今後の流れ

 教育格差の話がきな臭い形で出ていたので少し触れてみる。
 具体的には、こことかこことそれに関連する各種記事いう、個人的に香ばしさに釣りあげられてしまうネタが多く掲載されるサイト(数日前も同じだし)な気がする昨今、単にそのまま収束に向かうのかどうかみてみる方向での中間地点で、ということで雑感を。
 まぁ、正直つりだと思うけども。

 まず、先に封じておきたいのは、『私は社会学者ではない。田舎から運良く東京の国立大学に進学できたので、上記のような格差と落差を、身をもって体感した一個人にすぎない。』という点から、結果的に社会学的な話題になった時点で、それは反論にあたらない、みたいな話になるのはいやかなぁ、と。
 私は記事の著者よりずいぶん年寄りで時間軸方向だけは分があってもFラン卒なので、たとえ社会学的要素を含んでいたとしても、少なくとも、私の考え方が「学」ではなくて義務教育レベルから派生した手法に過ぎないと考えるべきだとは思うし、それゆえ、氏が経験論から結論を導くとして、その有無によって様々な前提が揺らぐ可能性があるかなぁ、とも思うので。

 とりあえず、前の記事の方から。
 『裕福な家庭は多額の教育費を支払うことができるので、子供は高学歴化する傾向にある。学歴と収入は比例することが多い。結果的に、金持ちの家系はいつまでも金持ちだし、逆に貧乏人はいつまでも貧乏から抜け出せない』というのは、依拠するデータがどうのというのはどうでもいいとして、考え方のモデルというのは、結果と原因に関して比例しているということなので、

  学歴↑  /
    | /
    |/
    +−−−→持ち金

であって、単純なON/OFFの構図として分類すると

      金ない  金持ち
  高学歴  ①    ②
  低学歴  ③    ④

となる。
 理論的なところは無視するとして、簡単な話、正比例化するということは、そこから外れると元の傾向に戻るような何らかの影響が及ぶことになるという考え方もできるわけで、そんな中であるべき姿として②を目指す場合、漸次きっかけとして①側に振れてから②に近づくのと、同様に④に振れる方法を想定することができる。
 学歴の高低はその扱いが広く、適切に定義する必要はあろうかとは思うが、ここでは大雑把に考える意味で定義しないとして、①側に振れる機会創出としては、進学するしないといった点でいえば、在学中の進路指導の充実、もしくは底抜けを起こさないための何らかの施策、教育組織における融通性と能力の向上という面でいえば、中高一環であるとか体験型教育の多彩さやセカンドキャリアと呼応する生涯教育などが挙げられるが、後ろの方になればなるほど整備されていないし、成功もしていない気はする。
 とはいえ、今回の記事からすれば、分岐のない一本レール途上の高校から大学への境界に差し掛かる地点での提言につなげることが前提であるため、在学中の進路指導ということになろうかと思う。
 ④側は、卑近な例として奨学金が挙げられる。
 また、職業訓練受講給付金制度なども該当するが、先述のとおり高校から大学への境界という主旨からすればあまり関係がないと思われる。
 で、個人的には、これら既存の制度がまったく害悪でしかないがゆえに結果がこれなのだ、などとは思ってなくて、制度疲労であったり、効きが甘かったり、焦点がずれてきてしまっていたりなどといった問題がそこかしこに存在し、またそれらを修正する大きな転換をよしとしない者(「大きな」と表現されるのはその「者」にとってのことだという意味で。少なくとも自身の身近にはそう言っている者はいる)も多いわけで、一朝一夕の問題ではないということなんだろうなぁ、という考えでいたりはする。

 で。
 その後に『いつも「ある視点」が欠けていると私は感じる。それは都市と地方の格差、地域格差である。』とくる。
 個人的に、『視点』ってなんぞ?という気はするのだが、それは後述。
 とりあえず、都市か地方かを原因として置き換えると、

