のろしについて

 watto氏の記事((【創作】劉禅密勅(前編)&後編)を読ませて戴いて、その内容とはほとんど関係のないことなのですが思い出したことがあったので書いてみたいと思います。
 私が小さい頃住んでいたことのある地域で、のろし場のことをガイドの人に説明してもらったことがありました。
 ただ、説明がざっくりしすぎ(子供向けなのもあるとは思いますが)ていて、「江戸時代は、のろしでお城まで緊急連絡してたんや。全国でも現物が残ってるとこはあんまりないんやで。」という程度だったので、結局何を連絡してたのやら何がなんだか分からずじまいだったことを今ごろ思い出しました。
 とりあえずググってみたところ、香川県ミュージアム(http://www.pref.kagawa.jp/kmuseum/shoukai/tyousakenkyu/)の『高松藩の海防施設 −狼煙場群を中心として』に調査研究の成果がまとめられていました。
 これに関して、結局のところ
  ・侵入者に対する緊急連絡
  ・藩レベル(いわゆる地方自治体レベル?)
  ・情報伝達が一方向のみ
であり、戦国武将の武田軍がのろしを用いて敵軍の動向を察知するような使い方とさして変わらないものだったと思われます。
 また、裏を返せば、海岸防御御立案提出命令を幕府が出す時点で、海防の国家的な情報網が存在していなかったとも言えると思いますし、その利用範囲を広げて海防以外の目的においても同様な情報網が存在しなかったと考えてもいいのかもしれません。
 中国ののろしによる情報収集と全土への情報伝達(外敵の侵入を知らせ諸侯を招集するとか)するようなのろしの使い方を日本でしない理由として推測できるのは、江戸時代が地方分権に中央集権的な項目を付け加えたような構造をしていたことが、国の中枢(幕府本体)にまで現場の情報を早急に伝え、さらにそこから全国に情報を早急に流す意味がさほど必要とされていなかったから、と言えるかもしれません。
 いざ鎌倉の時代のような中央集権的要素の強かった鎌倉時代はどうだったのかというと分からないのですが(学校では早馬だったと習った気がする)、、、
 あと、のろしをネットワーク的な双方向通信として利用した可能性があるのは、江戸時代の米相場の伝達だと思うですが、多分、数値自体の通信はできていなかったのではないかと想像します。(効率が悪すぎて米飛脚の方が早そうなので。)実態は手旗での情報伝達が行われ始めて、やっと単体での米相場情報の相互伝達が可能になったのではないかと思います。
 極端に少ない事例で一意に推測してしまうのは危険な行為だと思うのですが、個人的なイメージとしては、日本で高度なのろしの利用が行われなかった原因として、地形の問題もあるとは思うのですが、地政学的および政治体制的に中国と比べて高度な情報伝達ネットワークを必要としていなかったもしくは狭域通信のために代替で賄えたということも大きな因子である気がします。
 多分、こういうことを研究されている方もいるとは思うのですが、ちょっとググっただけでは出てこなかったです。
 歴史ドラマや漫画などで結構恰好よくのろしが使われる割には、思った以上に何も考えずに見ていたことに気づかされました。