何が授けられるか
列の横入りを子供に指示する母親を見かけた。
横入りでいちいち心を動かされていては身が持たないのでどうでもいいといえばどうでもいい。
そういうことにする。
ただ、ふと思いついたことがある。
何かを教えると言うのはどういうことか?ということである。
例えば、親猫が子猫に狩りを教える行為が後天的な学習によって獲得したとは考えにくく、いわゆる本能行動の一つ(ここでは、一般にイメージされる抽象的な「本能」と表面的にはほぼ同じだと考えてよいかと思う。)であろうし、結局のところ、人間という種においてもよく似た本能行動を示す生理的プロセスが内在していると考えてもいいのかもしれない。
ただ、人間の表面的な行動内容が他の動物に比べて異なっているのは、そのプロセスの上に社会的な立場や後天的に獲得した能力などがのっかっているために具体的行動が異なるという考え方もあっていいのではないかと思う。
教育という領域のうち、何かができるようになることを目的とした先達としての行動というのは、動物のそれと人間という種では相関があるのかないのかぱっと想像したぐらいでは分からないほど異なっているように感じるが、それは人類がこれまでに蓄積してきた知見やそれらを運用するための社会性などから必要とされる学習行動(後天的な学習によって行動が可能になる行為)が莫大であるからであろう。
では、莫大であるからといって教育という形でそれを満たすことは物理的に不可能であるゆえ、やる意味がないわけではないし、表面的に見えている評価指標だけ満たせばよいわけでもない。
そう考えると、では、何を教えるのか?ということである。
安定的で逆に言えば硬直的な社会システムにおいては、ある程度規定され、その規定の範囲内で将来が担保されるような構造を持つことが多い。
そういった意味では、安定を見据えるならば表面的に見えている評価指標を満たすことは悪いことではない。
また、表面的に見えている評価指標を満たそうとするニーズもボリュームとして大きいため、商売が成り立つ。
そういう意味では、そういった外部サービスに頼ることも可能ではある。
ただ、保護者が子供に授けることができる教育は、自身に置き換えてみて何があるのか?ということも考えていいようにも思う。
先天的であるか後天的であるかは十分に切り分けできなくても、何らかの形でF0はF1に対して優秀な行動様式なり能力なりを授けることが種の進化としてあるべき姿ではないかとさえ思う。
少なくともスケジューラ型(あれしなさい、これしなさいと指図だけ)とか判定者型(目に見える結果からその質や量を叱責する)のような指示・管理のみに特化した行動は何かを授けるための教育とはいえないのだろうし、たとえそれに寄与したとしても程度の低いものと考えてもいいかもしれない。
以前、幼児にレジを通していない商品を持たせて店から出るように仕向ける母親を見かけたことがあるが、このようなF0の類まれなる能力をF1に授けるということは、先の指示・管理のみに特化した行動よりかはより実践的で高度な教育なのではないかと思ったりした。
というか、ぶっちゃけモラル違反だろうが触法行為だろうが違法行為だろうがそんぐらいのことを考えていないとやってられない気がする、というだけの話である。
あ、ちなみにさっきの窃盗行為(窃盗教唆?)はすぐに店員が出てきていたが、定石どおり「子供が勝手に云々」と悪びれることもなく言い訳していた。
店員の通常対応っぷりから見て常習犯の可能性も高いが、いずれにせよ、よく出禁にならないものだという気もしなくはない。
最近は防犯カメラにブラックリストの人物が入店するとアラートが出て職員が臨戦体制に入ることができるようなシステムも開発されているので、出禁なんてのはないのかもしれないが。