仏製和語

 あまり政治的な話は扱いたくないところではあるが、とりあえず、「別の視点」とか「別の観点」という意味として書き残しておこうと思う。
 対象となるのは、フランスで起きた2度の自爆テロ事件(2件目は物理的に爆発したわけではないが。)についての捉え方である。
 捉え方と言うと漠とし過ぎているのだが、考えたいのはフランスメディアが「kamikaze」と表現したことである。
 日本人にとっては、「神風」というと、第二次世界大戦終期の神風特攻隊であり、さかのぼれば、元寇を連想することになるだろう。
 さすがにスカートをめくりあげる術とか言ってみたり、後に怪盗がついてくるような人は帰っていただくとして、個人的に神風特攻隊であっても物理的な意味で自爆ではあるがテロリズムではないと考えている。
 こう言い切るとイデオロギー云々という者も現れるように思うが、そもそもテロリズムというものが統一的に定義されているわけでもなく、さらには時代とともに変化する可能性が高い用語であるわけで、用例からすれば、フランスで言えばフランス革命あたりから一般的に用いられることばでありながら、こと現代、第二次世界大戦以降にテロリズムと認識される事案においては、戦中、戦前とはその意図などが異なっていると考えられるため、単純に同一視するものではないという考え方による。
 これさえもイデオロギーと呼ぶならしょうがないが、テロリズムが定義されていない以上、すべてが成り立たないので放置して先に進む。
 フランスの自爆テロ以降、本質的な部分で身近に感じられないためか、テロリズムがいかなるものか?を考える場面は少なく、ISISがどういう組織なのかとか、この「kamikaze」と表現されることの違和感と「kamikaze」と自爆テロの違いについて記事にしていることが多いように感じた。
 これもイデオロギー的な発言になるのだとは思うが、EU諸国などで「ヒトラー」や「ホロコースト」に喩えるような行為は激しく疑問視されるのは、当時がどうであったかどうかは別にして(当事国としては当時としてもダメというスタンスだが)現代においては人権の問題としてあってはならない行為であるとされる。
 はたして、世界的に神風特攻隊の隊員について彼らの人権を現代の考え方に置き換えてどう判断するのかという記述に遭遇したことはないのだが、近代戦において認められていないのは、そういう判断が働いているのだと思われる。
 このような観点から、個人的には、「ヒトラー」や「ホロコースト」と同様の言葉狩りに近いことまでやる対象としないまでも、「カミカゼ」を他の比喩に軽々しく扱っていいものではないと抗議(たとえ形式的であったとしても)してもいいのではないかと思うが、どうなんだろうと思う。
 先述の国内の記事に関して、「kamikaze」と自爆テロの違いに触れる記事は多いと書いたが、逆にかの悲惨な自爆テロは「kamikaze」とどういう一致点を見出してそのことばを選択したのか?についてはざっとググった感じではなさそうである。
 実際、知人に聞いても「自爆」なところが一致してるだけじゃね?とあまり興味なさそうだった。
 まぁ、興味がないと思われる内容を職業ライターが扱うはずもない。
 が、私は職業ライターでも何でもないので先に進む。
 基本的に、日本人がフランスの自爆テロをどう捉え、「神風」、主に神風特攻隊をどう認識したうえで判断したのか、と、フランス人が自国の憎むべき自爆テロをどう捉え、「Kamikaze」をどういうことばとして用いたうえで判断したのか、という場合わけを行う必要はあると思われる。
 とはいえ、それを確かめるすべは少なく、後者などフランス人の知り合いなどいない中では、不可能に近い。
 そもそも前者は日本語の記事が溢れ返っている(相違点ばっかりだが、それ以外は一致点だろう)のと、聞こうと思えばまわりは日本人だらけで、さらには、先の「「自爆」なところが一致してるだけ」という認識が正直なところだろう。
 重要なのは後者なのだが、その部分の考察に足るデータが得られないのは本末転倒である。
 が、ネタというか考え方を書き残すだけなのでそれでもいいかと先に進む。(スルーが多いな・・・)
 さて、フランス人の知り合いはいないが、学生のころにフランス語を履修していた知人から、日本でいう和製英語(ガソリンスタンドとかサラリーマンとか)のようなものと同様に、フランス語でしか通用しない日本語起源の単語として「kamikaze」は無鉄砲な者を指すと辞書に載っているという話を聞いていた。
 同じような仏製和語(?)は、「ninja」とか「tatami」とかあるらしい。
 ちなみにフランス語のオンライン辞書を引いてみたがさすがに載ってなかった。
 そもそもフランスでは、アカデミー・フランセーズが手綱を握っているはずだと思うのだが、原義と異なる用法として仏製和語を容認しているのも基準がどこにあるのかちゃんと勉強していないので分からないが、少なからずあるということで理解しておいてよさそうではある。
 感覚的には、神風特攻隊が連合国に知れ渡った時、その行為の市民にとってのイメージから現れた用法、ということになるのだろうと推測される。
 しかしながら、オンライン辞書に載っていないことを考えると、頻出単語でも一般的に知っておくべき用語というわけでもなさそうである。
 とはいえ、少なからず、フランスメディアが「kamikaze」と表現して読者にそれなりに理解されることを考えれば、現在のフランス人にとって「kamikaze」とは何を意味する表現であり、原義がいかようなものであるのか、もしくはその歴史を認識するレベルなのかどうかについて聞いてみたいところではある。
 歴史認識にまで至っていないとすればしかたがないかもしれないが、至っているとする場合、「ヒトラー」や「ホロコースト」と同様、もしくは類似した表現手法であることへの捉え方はどのようなものであろうか?と聞いてみたくもある。
 話半分なところもあるが、人権などの権利先進国といわれるヨーロッパ諸国においても、生物学的にホモサピエンスである生物すべてに権利があるという考えを持つ者は一部で、かなり限定的に考えている者も多い、ということを、その昔、教えられた。
 フランス革命における人権宣言でも実質的にホモサピエンス全てを網羅するものではなかったこととかがその例にあたるのかどうかは、そういった方面に明るくないため未だに分からずじまいだが、日本が名指しで人権後進国などと揶揄されるわりには、海外の先進国においてでも権利を侵害するような行為は頻発していることを考えると、どういうあり方が正しいのかと思えたりもする。
 それはそれとして、勝手な想像としては、自己を中心に自身を包含する領域を広げていき、何らかの形で他の領域と競合すると、自身の領域の権利を守るために行動を開始し、その論拠を確実にするために、権利は自らの領域に属する者に存するという形に意識を持っていっているように感じる。
 この考え方からすると、さきの「ヒトラー」や「ホロコースト」は自国(連合国)の民衆からすれば、自国(連合国)の民衆の権利を踏みにじったことを指す行為であって、「神風」は、信じられない方法で自国(連合国)を攻撃してきた行為というだけであって、特攻隊員の人権について重要視されることもなく考察されることもないという相違があるようにも感じる。
 身近に犠牲になった者がいないからそんなことが言える、と言われそうだが、自らの盲信で多くの者を殺めていいわけではなく、卑劣で憎むべき行為ではあるが、その行為者もまた同じ人間であり、同じ権利を持つところから出発しなければ、悲劇を繰り返さないための根本的な手段も導くことが難しいように思う。
 ただ、先のフランスの事例を見ているとそのような観点での行動は薄いように感じる。
 存する権利の位置取りが、相対的にどこに位置していると認識するか、という観点から「kamikaze」が何の精神的障壁もなく用いられているとするなら、かなり恐ろしく感じるのだが、どうなのだろか。