またなつかしい

 しばらく休んでいたので古い記事をちょっとずつ掘り出していくことにしてみる。
 で、今回は「この10年、日本の大企業で「品質問題」が続発する理由がわかった (1/19 現代ビジネス)」。
 『わかった』と断言している感じからして勢い込んで読んだものの、低脳には分からなかった、という結果で勝手にがっかりしたのだが、高名な方が記事にされている以上、正確性と社会的実効性が伴うものという前提があるとして、とりあえず気のついたことを書いてみる。

 一応、2点。
 1点めは、PDCAの考え方、2点目はISO(多分システム規格関連)の考え方である。
 具体的に指し示せないあたりがこれまた低脳をひけらかしているわけでが置いておく。

 まず、PDCAについて。
 小題のなぞなぞとして『カギはP→D→C→Aの「次の文字」』と銘打っているが、『組織を挙げてP(計画)→D(実行)→C(確認)→A(再実行)のプロセスを踏んで仕事をしていく。実は、Aの後にS(スタンダイゼーション=標準化)が来ることを知らない人も多い。/「サイクルを回す」というのは、いったん標準を作った後でも、再びPDCAを実行して標準のレベルを進化させていくという意味だ。』とあるとおり、答えは『S=標準化』とのことである。
 まずはくだらないところからいくと、「Action」は、前段で長々とTQMの歴史を語っている(とはいえそれに関わる者としては書かれている程度は常識レベルで初期の段階で教えられるか自分で知らなければならないレベルではあるが)ところからすれば、「改善」もしくは「処置」と表記すべきではないかなぁ、とか思いはする。
 最近では、昨今の仮説検証モデルなどに影響を受けてか、個人的にその適用のあいまいさと不適切さの底抜けに対する歯止めのかかりにくさからあまり推奨したくはないがPDSモデルの「S」(See、教科書的説明としては、振り返ること)を「C」に置き換えることで、「→A」からは2順目に入っているという考え方をする者も増えている関係上、「Action」という単語そのものの意味から「行動」とか「実行」とすることも多い。
 ただ、そこは、当たり前だから書いていないのか、その割には歴史については当たり前であるにもかかわらずこと細かく書いているのかは、そのアンバランスさからよく分からないところだと感じる。
 少なくとも、そういった実行する側のほとんどの者に直接的に不要な知識がない前提で読むと、再実行してから標準化するという謎な時系列なわけで、いやいや、再実行するなら標準化してからにしろよ、とか思われたりしないのかな、という気がした。
 いや、まぁ、そういった逆転こそがカギだとは思えないわけだが。(当然、そうともあからさまに書いてはいないし)
 で、そういった教科書的用語解説っぽいツッコミは置いておくとして、個人的には「A」(実際に現場でやってると実質的には案件ごとで「C→A」間内である程度段階、連続、不連続を問わず起こりうる。ただし、教科書的には「C」を優先することにはなるが)に「はどめ」および「標準化」は含まれると考えている。
 この考え方は、PDCAモデル(もしくはサイクル)ぐらいならより多くの者が知っている用語であるがゆえに説明しやすいこと、また、特に業務や作業がウォーターフォール型のシステムで運用されている場合、そのレベルにもよるが、事故、損害、致命的な不良品、他へ伝播して被害を拡大するものなどを対象とするに際し、あたかもPDCAが回ったと勘違いすることでリスクが増大することを防ぐ(いわゆる歯止め)ために、抜けが起こりにくいように古来の表現に基づいた上で、正確ではないが、PDCA4項目に新しい概念を付加する形で説明することにしていた。(一応、一人一人に四六時中ついてまわって指導できるわけでもないので、経験とPDCAなどといった理論が自然と自身の中でかみ合うような老練と新人とがミックスされた環境であることにより方向性が全体である程度均された状態になること(意思統一とまではいわない)を期待していることもある)
