落下の仕方

 増田ネタ。
 「官房長官が本当に日本海に落下したときのニュースタイトル」とのことで、多分、散々話題として上がっているとは思うが、「ヒト」に対して「落下」と表現する機会があまりないことから、特殊な状況を想定しようとしたときに、増田のいうように『ミサイルが北朝鮮によって発射されるニュースが頻繁なため、ミサイル、北朝鮮、というコンテキストが共有されている』ことから、ミサイルのように打ち上げられて海に落ちるような状況を想像するに至ったことがあるように私は思っていた。
 逆に考えると、官房長官に限らず「ヒト」が『本当に日本海に落下した』という状況が、現在の国際情勢やその状況といった当該コンテクストとは切り離して考えてみても、周囲にほとんど何もない海上であるため、どちらかといえば「ヒト」ではなく「モノ」であれば「落下」と表現して差し支えないとしても、「ヒト」ある場合、表現が「落下」でないような気がする。
 増田の例示した「船から」の場合、「転落した」という表現になると思われる。
 また、「飛行機から」の場合も同様に、「転落した」もしくは自らその行為を行ったならば「飛び降り」などという表現になると思われる。
 いずれにせよ、「ヒト」である以上、安否が不明である場合、重力に従って行き着く先は当たり前のように分かるはずなのだが、確認できたのは○○「から離れた」ところしか表現しないように思われる。
 一方、シケで「船から」という場合、船が帰ってこないなどで情報がないと「投げ出されたか」とかどんどん歯切れが悪くなっていくだけで、「落下」という表現からは離れていくと思う。
 安否の否側が分かった場合は、落「下」が使えるか、というと、死亡理由が大きく扱われるとはいえ、ニュースタイトルでは「水死」と書くのは「海」で分かりそうなことだとして「死亡」という形になるため、「落下」もしくは「落下」が扱われることはなくなってくるのではないかと思われる。
 事故でもなんでもない事情とかを考えてみて、例えば「パラシュートで」という形になると、多分「降下」になるんだと思う。
 遺体の状態で運んで投げ込んだ場合、「投棄」「遺棄」になる気がする。
 そういった意味で「落下」である状況設定が思いつかない。
 それができるのが、増田という場の世界なのかも知れないが・・・・
 飛行機から「スガカン膨張管」とかいう部品が脱落して海上で落ちたら「落下」なんだろうけど、これだと「ヒト」じゃないという貧困な発想の持ち主なので。
 コメを参考に「落下」という表現で問題がなさそうなのは、上空の肉弾戦で何らかの形で自由落下に近い状況で着水した場合、「落下」でもよさそう、という気もするが、撃墜されたなら「撃墜さる」でいいし、報道時点で行方不明だった場合、航空機事故などと同様に「消息を絶つ」だろうとは思ったり。
 「モノ」扱いの呪縛から抜けられない・・・

 で、タイトルの表現という観点から、勝手な想像なのだが、海外の速報とかを見ていると、「人名: '発言'」なんていう表現はよくみるので、こういった海外配信も意識したタイトル作りをしているとして、一部でかぎ括弧を忘れたのが誤解を与えた要因だろ、というのが、もっとも収まりがいい現実な気はする。
 「人名は「発言」と言った」などという書き方で書かなくても分かる部分は述語の「言った」なのだが、およそ、日本語が述語よりは主語を積極的に省く文化である(別に日本語に限らず、そういった言語は結構多いが)ため、英語流に単語をそのまま配置するとそれなりの工夫が必要、ということになるんだと思う。
 より情報を凝縮するためにはかぎ括弧さえ無駄、という考え方もあるといえばあるのだろうが、それで言語としてたとえ解釈がかなり多め範囲も広めで存在する状態で成立するとしても、意思伝達として成立しなければ無駄ではない、と考えていいとは思う。
 かぎ括弧を用いずに述語を残して構成する、という方向性でいくと、古い表現だが、文頭で「○○曰く」とか文末に「○○談」とか「○○会見」といった表現もあったりはしたが、今では、引用としても機能するかぎ括弧がもっとも簡単なツールだと思う。
 それにしても。
 卑近なトピックとして適切な参照という考え方に似た領域の倫理レベル(おおくくりとしては主客混在)がかぎ括弧を落としたというミスにつながったのだとするなら、変なところでいろんなものがつながっているのかもしれない、とか空想したりした。
 増田の話題とは全く関係ないけど。