      荒廃地  夢の大都会
  高学歴  ①’    ②’
  低学歴  ③’    ④’

のように変わるだけで、対象とする軸が変わっただけといえる。(『欠けている』という表現は、多元的であるという意味だと思えるのだが、ここでは単純化してみた)
 実のところ、①’側や④’側は大掛かりなシステムとして認知することは難しかったりするのだが、過去には、①’側は、地方大学の新設とか、④’側は公的な集団就職といった当人というよりかは次世代へ循環した先に寄与するものがあったりはした。
 現在では、既に廃止だとか手仕舞い気味だったり、その逆に向かっている部分だけが見えてしまっていたり、経験していなかったりすると、私などが考える以上に今までびっくりするほど何も手が打たれていない、と感じてしまうかもしれない。
 とはいえ、この程度のことは、高校の現代史レベルで認知できる範囲なので、特徴的な話でも何でもない。

 次に行く前に相変わらずだなぁ、と思うところ。
 氏に起因する話ではないのだが、小見出しで『問題は「貧富の差」ではない』の下に『私が主張したいのは、「貧富の差よりも地域格差のほうが深刻だ」ということではない。』と来るあたり、小学生の国語のテストで小見出しを選びなさい、という問題としてこの文章群が選ばれたらと思うとなんというか、涙が出る。
 まぁ、そんなことは分かっちゃいるけど知りゃあしねーよってことなんだろうけども。(意図的に主語がない)

 というわけで、先に進む。
 『書店には本も揃っていないし、大学や美術館も近くにない。田舎者は「金がないから諦める」のではなく、教育や文化に金を使うという発想そのものが不在なのだ。見たことがないから知らないのである。』という部分。
 一部では、氏の記事の検証が行われていたりして、大学も美術館もあるよ?どうなってんの?みたいな話が出ていたが、それはそれとして。
 本屋も大学も美術館も近くにないとして、教育を受ける側が『見たことがないから知らない』とすることを是とし常態化しているとするならば、公教育機関側の怠慢ということになりうると思う。
 『見たことがない』という状況を作り出す要因は複数考えられるが、まず、機会を提供する側が、本屋も大学も美術館も近くにないからといって「ないから見せませんでした」という方針により運営され、それがまかり通っているのであれば、場合によっては教育する側が法に触れかねない。(もし該当する者で自覚があるならば、触れたところでどってことないと思う者も多いかも知れないが)
 一部の反論では、教育機関として適切に情報提供を行っていた的な書き込みもあったりするので、『見たことがない』という状況が、たとえ見せていたとしても当人が見たと認知していないという機会を提供された側の認知の問題から発生したとも考えられるのだが、義務教育などにおいて提供された教育が当人に適切に移転されていることをどう評価するかはいろいろとあるのでパスする。
 例えば、氏が見ているはずなのに見たと認知していなかったとして、それを厳格に評価されていたとすれば、氏の現在のキャリアもなかったはずだろうし。
 それはそれとして、先述の『視点』とは、『見たことがないから知らない』という条件を置くことなのだと思われる。
 よく似たことばとして「無知の知」なんてのがあったりするが、現実に自らが何らかの知、情報、手法、解決策、事物等について知らないとか気付きもしないとか知ってるつもりだけど間違っていることはあるんだろうなぁ、と自覚できたとしても、それが具体的に何なのかは見つけにくくなっているし、自身に多大な影響を及ぼしている/及ぼすにもかかわらず自身だけでは認知できなかったり、うまい具合にセフティネットに乗っかるなどして認知する気がなくてもそこそこどうにかなることもあったりと、適正化に際してとある1つの方法だけに絞ればいいとはいいづらいようにも思う。
 ただ、概念化を進めてしまうと、『見たことがないから知らない』という要素は、都市か地方かによってのみ規定されるとは思えなくなってくる(仮定からスタートしているので一要素に過ぎない可能性が出てくるという意味で)ので、深入りしていないのかなぁ、という気がする。
 分かってやっていないのであれば、それはそれで何だけども。
 で、それ以降は自分がたりっぽく叙述されているので、特にない。
 というか、そういう自伝的な何かを読みたがっている人たちには好ましいのかもしれないが、ひねくれた年寄りからいわせれば、社会的な影響の大きいひとかどの人物になったのだから、もういいじゃん、サクセスストーリーなんだからあひるの集団に紛れ込まされてたっていいじゃん、欲をいえば、教育を受けた者たちが傷をなめあうのではなくて、そういった教育が行われないような方向にも影響力を発揮して欲しいとは思ったりはするのだけれども。
 私のようなFランというのは、実にくだらない前提からみそくその理屈を積み上げてくそったれな青写真を作り上げると罵倒されたものだが、こういった関係の話においてそういった手法を取りがちである。
 ところが、よくない環境から最高学府に登りつめるような者は、自身の経験の一部だとか少ない情報から抽出した事物を拡張的に取り扱ったとしても問題のない解答を提示することに長けているのだと思う。
 ただ、それは、よくも悪くも、そうでない者がプロセスなどと呼ぶどちらかといえばトレースが存在していないことにばかり目を奪われるリスクを秘めているということもあろうかと思う。
 とはいえ、それを分かった上でやっているのだとすれば、それはそれなのだと思うのだけども。