 あと、PDCAのあとに必ず「S」でなければならないのかというと、特にそうでもなくて、時と場合によって、何度かPDCAとSDCAをランダムに繰り返すとか、そのサイクルから抜けて維持モードやイベントドリブンに移行するとか、例えば「A」からいくつかの「S」と「P」に分岐してもいいわけだしという考え方をしていたため、実質上、SDCAは、今回はマニュアルどおりにやってみようというPとSを読み替えてしまうとかしたことも多かった。
 そもそも新しい概念やら何やらというのが、いわゆるガチな工業的製造業で単一大量生産向けに適用度が高く、それから外れれば外れるほど単純な焼き直しでは適用度が下がるために、より適用度を高めるための試行錯誤の結果なのだと、浅い経験の中、個人的にはそう思う。
 で、そんな広範な適用化、より高度な一般化といった課題解決を今後とも随時行っていこう的な話がすでに終わりかけていたように見えたのは、個人的な経験で言えば、バブル期ですでにそうだったように思う。
 これまた、個人的な感覚ではあるが、すでに第三次産業の就業人口が昭和50年代には半数を超えたという産業的な構造転換はあるとはいえ、それ以上に製造業でさえ多品種少量生産に移行したり、産業機械などによる高度な自動化などによって、自己流の味付けによってPDCAモデルを用いることが、場合によっては適切ではなくなったというように当時感じていた。
 世の管理ツールの常として、PDCAが未来永劫無敗帝王なわけもなく、時と場合によっては別のものがより効率的であったり効果的であったりするわけで、PDCAなりTQM活動が他の全てを凌駕する万能ツールだというのには少し賛成できないかなぁと。
 これも時と場合によるとは思うが、とあるTPMの領域でPDCAでのみ考えるにはその思考モデルが重すぎるために、人間系の認知としてTQC的考え方(当時TQMではない)は一端リセットした方がいいんかもなぁとか当時思ったことすらあるし、何でもかんでもというのもちょっとなぁと。(具体的には書かないが)
 あと、ひねくれた見方をすると、『TQM活動は工場など生産現場だけに必要なことではない。事業環境の変化が激しい現在だからこそ、会社の方向性を決める企画や開発の仕事にも必要だ。TQM活動は、技術革新によってビジネス環境が変化すれば、組織を挙げてそれに対応していくための「武器」の一つになる。』とさらっと全業種、全事業者に広げているわけだが、だとすると、中小や新興、ベンチャー、スタートアップなどでTQM活動を行っている企業は少ないと思われるため、「TQM活動をしない」ことが不祥事や品質問題を引き起こすのであれば、数多くの事業者が重層構造を持つ産業(建設、ロジなどの重層下請けがある場合や事業・業務自体が完結するまでに分割・細分化されていること。製造業の一部問題されているような雇用構造や単純な購買関係などは含まない)が高確率で事故を生み出すはずだし、「大企業で、かつTQM活動をしない」組み合わせでなければならないのであれば、その理由が記事からは見えない。
 あと、ことばじりではあるが、『繁忙であったり、生産品目が増えたり、人員の増減があったり、あるいは新しい設備が入ったりして仕事の現場は常に変化する。その変化に合わせて標準作業を進化させていかなければ、品質問題などのトラブルが起こりやすくなるのだ。』ということをPDCAサイクルで解決するには、昨今の環境の変化が急峻すぎて「D」部分を実際行うこと自体が無駄になるという向きもあるというのは、これまた昭和でさえ問題になっていた話である。
 古い笑い話ではあるが、営利企業にとって「石橋を叩いて渡る」から「石橋が崩れるより早く走る」とか「石橋が崩れそうになったら補強・補修しながら渡る」という方向なのか、「石橋を叩いて壊して作り直す」のか「作って壊して埋めてを繰り返して谷を完全に埋めてからその上を通る」のかというのと同じで、「D」の位置付け自体どこがいい按配なのかは何ともいえなくはあるのだが。

