郷土料理

 先日、サンマ問題のなかで給食に郷土料理が出る意味合いについて触れたが、増田でまずい郷土料理をなぜ給食で出すのか、が指摘されていた。
 コメにもあるように、郷土料理という言葉自体が希薄化しているのも事実で、各個人のその地域に対する帰属意識が失われつつあることが指摘されるところであるが、料理の側から考えると、「郷土」の料理であるのは、その地域の植生、狩猟、漁獲などの特性や気候・風土、風習、社会性(食する地位の者の生活スタイルや経済性、大陸などから移入された歴史など)から独自に確立されたということであるので、現在のように国内でほとんどの食材が同様な形態で確保することが可能な状況(コモディティ化)が進んでしまうと、「郷土」である本質的な特性は失われている状況だと思う。
 例えば、金沢ののどぐろ弁当はアカムツ自体が大都市圏において高価な魚であった関係上、需要もさほど多くなかったのだが、アカムツの人気急騰のため国内産で安定調達することが難しくなり、現在では海外産だったりする。
 また、香川のうどんは、いまや他人のふんどしのみで生産されていると言われるほど地元産が使われていない(ネギだけは作っていると一部の者は言うこともあるらしい)が、昔は讃岐三白(塩、砂糖、綿花)と呼ばれるほどの塩の産地であったし、小麦は陸稲の裏作として栽培していたためいずれも地元産のものを使っていた経緯がある。
 このような事例をもとに、産業構造の変化や社会生活の変化などで郷土料理の沿革と現在置かれている状況を知ることができ、これを食育として取り上げる向きも多いが、実際のところそれだけだと何の役に立たない薀蓄というガラクタに過ぎない。(これらの事例から地産地消に持っていっている論調もあるが、地理的表示保護制度の食材利用などといった産業規制関連案件以外においてはかなりまれであると思われる。)
 極端な例えをすると、三大欲求を満たすために、まぶたが落ちてくれば寝て、おなかが鳴ったら何も考えずに近くにあるものを口に入れ、ピーすれば、辺りかまわずピーして手が後ろに回るということを希求するのでは、はるか過去から人類の理性でもって構築してきた社会性のレベルをかなり後退させなければならなくなる。
 残り2つは今回は無関係なので無視するとして、個人の食欲に対して社会性を関与せしめるために食育は存在し、先ほどの問題意識からこの領域まで昇華しなければならない。
 また、万人に必要なことではないが、個人の食欲に対する供給者側に立つ人間としての根幹をなす心構えの一つとして構築されるべき意識を醸成することも食育の使命の1つと言える。
 供給者側に関しての問題事例については、以前にサンマ問題で触れたので置いておくとして、個人の食に対する社会的要請について、個人単体として問題がなければよいというだけではなく、家族や親類、友人など直接的な影響度を考慮しながら適切に対処する必要が出てくると思われる。
 およそ、給食で出された郷土料理がまずいなどの意識を持つところから、給食や3度の飯に限らずはらが減った時などに食っているものはなぜそれなのか(俺が選んだからとか、金払ったからとか、労働対価で交換したからという意味でなく)を考える(更なる目下の政策的な目標は社会保障費の削減に繋げることだが)きっかけにまで持っていく必要があるのだが、コメにもあるように、郷土料理が給食に出ても特別まずいわけじゃないというように、管理栄養士のレベルの低さだったり、給食センターの設備や流通の関係で美味しく作ることが簡単ではなかったり、先のサンマ問題のように材料供給者側の意識レベルが低かったりという不味いことに関する複雑な要因が存在し、本来認識する方向に持っていくべき第一歩の郷土料理の置かれている環境の変化を知るという経路さえ埋没してしまっている気はする。
 また、この考え方の展開はかなり作為的な側面(作られたシナリオなところ)もあるため、個人だけではその方向に思考を進めることは難しく、教員などによる思考の手助けが必要であると思われるため、教育指導要領に書いてある項目だけ教えればいいとか、残さず食べればそれでいいとか、何かよくわからないモノに感謝しなければならないという謎な信念があるだけの教員の下ではその意識を醸成することはまず不可能だろう。
 とはいえ、「パンをよこせ!」「パンがなければケーキを食べればいいじゃない。」「なるほど、そうするよ。教えてくれてありがとう。」で常に解決できる立場であるなら、特に問題意識を持つ必要はないかとは思うし、いらぬおせっかいだろう。
 また、知的レベルの高い層においては、先の集団的食育というかなり仕組まれた手法を用いずとも、最終的な目標である食に関する意識の醸成が達成されてしまう場合があるため、このような層にも、結果的には一律的な公教育の無駄な部分の一つと認識してしまっていいかもしれない。
 あと、コメでも指摘されていたが、一部地域においてその地域の過去の忌むべき食糧事情などから当該料理を嫌々ながらも相対的に愛でなければならなかったというできれば闇に葬りたい支障案件(○○県の何たらとか適当にあてはめてください。)などにおいては、地元民としての知識として習得する程度でよいはずで、人生において実食する優位性があるのか疑わしいとは思う。


 というわけだが、個人的には、単純に不味くしか作れないもしくは現在の味覚に合致しないのなら給食に出すな、という考えである。
 供給者側がうまくねーだろうなぁと思いながら作って、さらに消費者側に選択肢がないというのは双方が苦痛なだけだと思う。
 まとめずにひっくり返しているが、高慢な教育理論を大上段に振りかざして、教育現場の能力を超えているような教育をやろうとしても児童、生徒にとってマイナスにしかならないということだと思う。
 増田のように、ここで話のネタにはなったのかも知れないが、マイナスがそのプラスと相殺できるほどのものだったとは思えない。