 で、次の記事。

 『注意してほしいのは、これらはおもに「田舎と都会の両方を知る人」から発せられている、ということである。/つまり、もっとも大きな格差を味わっている人々、田舎しか知らず、その格差の存在にさえ気付きにくい人々の声は、まだまだ上がっていないのだ。』
 えーと。
 それは、リティって魔女の話になるので危険だと思うんだけども、まぁ、いいか。
 あ、でも、これも一応社会学関連か。
 ふぅ、びっくりした。

 あと、同様に『ただし地域格差を研究する社会学者からはむしろ賛同を得ている』ってのは、田中要次氏が「あるよ」って言うのより明らかに安易過ぎる気がするので、書かなかった方がよかったか、もしくはよりにもよってここに挟み込まなくてよかったんじゃないだろうかとか、いらぬ心配を。

 『ほとんどタブー視されているようにさえ見える。』。
 考え方にもよるのだけども、社会統計学的な継続調査によって社会資本の量、質と教育の質について考察することで、全国的に予算がない中、適正配置を図るとかいうのでないかぎり、大抵は、具体的な地域、土地にまで狭まっていくことになるため、別の意味で、オープンな場では全体をタブー視せざるをえない気がする。
 それがいいのか悪いのかは言及する気はないけども。
 あぁ、これも社会学関係か・・・

