「ひん」じゃなくて「しな」だけども。
 先日の祭の強行の件で、一部ではアホなのでしょうがないってことでおわりなんだろうなぁ、とか他人事っぽく(というか多くの場合はアホというフレーズは知っていたとしても他人事だろうし)受け流している気がしなくはない。
 個人的には、それなりの関連性(とはいえ、実行なんちゃらとかに近しいなんてことでは全くない)から、くだんの件にふたをし続けているのを知っていた(これまた、とはいえ多くの住人はかなり昔から知っているはずなんだけども)ので、悪意を持った見方をすれば、構図としてはある意味よく似たどこかの国の財政状況なんかに関する現状認知の麻痺が起こるのはしょうがない、・・・ということにしよう、みたいな論理性を常にうっちゃってきた。
 というのも、ひどい話、あきらかに存続し得ない定常的な状況下で存在してしまっていればするというだけだし、存在しなくなったら感情的に嫌かもしれないけども、存在しないのがあるべき形だと、先のうっちゃっていた論理性を支度部屋から再度土俵へ引きずり上げて、おもむろに「ハイハイ、今までのナシね。」と言い放つことを旨としているのは、取りも直さず直接的な影響が少ない、とリスクを見積もっているからに他ならない。
 確かに自身がどうこうできるものでないと、影響が大きかろうが小さかろうが同様の行動様式になるのが精神衛生上好ましいし、また、そっちの方が多かったりはするので、こちら側が相乗りしているみたいなものだが。

 で、私のように麻痺していた者にとっては、そういった意味でアホが他者をアホ呼ばわりできる資格もない(「ある」という個の独自の論理体系を持つ者、またはそれとは別に「ある」ことが認められる特殊な事象はそれはそれでいいんだろうけども)ので、黙っているべきだとは思っていたのだが、色々あって(いや、まぁ、いろいろなんてほどでもないが)、個人的には、強行という行為というかその選択も含めて、はたして「品よく」あるものなのだったのか?という点に疑問を感じてしまったのが強かった。
 話はそれるが、個人的な記憶で、「しなよく」の部分がどういう漢字が充てられているのかとかが気になったこともあってググってみたんだが、一応、「品」っぽかったので、安心して書いているところではあるのだけども、元に戻る。
 手前味噌な話ではあるが、各地に残される民謡なんかでは、結構「しなよく」というのが用いられている気がする。
 有名どころだと会津磐梯山なんかを思いついたが、これは結構新しいのでどうなん?というか、該当するフレーズはほぼいっしょなんで、例としては悪いと思うけども。
 で、ちゃんと例示できないまま進むと、「しな」を「品」じゃなくて「姿」となっていることもあるように(もう参考書とか手元にないんでまじ勘弁)、いわゆる「しなをつくる」的な意味合いで限定的に表現していることも多い。
 実際、当該祭においては、その先の「嫁」という箇所からすれば、女性(一部ややこしい区分については、概念・思想等が存在しなかった当時の状況を考慮して考えない)に限定されるという考え方もなくはなく、そういった区分がなされた上で、限定的な適用がされると考える者もいるにはいた。
 ということで、当該「品」が先の限定的な「しな」の「よさ」を示すのであれば、良いか悪いか以前に、選択をした者が男性であれば、制約条件にならない、と考えることも可能かもしれない。
 ただ、それが道理なのだと仮定したとして、当該選択および行為により影響を受け、実施した者が、その行為に関して、今や先の限定的な「しな」の目的よりも広範囲な行動特性、性質、社会的特質を含む現状から鑑みて、それが規定されるべき「よさ」だったのかなぁ、という点で、どうなんかなぁ、と。
 当然ながら、それが非難につながるとは思ってないし、意図もしてないけども、もしそうなら単純な知的興味として知りたいかなぁ、とか。

 個人的な感覚ではあるものの、「品」に関して、「ひん」という形式で存在する場合は、すがた、かたちといった外見、「しな」という形式においては、たとえば禁制の品といったとある目的をもったすがた、かたちのあるもの、先の「姿」と表現されるような、行動、所作なども含めたすがた、かたちの対外的な認知とその応答を含む表現(本質的には「しなをつくるの「科」と同じでもいいとは思うのだが、「品」には古語なんかではもっと広い意味が持たされていると思うので)、そして、すがた、かたちに関して、社会的な条件(例えば、地位や目的など)にそぐう持ってしかるべき、もしくは持つことが望ましい、持つことが有利になる要件という「品質」でいうところの「質」側の意味(個人的には、先の「しなをつくる」の「科」はこちら側なんじゃないのかなぁ、とか思っていたりする)も付帯するようになっているように思う。
 はたして、当該祭でいうところの「品」が何に該当するのか、それとも全く違う何かなのかは分からない。
 ただ、選択した者のインタビューを断片的に聞いた感じでは、社会的概念体(ここでいうなら祭)を本質主義的なべき論で感情に訴求する形式を取っているっぽかったので、当該人物が「品質」の「ひん」ではなくて、「しな」の中でも「質」に近い意味として認知しているとすれば、術中にはまっているのかなぁ、とか考えたりした。

 という最後の部分が基点で、考えを文章の逆にさかのぼっていったのが、今日の洗濯している最中にぼーっと考えていたことだったりした。