織としてそうなのであって、そのリソースの1つであるヒトを一個人にまで分解してしまうと、個人的にはその同期性やら何やら(あえて書かない)の違いで、さほど血の涙が出るほど思い悩んだり悔やんだりする必要もない気はする。
 これも、裏の適用限界の1つではあろうかとは思う。

 話は戻って。
 んで、そのフリップの中身はというと、古い3Kは、

 ・きつい
 ・汚い
 ・危険

で、一方、新3Kは、

 ・過剰品質
 ・形骸化
 ・事なかれ主義

とされていた。
 まず、過剰品質については、「顧客の要求品質が高すぎて少しぐらい下回っても大丈夫だろう安全だろうという甘えが生じがち」とのこと。
 あくまで、自社、自組織に対しての話ではないらしい。
 ここでよく分からないのは、では顧客の要求品質を満たさなくても製品として問題があるかどうかではなく、組織、会社、企業として他の問題(信用やブランドに留まらず、資格や受注に至るまで)もさほどではないということなのか?要求品質を満たすプレーヤーが別に存在すれば、自ら無価値たらしめているのか?ということである。
 で、この疑問というのは、技術者倫理とか企業倫理の問題でよく議論されるモデルケースといえるとは思うのだが、それをすっとばすのは、まぁ、尺がないからなのかなぁ、とか。
 要はどこかここかで行動や思考が矛盾しているというか「ばかなの?し○の?」レベルの低脳さを醸し出しかねないところからすると、そもそもその認知が表面的過ぎて適切なものではないのかそれとも単に地獄一直線で視界が開けているのに「わかっちゃいるけどやめられない」というバカなのかどっちかなのかなぁ、とか思いもするが、主に前者だとされる。(とはいえ、授業レベルだけども)
 適切に認知するには、様々な方法があるといわれるが、ここでいえば、製品そのもの(場合によっては原料や中間生成物も含む)の純然たる品質(物理的な性状であったり、サービスでいえば機能を含有するかどうかとか)が非相対的にどのようであるか、製品そのものもしくはその製造段階、さらには、購買から消費、廃棄に至るライフサイクルの各段階におけるステークホルダーとの関与、関係性という意味で、それらステークホルダーにとっての当該製品(製品がライフサイクル内で変化したものを含む)の認知と品質に対する認知の強度、ステークホルダーが及ぼす影響と品質に関するもののそれ、といった3つぐらいに分類して考察することで整流化すると教わったものである。
 と、グダグダ書いたのはただの思い出し書き、覚え書きに過ぎないわけで、そこから詳しく分析する気もない。
 そもそも氏が例示した神鋼三菱マテリアルの問題はその分析から適切な解は求められないと思うので。
 というのも、発注者が当該製品を購入するにあたって、誰しも納得せざるを得ない特命である理由がない限り、受注者側は契約上過剰品質になり得ない(先述の「自社、自組織に対しての話」といった要求事項をあまりに上回り過ぎて逆に下げられないという過剰品質はあり得るかもだが)し、自由競争であるとすれば、次回から受注できなくなることで、社会的な自浄作用(最近は被害者面っぽく制裁とかいったりするが)が機能するのだと思われる。
 そういう意味では、単純に疑問に感じていいし、立場によってはそう扱って切り捨ててしまってもいいところなのかもしれないが、それでいいのかというのもあったりで。
 2つめ。
 形骸化では、「作業が「形式的」「儀礼的」に行われることが多い」とのこと。
 数十年前から叫ばれているマニュアル化の弊害(中学校の頃だっけか、アメリマクドナルドのマニュアル化した接客の功罪の話を読んだか聞いたかした気がする。多分、そんな時間的な過去のレベル)とさして変わらないとは思う。
 ここで、氏は日産やスバルを例示していたが、リソースや一部ステークホルダーのマニュアル、場合によっては法令の具体的事項、数量等から逸脱するにも様々な要因があって、当然ながらそれらも古くから指摘されているとおりだが、個人的には、今回の無資格検査に関して「国内向けは検査が必要だが輸出向けは検査が不要(あくまで国内の検査が、だが)なので何でこれをやらなければいけないのかと思って現場が作業している」という形態であるとすれば、極論すれば、トッピングなんてなくても客は食えるんだからそんな面倒臭いことやらんでええやん、という商品を作ることに抵抗がなくなるというかなり重度な心理的問題をリソースが抱えていることになる。(よくある足切り八助の心理的考察において、足が8本でも7本でもたとえ6本だろうと「タコ」として同様に調理して食えるとするのと似ていなくはない)