 『反対意見は「こんな田舎なんてないでしょ」という消極的な否認と、「田舎はそんなんじゃない」という積極的な怒りとに分かれ、重要なので繰り返すが、もっとも私が賛同を得たかったはずの存在である後者の一部が、もっとも苛烈な反論を展開する皮肉な事態になってしまった。』というのは、個人的に非常に悪い意味での多様性なんだと思う。
 先述の『見たことがないから知らない』となる要因が複数あるように、実際に測定してみなければ分からないのだが、広範囲な地図(例えば全国)上に学生の位置をプロットし、知に対する変数を表示した場合、氏の言うとおりだとすると、大都市周辺に高い数値の者が集まっていて、離れればひどいことになっているのかもしれないが、地図を拡大していけばいくほど、どこだろうとばらついてくるのではないかと思える。
 現在のインフラ整備に伴い、残念なのか喜ばしいかは分からないが、『意見』は、一個人から他者の影響をあまり受けずに届いてしまうのが一般的であり、また、その個人と周囲との影響度合いは感覚的にかなり低いものになっていると仮定すると、合意形成の方向性が氏の思惑に沿うものでなかった理由を説明できなくはない。
 実際のところ、地理的な要因で常に劣位であって、どこでもドアが一般に普及するまではそれに抗い続けなければならないゆえに奮闘している現場の者も多いわけで、であるにもかかわらず、結果のみの比較という意味で、ぼろぼろになりながらぎりぎり踏みとどまっているような領域であればなおのこと、難しければどうするか、代替になるものはないか、別の特色が出せないかなどを血眼になって議論し、実施しているように思う。
 そういった経験があったり関係する者からすれば、「どんな」と表現しているかはわからないけども、十羽ひとからげに『そんな』だと拡張して適用されてしまうと、結果はどうであれ、そうではないといいたくなる者もいそうな気がする。
 逆に口をつぐんでいる当事者が・・・・というと、後ろにリティが立っているのである。
 恐ろしや。
 ただ、『これは、文化・教育の地域格差に対する社会の認識があまりにも不足しているため、現段階では仕方のないことであるだろう。』といったような『社会』にぶん投げていいのかどうかはよく分からない。
 とはいえ、じゃあ証明しろよといわれても悪魔の証明なのでどうにもならないようにも思うのだけれども。
 個人的には、前世紀の「地方の時代」といわれていたころとは相当事情が変わっていて、自身の足元を見ては恐れおののいたり思考停止したりするよりほかないと考える者も少なくない。
 一般的に自分さえよければいい老害と認定される根拠のない楽観はそれはそれで楽ではあるのだが、自身の足元を見て事実を知り、周りを見て情勢を知り、さらに生き残る方法を模索し、それなりの成功をおさめる者もそれはそれで少ない。
 すべてにあてはまるわけでもないけれども、いわゆる2-6-2の法則とかパレートの法則などといったものを想定するとして、『苛烈な反『論』』を持つ者は、何らかの形で現状認知なり解法なりが異なるだけで、少なくとも「認知」はできているわけだから、その研究をなりわいにするとかでなければ、現場でより有用に機能する情報が提供/共有される形になれば、自ずと上位の「2」になってもらえるのだと思えるし、教育などというヒトに限りなく近い領域で長期間継続する事象においては、1つの適切なネットワーク形成に寄与するものと思われる。
 また、これとは別に、「6」にいかにアプローチするかを考える上で、再度2-6-2を適用してその中の上位の「2」を教育なり啓蒙するなり呼びかけるなどしていく必要があるはずだと思う。
 個人的には、何らかの形で爆弾を投下した際に、上位の「2」は騒乱状態に陥るのだが、目的は上位の「2」ではなく/だけではなくて、「6」を露出させていかにそこを削るか、ということが重要なのではないかと思っていたりする。
 ただ、なんとなくだが、明確な「6」へのアプローチは見えない。

 以降、ただのツッコミとか愚痴とか。

 『PCを使ってメールで必要書類を添付して送るくらいのリテラシーは今や常識だと信じている人々が存在することには驚く。』
 情報リテラシーの話というより言語リテラシーの気もするけど、どうなんだろう。
 信じていることが悪なのではなく、それを正すことができないこと、相手をそのように導くことができないことが悪なんじゃないかと思えたりする。
 情報リテラシーが簡単には向上しないという部分のたとえとしては分かりやすいんだけども、「あなたの常識は私の非常識」みたいな方向に思考がつながる危険性が高い事例は避けられなかったのかなぁ、という。

 『大学1年生に初等文法や四則演算を教えなおす行為を揶揄する投稿をしばしば見かけるが、私には大学生の学力低下よりも、それを笑える人々の認識の甘さが問題に思える。』
 これは、立場的にいうとどっちもどっちな気がするのだが。
 一応、今回の記事が高校から大学の境界に絞っているため、本旨とは無関係なのだが、個人的には、『笑える』立場というのは、企業や組織といった社会的ハコに帰属する際に、適切にスクリーニングされているからハコの中の者の評価として笑うことが可能となっているというだけと認知しているので、特に揶揄されるべきものでもない気がするけども。
 あと、ごく個人的に、自身が大学1年の時でも英語文法なんか中学どまりで笑われる立場だったわけで、いずれの者に対してもどうこういう資格なんてないんだけども。