 2点目。
 ISOについて。
 ISOのどの規格かについてまるっきり書かれていないので何ともいえないが、たとえば9001を想定してみると、別にPDCAモデルが存在していないわけではない。
 特に国内規格から昇格したわけでもなければ、TQMを推進している各種団体のたたき台からISO化したわけではないものの、PDCAという用語が国際的な規格として記述されている。(序文やけどね)
 『ISOは決められているSを守っているか否かに焦点が当てられる。新しいSを創り出すことに主眼が置かれていない。』の真意がどこにあるのかは不明だが、9000シリーズ(初期の規格が分かれていたころ)の取得が盛んであったときによく出ていたこういった質問に対しての答えというのは、必要な標準化がなされれば改定すればよい、という簡単な話であった。
 そもそも現場レベルで9001の標準や手順書を守っていればいいという考え方は非常に危険で、ISO9001に謳われるシステムマネジメントの考え方とその効果を大きく毀損するとまで言われていたが、最近は改定を経て、行間からそんなんでいいよってことになってるのかどうかは知らないが、もしそうなのであれば見当違いかもしれないのだけれど。
 で、『たとえるならば、ISOが択一式マークシート試験、TQMが論文試験だ。』とくるともう理解不能で、『TQMが衰えたことによって、上から下まで組織全体の「考える力」が低下しているのではないか。』と畳み込まれてしまうと、さすがにバカには説明が少なすぎてつながりを捉えられないというか。
 一応、非常に大雑把なイメージ(私がいだく世間一般のイメージのイメージ)として、欧米型の基準なるものが最低限を規定する方式で、国内ではこれだったらよさそうだと思われる範囲の平均あたりを狙っているなどと高度成長期にはいわれていたが、最近はそうでもなくなってきているところもあったり、逆転しているところもあったりするものの、そういったイメージのみ保有することを前提にかつそれが真であるとして論旨を構築するならば、例外を除き拡張的に適合するといっていいのかもしれないとは思う。
 ただ、具体的なISOとTQMという対立という意味で『考える力』の低下にむずびつけることは自身の頭では前提が足りなさすぎてまだまだ無理だし、その説明や糸口もない。
 個人的には、先述と同様にISOも万能ではないわけで、それ以外も使い分けたり併用する必要があるとは思うのだが、少なくともISOについてはJIS法下に組み込まれている以上、もはやよし悪しの問題ではない気もするのだが。(既に民間規格じゃないわけだし)


 あと、これもことばじりだとは思うが、『現場の課題が上層部に伝わっておらず、伝わっていたとしても、徹底した議論をして再発防止をしないから同じような事故が起こる。これは品質問題にも通じることだ。』と神鋼を例に挙げているが、品質問題も事故の下位カテゴリの1つであるために同一ではあるとはいえ、TQM活動をやろう、といった本旨からすれば、神鋼を例にとるとして、それを解決するTQM活動ってなんだろう?
 そんな気がする。
 「マネジメント」なんだから全てを包含するというのはナシの方向で。
 同様に、『2007年の不二家の消費期限切れの原材料使用、14年のアグリフーズ(当時)における冷凍食品への農薬混入事件、15年の東洋ゴム工業による免震ゴムの性能データねつ造、16年には三菱自動車やスズキでの燃費試験の不正』と列記した事案それぞれが、マニュアルとマニュアルどおりの行動とステークホルダー(主に消費者)の認知、意識の乖離(不二家)、私怨による不法侵入に近い案件(アグリフーズ)、期限内に性能が出ないためにデータ捏造(東洋ゴム)、第三者委員会の報告によれば多くの原因が列記されている(三菱自動車)、相良テストコースの気象特性(スズキ)というさすがにTQMでどうにかなったとは思えない事案のように思える。
 結果からさかのぼれば、東洋ゴムと三菱に関しては、自社技術がTQMをからめることで伸展していれば、そもそも当事者が問題行動を起こす動機すらなかったと考えられなくもないのだが、どちらかといえば、不二家以外は、マニュアルや手順書、契約書、国内法とかしっかりと明記されたものがあるのに、誰かがまるっきりそのとおりにしない、何かがそのとおりになっていないことに起因していると思えるので、そういうところにばかり目がいって、既に何が本質かは自ら見失っていなくはないなぁ、とか思いもするのだが。
 ただ、少なくともTQMなりPDCAは念仏でもなければ偶像でもないので、粗末にしたら理由を問わずダメってわけではなくて、道具として、ではどう使っていれば事故・不祥事が防ぐことができた可能性があるのか、という説明がなければ、悪くいえばオカルトになってしまいがちな気がする。
 えーと、このTQMって壷を買わないと災いが訪れますよ?とか。