 個人的には、過去にも書いたようにそのレベルのひどさが存在し、それによりインシデント、もしくは事故が発生し露見した場合には、大抵その組織には、別の同様なひどい作業、工程、プロセス、システムを複数内在すると考えていい(組織内のユニットごとでの温度差を断熱せしめるには、それはそれで多くの場合意図した手段が投入されていることが経験上多いからだが)のだが、それがない場合には、別の要因、もしくは複合的要因によってもたらされた結果を現在観測していると考えた方がいいのではないかと思っていたりするからだ。
 とはいえ、もう何十年も前からではあるが少量多品種という製造形態に移行して、ヒトというリソースを最小単位の一個人にまで分解しても、いつもほぼ分岐のない作業フローが組める者がいなくなってしまうといった自身の作業の終点に至るまでの経路を自身の行動をもって対比が可能になり、その差異を認知しやすくなった結果、疑問を感じればすなわち悪い意味での儀式的と認知されてしまうケースが極端に増えたことはあるかもしれない。
 昔のゼネラリストという様々なプロセス、システムで稼動する部局を経験するという考え方と似ているかもしれないが、それは、当人の思考形態がどうかは別として、物理的には別の「カンバン」が取り付けられていることになるというないまぜにした間違いを起こさない歯止めが存在するともいえる。
 一方、残念ながら物理的に「カンバン」が存在しない状態では少なからずその歯止めはない。
 思った以上に、この歯止めは、聞いてしまえばばかばかしく見えて、その実、実際の結果に遡及的に落とし込んでみると浅慮さえ存在しない踏み越えが起こっていた、なんてことが多い。
 あくまで邪推なのだが、現場レベルで、学生レベルで停止したゼネラリストっぽい選抜をされたスペシャリストとしての社員とある程度偏っていはいるだろうが、それなりのゼネラリスト(一般的には多様な人生経験などと表現した方が分かりやすいかもしれない)が単純な実作業を複数担当するという以外の多様性だとかすきまを埋める何らかのリソースなり行動なり働きかけが不足している、過去に比べてより多く必要とされていることに原因があるのではないかとか思っていたりはするが、これだと国内の社会情勢において顕著だということを説明できても、そんな資料やデータはないだろうし。
 ただ、こういう仮定だとすると、もはや「形骸化」ではないわけだが。
 3つめ。
 事なかれ主義。
 これはことばとしてはネガティブ表現なので、限定的な説明がさなれなければ、その認知の整合性は別として、あるある問題として扱うことは可能だとは思う。
 しかしながら、解説では「今の現場は、元気がない、余裕がない、発言力がない」「本社主導の利益至上主義が蔓延し、現場としてプライドを失い結果として見て見ぬ振りをする」とのことで、昨今のマスコミによる現場への高負荷とその圧力を原因として挙げる論法と似ている気はする。
 ただ、それなら、ここ数ヶ月とかそんなレベルとははるかに長い期間不正を続けていたのか?今回不祥事を犯した企業において現場が強かった時代もなくはないはずだが、なぜそのときには不正をしないということにならなかったのか?続けていながらバレるのはなぜ今なのか?を説明できない。
 なぜバレるようになったのか、という件については、内部告発の法整備とその定着に尽力されている成果が現れているということもあるかと思うし、組織のディスクローズ(単純な情報公開に留まらず、対外的に規定されるため等により経営情報や行動、方針などを手に入れることができる状態にあること)やSNSの情報の拡散といった情報の力によって局地的にだけバレているものが周知の事実と化すといった特徴の方が強い気はするが、それはマスコミというメディアとしては扱えない領域なので、それこそ忖度すべきところなのかもしれないが。
 ある意味、現場の発言力がどうのとかそういったジャンルの現場主義を捨てても製造業はある程度の業種とかなら成り立つよ?みたいな話は至るところで聞くので、もはや「事なかれ主義」っぽい思考形態が製品の不正につながるとはいえない気もするのだが、まぁ、それもそれでいろいろ言えないところがあるだろうし。(上下左右で問題視する観点や事項はバラバラだろうけど)
 多分、これも掘り下げるとダメになるパターンな気がする。

 というわけで。
 「なぜ?」といいつつ何だったんだろう。
 これは。