 『高校で初めて「大学進学」という選択肢の存在を知った』『いわゆる「底辺」と形容される中学に通っていた私には、高い学力を持ちながらも、その価値を知らず道を誤ってしまった親しい友人を多く持っていた』というところから思うに、氏のかなり昔にはなるが、私が通っていた県内2位のゴミ中学と言われていた状況と似ている(少なくとも表面的には)と思ったりした。
 で、先の2-6-2の法則だけども、教育する側も成果を求められるし、かといってヒトとしてのキャパがあるわけで、上位の「2」は極力省力化し、「6」の教化に腐心する。
 そして、下位の「2」は専門家が付きっきりでどうにか時間をやり過ごす。(できずに外部に世話にならなければならない場合はしょうがないのだけども)
 個人的に、上位の「2」は原則的に放置されるというのは該当者であって経験済だったりする。(ただし、中学までだけど)
 氏が『サバイバーズ・ギルト』と表現したように、帰結がどのような形態であれ、それを当事者が認知できるかできないかで生き方が変わってきたりはするけども、その時点でできていたところで、ゲートをくぐるために必要な学力がついてこなければ私のようにFランでさえあやしくなったりはする。
 さらに、「6」が適切かつ綿密にじっくりと教化されていた場合、「4」は放置されてしまうわけだが、実質的に地域格差云々を論じて引き上げる必要がある、もしくは施策として引き上げることが可能な領域は、「2」でしかないことになる。
 そして、ていのいい話だが、「2」は別の施設に移っていくので、問題の先送りも可能だという認識もある(そう豪語していた教師も当時はいた)ようで、私はというと、当時、工場見学の際に教えてもらった「次工程はお客様」というのを教わるべきなんじゃないかな、とか思ったりもしたものである。
 いずれにせよ、自分がたりとしては重要なエピソードだとは思うんだけども、そういうのが本旨じゃない気がする。
 あと、この手の話は、教育の世界では必ずといっていいほど、教育機関における教育の範疇なのか、それとも保護や治安などの法的に手が差し伸べられる/適正に処理される範疇なのかというのが問題となるように思う。
 そもそもすべてを適正にふるい分けられるような境界を策定し、形式化し、適用し、維持し続けることなど現実的ではないのは、多分、当事者であるとかその周辺も者でなければ、今ある現実を具体的にどうしようかという渇望から入ることが難しいために体感として理解しづらいと思える。
 ぶっちゃけ、本省も関係機関と連携しろっていってるわけだし、それを実行して成果をあげているところもあるけども、様々な利害関係やらなにやらで、振り上げた拳は下ろさないのが通例である。
 結果、その成果は、教育なのかどうかには触れないまま、事態収拾が図られればとにかくよかったとする向きがあるし、多くを望むことあたわず的に飲み込んでしまっていると感じるのは、かなりひねくれた見方かもしれない。
 個人的には、教育者は1人ではないし、法的に教育機関と定める組織に属し、さらに規定の資格を持つ者だけが教育者であるとは思っていないし、それゆえに、教育に関してあらゆるものを自身が抱え込む必要はないし、逆に法的に規定されたこと以外は教育ではないので提供する必要がないというのも推奨されるものではないと思う。
 きれいごとだけど。
 いずれにしろ、いやいや、それは教育と関係ないでしょ、という者にとっての養分になりかねないネタを結構ぞんざいに扱っているなぁ、という気はする。
 確かに、逆に配慮が過ぎると実例として現実味と鮮烈さが薄れていくのがデメリットではあろうが、主旨も見えにくくなるのもどうなんだろうかという気もする。
 いくらなんでも、格差があるよ?ってのだけが主旨ってことはないはずで、『論』風であるためには、じゃあ、どうすんのさ、という方向への糸口といったところまで持っていく必要があろうと思うのだが、センシティブな部分を刺激して騒乱状態にするだけというのもどうかとは思うので。
 騒乱状態にすることが目的というのもありだとは思うけども、いがみあっていてもしょうがないと繰り返しているところからするに、主旨ではなく、本意はどこにあるのか分からないかなぁ、という気が。

