もっとレベルの低い率

 一応、あまり手を出したくない領域でのトレンドワードとして残業時間の話があったりする。
 ざっくり残業時間の話としてしまうと、働き方なんたらといった領域から、もしくはそれ以前の同様な問題、課題に対する綿々と続くそれらに付随する用語としてトレンドというより「ずっと」ということにはなるんだと思う。
 で、これまたざっくりと成果品・サービスの価値を労働時間で割ったものが労働生産性になる(正確ではないがイメージ的にはそんな感じということで)ので、本質的に分母や分子をちゃんとみる必要はあるのだが、感覚的に「(裁量労働制で働く労働者の)平均的な方と比べれば、一般労働者よりも短いというデータもある」という裁量労働制を導入するメリット(導入後としては大義)に沿うよ、という理解から現在では逸脱する(ただし、今回の件においては、正しくは適切に再調査してみないとこれまたどうなのかはわからないのだが)という前提の置き換えを行う必要があることになる。(何度も書くがあくまでイメージである。数的な根拠ではない。もしあるのなら、そもそももめたりしない)
 そういった大雑把で感覚的なところから無理やり導いていけば、実は労働生産性を下げている一因として、このような隠れ残業のような率を下げる因子がシステム的に存在している(社会なのか組織なのかどうかという部分は問わない)ということになるのかもしれない。
 特に裁量労働制自体が悪いとかじゃあやめちゃえというのではなくて、それで成功している(正確に言えばそれぞれがそれなりに利益を分配し享受している状態にある)国、企業等も多いことからすれば、裁量労働制を適切に機能せしめる何らかの手法なり考え方なり制度なりプロセスなりが法令、政策、個(複数の個の関連も含む)において適切でないとか抜けているということに問題があるのだとは思うのだけれど。

 とはいえ、自らのまわり(多分「だけ」)における卑近な領域では、率に対してマイナス側に寄与する先述とは異なるレベルの低い状況、要因があって、心底我慢ならない、的な状況ではある。
 我慢ならないのが、我慢しない、ではなく我慢していることも個人的に精神衛生上よくないし、ぶっちゃけ怒りを処理する(当然、その立場上、実行動を伴う表出といった手段を用いるわけではない)のも面倒臭ければ、自身の体が弱れば弱まるほど怒りがより発生しやすいという軟弱な性向自体からして面倒臭く思えて、ぶん投げてしまいたくなる。
 で、その寄与する要因はというと量、質を下げてさらに時間的にサボること、かな。
 私自身がいつから極度の社畜気質なのか分からない(学生時代のバイトでさえそうだったので現象を自覚するかなり前からそうだったのだと思う)が、それをレベルの低いくだんの要因だとさえ捉えるどころか、私もそうなりたい!と心から信念をもって純に希求する気持ちになれれば、面倒臭い気持ちにさいなまれることもないのだが、と常々思ってはいるのだが云々。
 で、まぁ、そのどうでもいい理由付けとは無関係に至極直結的な感情として発生するムカつく気持ちが体がよくない時期と同期してしまうというのも悲しいよね。
 なんか、徐々に朽ちるよりぽっくり逝った方が波風が立たなくていい気がしてきた。