今週のお題「私の沼」

 どうでもいいことなのだとは思うのだが、個人的な感覚として「○○沼」という表現で「○○」に対して熱中したり夢中になったり傾倒したりする対象を指すようになったのは最近なんじゃないのだろうか、とか思ったりする。(知らないだけで結構前からだったら恥ずかしいけど)
 あくまで、個人的な感覚として、なのだが、「沼」→「はまる」という構造から「趣味」に対して用いられるようになったという連想から逆転して、「趣味にはまる」→「沼」という構造で成立した用例だと頭ではわかっていても、「沼」→「ドロ沼」という構造と、「趣味にはまる」ことに対していだく/いだかれる、他者の影響を考えないとか顧みないとか身を持ち崩すとか負のスパイラルといった非常に危機的で挽回が困難な重度のネガティブさのみが増幅されている気がして心が痛かったりする。
 とはいえ、方向の異なる同様な連想のキャッチボールに過ぎず、そもそも「はまる」という表現自体、どちらかといえば、私自身が若い頃自虐的に用いていたことからすると、今の若者にとっては、そのことばのイメージとして私が勝手に持つような変な錯綜はないのかもしれない。

 で、ひにくれているので再度混ぜっ返すとして、「沼」というイメージはどんなものなのだろう、と思ったりする。
 今や、人口増加に伴い開発が進んで埋め立てられる、もしくは干上がったりし、その後も河川整備などの一環で陸と水との境界線がはっきりしない個所というのは極端に減ってきたと思う。
 逆に、最近では親水などといった目的で時代を逆回転させる土木工事にカネをかける方向性もなくはないが、それとて「親水」である以上、その環境に伴う利用者のリスクを適切に減じる対策が施されているため、単純な先祖返りでもない。
 いずれにせよ、土木整備されたある意味造られた湿地ではなく、遠い過去から自然発生的に存在しほとんど手が入っていない湿地に足を踏み入れて全く抜けなくなった時の絶望感は正直洒落にならない。
 はたして助けは来るんだろうかとか下手をしたら翌朝までこの変な体制で突っ立っていなければならないのか、しゃがんだら完全にどろに埋まってしまうんだろうかとか当時子供心にいろいろ悪い方向にばかり考えたものである。
 まぁ、それ以上に、今思えば、見つけてもらったあとの物理的痛みを想像する方がよっぽどつらいところではあったりはしたのだが。
 結局、「沼」を「趣味」に置き換える、もしくは符合する属性を感覚的に大きいと感じる要素として抽出すると、「動けず何かあっても取り繕えない恐怖」「その自分を探す、もしくは知って欲しいが、見つけられたあとのことを想像すると嫌な気持ちにしかならない」「そして見つかったあとの精神的、物理的痛み、+後悔」といったものが共通する。
 それは、人生における密度の高い時期に醸成された歪んだ特質であるため、多分自らが物理的に滅ぶまで隅々まで浸潤し抜けきらないのだろうと思う。
 趣味なんぞ、そんな扱いなのだ。

 で、はまっていることは何ですか?と問われると、そのリスクを顧みず不用意に近づくことがそもそも愚かしいということになるためか、リスクテイクの許容能力が格段に低くなった現在は思いあたらない。
 というか、それもあるが、抑圧から解放された若い頃に漫画、小説、同人界隈に一体化してしまうレベルでほとんど生活そのものだった時期と比較すると、それに割けるリソース(気力、体力、カネ)が格段に劣化、減少したために、何か設定しようにも沼どころか靴が濡れないレベルの水溜りぐらいにしか感じなかったりする。
 私が気がつかないだけで、すでにはまるための足自体持ち合わせてないのかも知れないが、それならそれで特に問題もないといえばない。
 それにしても、どこかに、気力、体力、カネ、時間のどれも限りなく使わずにそれでいて健康を損なうことのないはまりものってのはないんだろうか。