 『釧路市民にとっての「都会」といえば札幌だが、釧路と札幌は300km、つまり東京―名古屋間と同じくらい離れている。』『「文化」や「大学」といった存在が視界に入るかどうか、という差』。
 個人的に、この分より前に『見たことがないから知らない』という箇所を認知の問題も含めて考えるようにして読み進めていたにもかかわらず、『視界に入る』というより具体的な行為に狭めてきているのが、膝カックンされたようでしょんぼりしてみたり。
 とはいえ、認知の問題にしてしまうと、先述のとおり、たとえ登下校の途上にある建築物や田畑が誰のものかとか、工場や商店、事務所とかであれば何をしているところなのかとか、何を作ってどうしているのかを全て知っているわけではないのと同じで、知から除外している施設に大学が含まれていれば、近くだろうと無理だったといえば無理になってしまう。
 残念ながら、こうした概念化は、先述のとおり具体的な距離を定式化できるわけではなくて、それゆえ、経験という事象から抽出した具体的距離をもって読者にイメージをさせやすいことは確かだが、そこからはつなぎにくい。
 個人的には、過去にも書いたが、私が大学を卒業するまで親類のなかで大学を卒業できた者はいないような家系だった。
 唯一私の前に大学に入学した者がいたのだが、発狂して退学したらしい。
 そのため、親類からは、大学は狂って死ぬところやぞ(多分、退学した人はその当時死んでない)などと脅されて、結果、そのようなイメージを持ってはいた。
 こういうのも、ある意味距離感なんだろうし、氏の『障壁』も認知における距離感として換算してもいいのかも知れない。
 個人としては、そんな状況からでもFランぐらいならいけてしまったわけだが、そんなもんだったんじゃない?としか。
 もっとよかったかもしれないとかどうとか今更考える元気もないかなぁ。
 とはいえ、『くりかえすが、機会の問題ではなく想像力の問題なのだ。』とつき合わせてしまうと、300kmという数字は、機会に寄与するのではなく、本人の想像力に寄与するということになりかねないので、老婆心ながら、どちらかに絞ったほうがいいような気もする。
 さらには、機会なくして想像力は育まれるのか、という心理学的な領域には収拾がつかなくなるので踏み込まないことにする。