今週のお題「私の沼」

 どうでもいいことなのだとは思うのだが、個人的な感覚として「○○沼」という表現で「○○」に対して熱中したり夢中になったり傾倒したりする対象を指すようになったのは最近なんじゃないのだろうか、とか思ったりする。(知らないだけで結構前からだったら恥ずかしいけど)
 あくまで、個人的な感覚として、なのだが、「沼」→「はまる」という構造から「趣味」に対して用いられるようになったという連想から逆転して、「趣味にはまる」→「沼」という構造で成立した用例だと頭ではわかっていても、「沼」→「ドロ沼」という構造と、「趣味にはまる」ことに対していだく/いだかれる、他者の影響を考えないとか顧みないとか身を持ち崩すとか負のスパイラルといった非常に危機的で挽回が困難な重度のネガティブさのみが増幅されている気がして心が痛かったりする。
 とはいえ、方向の異なる同様な連想のキャッチボールに過ぎず、そもそも「はまる」という表現自体、どちらかといえば、私自身が若い頃自虐的に用いていたことからすると、今の若者にとっては、そのことばのイメージとして私が勝手に持つような変な錯綜はないのかもしれない。

 で、ひにくれているので再度混ぜっ返すとして、「沼」というイメージはどんなものなのだろう、と思ったりする。
 今や、人口増加に伴い開発が進んで埋め立てられる、もしくは干上がったりし、その後も河川整備などの一環で陸と水との境界線がはっきりしない個所というのは極端に減ってきたと思う。
 逆に、最近では親水などといった目的で時代を逆回転させる土木工事にカネをかける方向性もなくはないが、それとて「親水」である以上、その環境に伴う利用者のリスクを適切に減じる対策が施されているため、単純な先祖返りでもない。
 いずれにせよ、土木整備されたある意味造られた湿地ではなく、遠い過去から自然発生的に存在しほとんど手が入っていない湿地に足を踏み入れて全く抜けなくなった時の絶望感は正直洒落にならない。
 はたして助けは来るんだろうかとか下手をしたら翌朝までこの変な体制で突っ立っていなければならないのか、しゃがんだら完全にどろに埋まってしまうんだろうかとか当時子供心にいろいろ悪い方向にばかり考えたものである。
 まぁ、それ以上に、今思えば、見つけてもらったあとの物理的痛みを想像する方がよっぽどつらいところではあったりはしたのだが。
 結局、「沼」を「趣味」に置き換える、もしくは符合する属性を感覚的に大きいと感じる要素として抽出すると、「動けず何かあっても取り繕えない恐怖」「その自分を探す、もしくは知って欲しいが、見つけられたあとのことを想像すると嫌な気持ちにしかならない」「そして見つかったあとの精神的、物理的痛み、+後悔」といったものが共通する。
 それは、人生における密度の高い時期に醸成された歪んだ特質であるため、多分自らが物理的に滅ぶまで隅々まで浸潤し抜けきらないのだろうと思う。
 趣味なんぞ、そんな扱いなのだ。

 で、はまっていることは何ですか?と問われると、そのリスクを顧みず不用意に近づくことがそもそも愚かしいということになるためか、リスクテイクの許容能力が格段に低くなった現在は思いあたらない。
 というか、それもあるが、抑圧から解放された若い頃に漫画、小説、同人界隈に一体化してしまうレベルでほとんど生活そのものだった時期と比較すると、それに割けるリソース(気力、体力、カネ)が格段に劣化、減少したために、何か設定しようにも沼どころか靴が濡れないレベルの水溜りぐらいにしか感じなかったりする。
 私が気がつかないだけで、すでにはまるための足自体持ち合わせてないのかも知れないが、それならそれで特に問題もないといえばない。
 それにしても、どこかに、気力、体力、カネ、時間のどれも限りなく使わずにそれでいて健康を損なうことのないはまりものってのはないんだろうか。