 『「ググる」習慣があること、余暇を文化活動に費やすこと、大卒という学歴を普通と感じること、この3つを文化と教育の指標として並列した。』。
 個人的に、ずっとこれでいくの?と一抹の不安があったりはするのだけども。
 まず、ググるってのは、個人的に重要だとは思うのだけども、普遍性という意味でそうなのかなぁ、と。
 普遍性というのは、企業やサービスの存続する期間という意味ではなくて、情報の扱い方という意味で。
 個人的な考えではあるのだけども、もうかなり昔から情報の氾濫に伴う取捨選択の重要性が叫ばれて久しいが、取捨選択どころかもはや「取」さえしない遮断回路を有効化する必要があるし、また、自らそれに順応し、さらにはそのような行動様式に対応してそれを支援するようなサービスも生まれている。
 実のところ、『大学進学者内の最上位層においてさえ、たとえググったところでウィキペディア以上の情報に辿り着く人は、そう多くない』という理由というのは、そもそも現在のGoogleという検索サービスの限界だとか言い出す人もいたりするので、せっかくなので書き残しておこうかと。
 それはそれとして、個人的に先の認知できるか否かという問題を解決するには、Googleの検索サービスを使うかどうかでは判断できないようには思う。
 以前、Googleの検索枠に何を入力したら思った答えが出るか分からない、要は検索するキーワードが思いつかない生徒がいる、という話を聞いた。
 昔、「○○って何?」→「ググレカス」みたいなやり取りが流行ったわけだが、真面目な話、この状況下においては、Googleの検索枠に○○を入力すれば答えが見つかる可能性が高い。
 ところが、何かよく分からんものを教えてくれ、といっても教えてくれないし、さらには分かる分からない以前の認知できていないことを時宜を得て的確に教えてくれるわけでもない。(一応、キュレーションとかがそういう目的を満たすはずだったのだろうけど)
 で、結局遮断回路が働いてしまっている/能動的にそうしていると、Googleを使うことが当人の目的に対して有効かどうか(当人の理解力など受け取る側の有用性を含む)が分からない気がするので。
 とはいえ、いずれにせよ、Google検索サービスをサンプルとするとしても、ググってどうしたのか、という部分の深度がある程度ないと、認知できていないことに気付くことにはなかなかつながらないんじゃないのかなぁ、という気がする。
 ただ、『習慣』という点でいえば、多様な利用方法を用いている可能性がみえてくるという考え方もできなくはないので、指標にはなるのかなぁ、とか。
 『余暇を文化活動に』ってのは、高校と大学との境界という主旨からすると分かりにくいとは思うのだが、余暇なるものでなくても日常的にやっていいのだと思われる。(上位の大学に行くには日常的ではダメなんかも知れんけど)
 あと、『文化』とはなんなのか、というのは、高名な学者たちが議論しているような領域なので、とりあえず、絞り込むよりかは、『読書や映画鑑賞などの選択肢』だけではなくて、もっと拡張して捉えていいのかもしれない。
 個人的には、コメディーをみていても文化的思考なり活動は可能だと思うし、逆に映画鑑賞しようと文化的にどうこうなければ、認知できていなかった事象に届く足がかりにはならない気がする。
 逆にいえば、文化的にどうこうとかが可能だとか要素を含むならば、スポーツでも人との会話でさえも構わないようにも思う。
 また、少なからず『選択肢』という意味での初期的な機会がある程度の数と頻度で設定されていなければ、当人の主体性のみでは幅が広がらないという現実はあろうかと思う。(こういったところも氏の想像力優先とは違ったところに私の考え方が立脚しているのがあるとは思うけども)
 ただ、氏の考える情報強者(一般的表現ではないが『情報弱者』の対義語として用いた)に直接的に結びつくかどうかはよく分からない。
 最後のはどうなんだろう。
 当人にとっては明示され行使しなければならない権利でもないし、保護者に義務もないので、個人的にそうであってほしいとは思えども、『普通』という扱いがいいのかどうかと。
 『普通』教育とかけているのだったらそれはそれでOK、とか思いはするけども、現状で選択肢を狭くする意味は何なんだろう、とか。
 ヒトは大学を終えると人生が寸断し終焉を迎えるわけでもなく、本質的にはそれ以降の長い期間もそれなりに生物として維持されてしまうことを考えると、昨今ではポートフォリオなどと呼ばれる昔のことばで人生設計というものが年齢に応じた表現や具体性、適切性、実現性などを持つ必要があるわけで、それをなくして認知できない部分とか不明瞭な部分などを抽出することもできないだろうし、あくまで、大学という学歴は考察した結果としたものでなければ、高校と大学との境界を思考停止したまま通過しただけということになるような気がする。
 別にそれが悪いわけではないんだろうけども。


 というわけで、連載らしいんですけど、より細やかに自伝が綴られるのか分析的な方向に振っていくのか。
 という意味での中間地点かと。
 実のところ、そのどちらでもなくて、読者から寄せられた実例を独自の視点で解説するみたいなお悩み相談っぽくなると、長期連載も可能なんだろうか、とか思ってみたり。
 一応、ゆとりの件を見ても想像できるように、解決策はでないが経験者や関係者が多いためにそのときの気持ちや感情から想起される意見だけは事欠かないし、その部分をヒトから除去したりリセットしたりできないだけに、ヒトというライフサイクルにしたがって長引くというものでもあるので。